1985年11月、初の公式試運転に挑むドイツの高速列車ICEの試作車両(撮影:南正時)

コロナ禍で華やかな話題に乏しい鉄道界。だが、今年2022年は東海道新幹線の「のぞみ」運転開始から30年、昨年2021年はフランスのTGV営業運行40周年、ドイツのICEも30周年と、高速鉄道の歴史にとって節目となる年が続く。

高速鉄道の元祖である日本の新幹線0系は最高時速210kmで運行を開始したが、以前は「レール上の最高速度は時速250kmが限界、次世代は浮上式鉄道(リニア)に委ねる」という風潮があった。その後、技術の進歩で時速300km以上の営業運行も可能との見方が強まり、さまざまな試験を経て現在は東北新幹線の一部区間で時速320km運転が行われている。フランスも時速320km、ドイツなども300km運転を実施している。

筆者はこれらの列車の試験や営業運転の開始、そしてその後の展開などを取材・撮影してきた。そこで、今回はドイツのICE開発途中に筆者が体験した「秘話」や開発技術者との交流など初公開のエピソードも交え、超高速鉄道への挑戦について振り返ってみたい。

時速300km超えへの挑戦

日本では新幹線のスピード向上は国鉄時代の一時期停滞し、1981年にフランスのTGVが開業すると世界最高速列車の座を譲った。だがJR発足後は時速300km以上への挑戦が本格化し、JR東日本の「STAR21」952・953形(1992〜1998年)、JR西日本の「WIN350」こと500系900番台(1992〜1996年)、JR東海の「300X」955形(1995〜2002年)の「新幹線試験車3名車トリオ」がそれぞれ速度試験に挑んだ。現在、日本の新幹線を走っている新幹線車両はこれら3列車と、2005〜2009年に試験走行した「FASTECH360」E954形が基本といっていいだろう。

一方、TGVはガスタービン式の試作車TGV 001(Train à Grande Vitesse 001)が1972年に登場し、時速318kmの速度記録を樹立した。だが、石油危機の影響で燃料消費の多いガスタービン式は採用を見送り、電力による運行に方針を変更。1981年9月のパリ―リヨン間高速新線(LGV南東線)開業時には、電気機関車に客車をはさんだ形のTGV-PSEが営業最高時速260kmで運行を開始した。

TGV-PSEは南東線開業前、1981年2月26日の試運転で当時の世界最高速度記録である時速380kmを達成している。筆者は南東線開業の数カ月前から試運転列車を取材していたが、試験列車は当時確認できなかった。


試運転中のTGVを取材中の筆者=1979年(撮影:南正時)

その後TGVは大西洋線、北ヨーロッパ線などと路線網を拡大したが、スピードの世界記録も次々と更新していった。日本の新幹線と異なるのは、試験車でなく営業用の車両によって速度記録を達成していることだ。1990年5月18日には開業を控えた大西洋線で時速515.3km、さらに2007年にはやはり開業直前の東ヨーロッパ線で時速574.8kmという、鉄車輪式の鉄道では世界最高速度となる記録を樹立している。

ただ、この速度記録を達成した車両は営業用の量産車で試験後は通常運転に就いているものの、試験の際は特別に仕様変更してハイパワー化しており、世界中にTGVの売り込みを図るデモンストレーションともいうべき記録達成だった。日本の新幹線を大いに意識したであろう速度記録に刺激されたか、スペイン(AVE)や韓国(KTX)はTGVベースの車両を導入した。

成功しなかった高速列車も…

各国が高速鉄道技術の開発を競う中で、失敗に終わった例もある。鉄道発祥の国イギリスが1970年代から開発を始めたAPT(Advanced Passenger Train)だ。まず1972年に独特な外観のガスタービン式車両「APT-E」を試作して各種試験を行った後、第2弾として電車方式の「APT-P」370形が登場した。

APT-Pは日本でいえば「量産先行車」で、1981年よりロンドン―グラスゴー間で暫定営業運転を開始したが、営業運転初日に異常が発生して緊急停止、そのまま運転を打ち切るという恥ずべき事態を引き起こした。その後もトラブルが続き、1985年12月に突然運転休止を表明。1986年にAPT計画自体が中止となった。

だが、APT-Pに搭載されたある技術はその後他国で生かされ、成功を収めている。その国はイタリアだ。

イタリアは欧州で初めて高速新線を建設した国で、1977年にローマ―フィレンツェ間のDirettissima(ディレッティシマ)が一部開業し、1983年には時速250km運転を実現している。現在は時速360km走行も可能な性能を誇るフレッチャロッサ1000などが高速列車の顔だが、この国の特徴的な車両といえば「ペンドリーノ」といわれる、カーブ通過時の乗り心地を改善する車体傾斜装置を備えた高速列車だ。

筆者は量産型ペンドリーノの初代車両、ETR450の運行開始時に同乗取材を敢行したが、そのときにイギリスのAPTの車体傾斜機構がフィアットに売却され、ペンドリーノの改良に生かされていると知った。ETR450は営業運転の最高速度は時速250kmだったが、試験運転では時速320kmをマークしている。どこかクラシックな流線形と赤を基調とした大胆な色使いはさすがイタリアのデザインとファンも多い。ペンドリーノはその後も発展を続け、在来線高速化に向いていることから各国で導入されている。

ドイツICE試運転同乗の思い出

欧州で、フランスに次ぐ本格的な高速列車となったのがドイツのICE(InterCityExpress)だ。開発のための試作車は西ドイツ時代の1985年に登場し、こちらは同じICEの名ながらもEは実験を示すExperimental(エクスペリメンタル)の頭文字だった。


ICE試作車。試運転中に停車してもらい撮影した写真だ=1986年(撮影:南正時)

この車両は1985年11月26日にビーレフェルト―エッセン間の在来線区間で時速317kmを記録。翌1986年11月には同区間で当時世界最高となる時速345kmをマークし、さらに1988年にはフルダの新線区間で時速406kmに到達し、世界最高速度記録を更新した。

筆者はこのICE試作車を試運転開始のころから何度も取材したが、1985年11月26日の初の公式試運転には同乗取材しており思い入れが深い。この時の取材ではこれまで語ることのなかったエピソードがあるので、今回初めて公開することにしよう。

公式試運転はビーレフェルト中央駅で交通大臣など政府要人も参加してセレモニーが行われ、「速度世界記録を出す」という触れ込みだった。

筆者は公式試運転の同乗取材を申し込んだものの断られ、同行のTBSボン支局の取材クルーも同乗を拒否された。だが、この取材クルーのドイツ人女性の通訳が西ドイツ国鉄(DB)の広報と再度掛け合い、その場で同乗取材OKの許可が出たのだ。

「どうして許可が出たの?」と聞くと、広報に対して「アンタ(広報)たちね、あの日本人クルーを乗せないと日本で何を書かれるかわかんないわよ」とタメ口交じりで交渉したようだ。新幹線とのライバル関係もあってか、こうして同乗が許可された。

夕闇迫るビーレフェルトを発車したICE試作車はぐんぐん速度を上げ、やがてドイツの鉄道で初となる時速315kmに到達し、車内では祝いのシャンパンが振る舞われた。その席で筆者にコンタクトしてきたDBの技師がいた。ICE開発技師のペーター・L氏だった。

彼の名刺の裏には日本語のカタカナで名前が書かれていた。聞くと、東海道新幹線の視察のために10日後に東京に行くというのだ。公式に新幹線の視察を申請したが断られたといい、来日後は筆者も陰のサポーターとして1カ月にわたって彼をヘルプした。彼は安ホテルに泊まり、東京―新大阪間を100系新幹線で何度も往復したという。

1人だけ許可されたICE3同乗

そして数年後、1991年6月2日のICE開業式の日、私はペーター氏の招待でカッセルでの式典に参加し、ヴァイツゼッカー大統領(当時)の目の前というポジションで取材することができた。


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後日、ペーター氏とその上司へインタビューすると、「実は東海道新幹線にはジェラシーを感じていたんだ、それだけに100系新幹線には学ぶことが多かった」といい、トンネル内でも通話可能な電話システム、食堂車の供食方法、外観デザインのシンプルさなどがICE量産車に生かされたという。なるほど、ドイツの車内販売のコーヒーはそれまでインスタントだったのが、ICEではドリップで陶器のカップで提供された。コーヒーポットも100系と同じ日本製のメーカーのものだった。

そして1999年9月15日、当時最新の高速列車ICE3の初試運転の日に、スタッフ以外では筆者1人だけ同乗ルポが許可され、高速新線を初日に時速334kmで走行したのだった。DBのスタッフはこう言った。「ミナミ、キミがICE3に乗る初めての日本人だよ。ペーターから聞いているよ、キミがICEの開発に貢献したひとりだと……」。ICEの開発時から取材を続けてきた筆者にとって、これは嬉しい言葉だった。