「フィールズ賞」の授賞式に出席したホ・ジュニ教授(右)=5日、ヘルシンキ(聯合ニュース)

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【ソウル聯合ニュース】数学のノーベル賞といわれる「フィールズ賞」を韓国系数学者として初めて受賞したホ・ジュニ米プリンストン大教授兼韓国・高等科学院(KIAS)数学部碩学教授(39)は小中高校では数学のテストで褒められることが少なかったという。

 ホ教授は1983年に米カリフォルニアで、韓国・高麗大統計学科名誉教授の父とソウル大ロシア語ロシア文学科名誉教授の母の間に生まれた。

 米国籍ではあるものの、2歳のときから韓国で暮らしはじめ、韓国の小学校と中学校を卒業。高卒認定試験を経て2002年にソウル大物理天文学部に入学した。07年に同大を卒業し、09年にソウル大大学院で修士号、14年に米ミシガン大で博士号を取得した。

 フィールズ賞受賞者の多くが幼いころから天才的才能を示すのと異なり、ホ教授は小学生の時、数学の成績は思わしくなかったという。数学が苦手と考えたほどだった。

 ホ教授は17年に受けた科学関連のオンラインメディアのインタビューで、若い頃は数学が「潤いのない科目」と感じ、「創造的な表現がしたくて詩を書き始めた」と話したことがある。

 詩人になることを夢見たホ教授は、生計を立てるために科学記者になることを考えていたが、大学4年のときにソウル大に招かれた日本の数学者、広中平祐教授の講義を聞いて、人生のターニングポイントを迎えた。

 広中教授は1970年にフィールズ賞を受賞している。

 最初の科学記事として広中教授にインタビューを行おうと考え、広中教授の講義を受講し、昼休みに会いに行った。その後も親しい関係を維持し、20代半ばに数学者としての道を本格的に歩み始めることになった。

 ホ教授の修士課程時代に指導にあたったソウル大数理科学部の金泳勳(キム・ヨンフン)教授は聯合ニュースのインタビューで、広中教授を招いた当時を振り返り、大学側が学生に教授の講義を受講するよう促し、当初は席が埋まっていたが、学期が終わるころにはホ教授をはじめとする数人しか残っていなかったと伝えた。広中教授がホ教授を褒めたこともあるという。

 広中教授は前述のオンラインメディアのインタビューで、自身が日本に帰国した後も交流が続き、ホテルが好きではないというホ教授を自宅に泊めたと紹介した。

 ホ教授は博士課程1年目の2012年から数学の難題を一つずつ証明し、頭角を現した。

 ホ教授は2人の数学者とともにロタ予想を証明するのに成功し、「数学界の頂点に立った」と評価された。これは博士号を取得してから3年過ぎた2017年のことだった。

 ホ教授のように遅くに出発した学者がこのような成果を出したことについて、数学界では、「18歳からテニスを始めた人が20歳でウィンブルドンに出場し、優勝したようなもの」と比喩する。

 数学の世界では、新たな発見のため長ければ数十年の研究が必要で、このような例はほとんど起こり得ない。

 韓国では数学嫌いの人を「数学放棄者(数学を諦めた人)」と呼ぶが、数学放棄者になっていたかもしれないホ教授はフィールズ賞受賞という大輪の花を咲かせ、その経歴を飾った。