石田三成と小早川秀秋の旗印(写真: 俺の空 / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は開戦の経緯や、小早川秀秋の裏切りなど、関ヶ原の戦いで起きた数々の謎を解説する。

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慶長5年(1600)9月15日早朝、美濃国(岐阜県)関ヶ原には、徳川家康率いる東軍、石田三成ら西軍、合わせて約15万人が対峙していた。

前の日からの雨の影響で、関ヶ原には霧が深く立ち込めていたという。戦闘は午前8時頃から徳川の重臣・井伊直政(東軍)の抜け駆けにより開戦したと言われている。

井伊直政による抜け駆け

開戦の際に井伊直政は、家康の4男・松平忠吉を伴い、前方に出ようとしていた。しかし本来先陣は、福島正則が担当するはずだったため、福島家の家来・可児才蔵は「先陣は福島家だ。ここは通せない」と直政を制止した。

すると直政は「それはもっともなこと。我らは先陣を仕ろうとはしていない。松平忠吉様のお供にて、偵察を仰せ付けられたのだ。敵は間近。ここを通してほしい」と要求する。才蔵はそれならば仕方ないと直政らを通す。直政はすぐに前方に飛び出し、敵陣に突撃、攻め込むことになった。

――以上が一般的によく知られている開戦の経緯だ。

直政は、宇喜多氏(西軍)の陣に攻撃をしかけたというが、このような抜け駆けは軍法において禁止されている。抜け駆けにより、統率、秩序が乱れ、混乱状態になった末に、戦に敗れることがあるからだ。

直政は「此度の合戦で抜け駆けをしたこと、諸将は立腹しておりましょうか」と後に家康に尋ねたという。

すると家康は「直政のこのような行いは、今に始まったことではないわ」と上機嫌で述べたとされる(『寛政重修諸家譜』)。

ちなみに、井伊直政が伴っていた松平忠吉は、家康の4男として生まれたが、松平家忠の養子となっていた。実は、忠吉と井伊直政は縁戚にあり、直政の娘を忠吉は正室としていた。そのことを考えると、直政は、家康の息子であり、自身の婿でもある忠吉に何とか先陣を遂げさせ、初陣を飾らせようとしたのだろう。

こうした開戦の経緯は、松平家忠の孫(忠冬)が編纂した『家忠日記増補追加』にも記されているが、そこにも、直政は「斥候のため」と偽り、忠吉と敵陣に攻め込んだとある。

戦の経緯は、実際にはありえる話なのか

このように数々の史料に描かれている開戦の経緯だが、実際にはありえる話なのだろうか。

前述したように、合戦当日は霧深く、視界が良好ではなかった。よって、霧に紛れて、馬で突撃を行い、敵兵を槍で倒し、すぐに帰還することも不可能ではなかったと思われる。

とは言え、何度も繰り返すように、抜け駆けは軍法違反である。そうした行為を徳川の重臣・井伊直政がするのだろうか。

そのことを考えると、直政は福島正則を騙して、敵陣に斬り込んだのではなく、あらかじめ正則に「先陣を譲ってほしい」と相談し、了解を得たうえで、実行したことも推定できる。直政自身も軍法で抜け駆けを禁じており、本人が自ら禁を破ることは考えづらい。

これはあくまで私の考えであるが、一方で「井伊の抜け駆け」を真実と捉える研究者もいる。

福島正則は、井伊の抜け駆けを知っていたが、あえて、これを咎めようとしなかったという。武士の情け、徳川に恩を売ったなどと正則の心中が推測されている。

一方で、直政が禁止されている抜け駆けをなぜ行ったかというと「先鋒武将は豊臣系武将が圧倒的であり、徳川系は井伊直政と松平忠吉の率いる2隊しかない。このまま漫然と福島正則を一番手として戦いに入った時、東軍が勝利してもそれは徳川の勝利にはならない。同盟の豊臣系武将たちを利するだけである。この戦いを徳川の戦いとし、東軍の勝利を徳川の勝利とする形を作るために、先陣をとることは不可欠だった」からとする。

しかし、私は後世の史料・編纂物に描かれている井伊の抜け駆けは、やはり直政らの武勇を強調するためだと考える。実際の状況よりは、誇大に描かれたのではないだろうか。

こうして関ヶ原の戦いは、井伊直政・松平忠吉(東軍)が、西軍の宇喜多秀家に攻撃をしかけたことにより、幕を開けた。

戦いの様相は「通説」によると次のようなものである。両軍は一進一退を繰り返していたが、午前10時頃になると、明け方からの霧も晴れてきた。

石田三成(西軍)は、天満山に狼煙をあげ、松尾山にいる小早川秀秋、南宮山にいる毛利秀元の軍勢に参戦を促す。両軍がそれに応じなかったので、三成は使者を遣わしたが、小早川らはこれにも応じなかった。小早川らに東軍からの内応の工作があったからだ。

家康が小早川方に「問鉄砲」を撃つ

ところが、小早川は東軍の要請に対しても、手筈通りに動かなかった。石田三成軍はじめ西軍の諸勢は、頑強に戦い、戦線は膠着していた。


関ヶ原古戦場 小早川秀秋陣地松尾山(写真: kumayosi / PIXTA)

この戦況が、小早川秀秋に出撃を躊躇させた。思わぬ事態に徳川家康(東軍)は苛立ち「せがれめにはかられた」と呟き、右手の指を頻りに噛んでいたという。ちなみに「せがれ」とは小早川秀秋のことである。小早川が西軍を裏切り、出動しないことをなじっているのだ。

小早川部隊の出動がないことに業を煮やした家康は、小早川の部隊に対して、寝がえりを促す「問鉄砲」を撃つ。小早川が陣を置く松尾山に、鉄砲射撃を敢行したのだ。この「脅迫」と「挑発」に若い小早川秀秋は気が動転し、全軍に出撃を命令。小早川部隊は山を下り、大谷吉継(西軍)の部隊に攻撃をしかける。

このとき、かねて、内応の約束をしていた脇坂・朽木・小川・赤座の軍勢も、西軍を裏切り、大谷吉継隊に襲撃を開始。大谷吉継は自刃して果てた。小早川秀秋の裏切りによって、西軍は崩壊、石田三成は伊吹山中に落ち延びていく。

――というのが、関ヶ原合戦の「通説」だ。

家康からの小早川秀秋部隊への「問鉄砲」、それに端を発する小早川の裏切り。これが関ヶ原合戦の見せ場であり、家康ら東軍の勝利の要因とされてきた。

問鉄砲は一次史料には載っていない

しかし、この「問鉄砲」は、二次史料(『黒田家譜』『関原軍記大成』など)にしか記載がなく、信用できる一次史料には載ってはいない。それがいつしか「通説」となり、小説や時代劇にも盛んに取り上げられ「真実」として広まった(注:一次史料とは、対象とされる時代に書かれた史料。二次史料とは、一次史料を参考にして後の時代に編纂・記述した史料のことを指す)。

関ヶ原合戦の2日後の9月17日に徳川家臣の石川康通・彦坂元正が三河にいる松平家乗に書状を送り、関ヶ原合戦の結果を報告している史料(『堀文書』)によると、小早川らは戦いが始まると、すぐに西軍を裏切り、東軍に味方していることが記載されている。

つまり、小早川は躊躇することなく東軍側につき、家康からの「問鉄砲」もなかったということだ。 

また小早川は、9月14日に家康と和睦を結んでいたという話(『関原軍記大成』)もあるが、小早川の合戦当日の行動を考えると納得できるだろう。勝負は戦う前から決まっていたのである。

(主要参考文献一覧)
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』(PHP研究所、2019)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・日本史史料研究会監修『関ヶ原大乱、本当の勝者』(朝日新書、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)