東海テレビ報道局内に密着したドキュメンタリー映画『さよならテレビ』。同作が明かした、「テレビ業界の闇」とは? 東京・ポレポレ東中野、渋谷ユーロスペースなど全国順次公開中(写真:©東海テレビ放送)

テレビに関する原稿を書いている同業者やテレビ局の人から「あの番組、観た?」と言われた。放送圏が限られていて、関東では観られなかったことから、録画したDVDが密かに貸し借りされており、入手困難とも聞いた。テレビの裏事情をさらけだした問題作と言われながらも、実際に観た人が周囲にあまりいなくて、半ば都市伝説のようになっていた。

それが東海テレビのドキュメンタリー番組『さよならテレビ』だった。この正月から映画館で上映されていると聞いて、観に行ってきた。

私事だが、2016年頃からフジテレビ報道局の夕方の番組から声がかかり、たまにちょっとだけ出演している。「みんなのニュース」「プライムニュース イブニング」、そして今は「Live News it!」である。日雇いの立場なので、契約もなければ制限もない。期待もされていないので、呼ばれるたびに社会科見学気分で報道局を眺めている。

裏事情もうっすらと見て、「さもありなん」「致し方なし」と思うこともあれば、「これだからテレビは!」と思うこともあるっちゃある。だから、期待せずに鑑賞したものの、テレビ局が抱える生々しい悩みがてんこもりで、ぐっと引き込まれる1時間49分だった。

3人の物語、人選の妙

構図を簡単に説明する。東海テレビの報道局内にカメラを据え、「テレビの今」を伝えるドキュメンタリー番組を作る、という圡方宏史ディレクター。ところが、報道局の上層部からは「気になって仕事にならない」「何を撮りたいのかわからない」「やめろって言ってんだろ!」と拒まれる。

身内からの塩対応でかなり不穏なスタートだ。それでも、当たりの柔らかい人物に絞り込んで撮影を進めていく。「不器用でうっかりさんの若手新人記者」「スポンサー絡みの案件を器用にこなすベテラン契約記者」「自分の色を出せないアナウンサー」。

この3人の日常を追いつつ、報道局内の重い空気感も映し出していく。
実はこの人選が、テレビ局の悩ましさをあぶり出していて、うまくできているなぁとうなってしまった。内容に踏み込んで書いたので、これから観ようと思っている人は、ここで読むのをやめてください。

即戦力はほしいが、若手育成も組織の基盤として必要。しかし20代が居つかないのがオールドメディアの宿命……、そんな悩みを肌で感じさせたのが若手新人記者・渡邊雅之の奮闘だった。

デフォルト笑顔で、よく言えば愛嬌があるものの、「期待の新人」とは言いがたい。人名の読み方を間違えるわ、顔出しNGの取材対象者の映像を出そうとするわで、言っちゃなんだけど、根本的に報道に向いていない印象。それでも怒られながら成長していく姿を追うと思いきや、1年で「卒業」を言い渡される。彼は制作会社からきた派遣社員だったのだ。

映像の中にもあったが、「卒業なんてきれいごとですませていいのか」という意見もある。確かに難ありだが、本人は続けたい意志をもっていた。問題は「若手を育てる余裕がない」ことにある。ただでさえ時間も人員も足りていない状況で、さらに「働き方改革」のあおりを受け、残業禁止令も発令。有能とは言いがたい若手を手取り足取り優しく育てる余裕など、ない。

逆に、テレビ局の人から聞いた話を思い出した。「20代の子はGW明けが第1関門。4月に入ってきて、仕事のイロハを丁寧に教え、GW明けると会社に来なくなって辞める」という。この繰り返しで、若手は育つどころか根付かないそうだ。使えない・居つかない。テレビ局に限ったことではないが、実に悩ましい問題である。

忖度・迎合・問題意識のなさ

そして、ベテランの契約記者・澤村慎太郎の憂い。柔和な笑顔で「Z案件」をこなす。Zとは「是非ネタ」、つまりスポンサー絡みのヨイショネタのこと。「抵抗はないです」と言いつつも、実は権力の暴走には危機感を抱き、つねにアンテナを張り巡らせている、気骨ある記者だとわかる。

撮影当時、国会で審議されていた「共謀罪」につながるネタを澤村がまとめたものの、本放送では政府が名付けた「テロ等準備罪」の文言で統一されてしまった。危機感や問題意識をもつ人がここ(報道局)にはいない、と漏らす澤村。権力に迎合する報道姿勢に、憂いと憤りを感じているのだ。

彼の憂いの対比として、何度か挟まれた映像が実に興味深い。テレビ局には小学生が社会科見学に訪れる。報道部長が子どもたちに講義をするのだが、そのタイトルは「報道の使命」。内容は、

1. 事件・事故・政治・災害を知らせる
2. 困っている人(弱者)を助ける
3. 権力を監視する

とある。この文言を何度か映し出すあたりは、報道局全体に対する完全なる揶揄であり、皮肉でもある。澤村は、圡方ディレクターら撮影スタッフにもたびたび疑問を投げかける。テレビが抱える闇はもっと深いのではないか、と。

確かに、ワイドショーやニュースを観ていて、「ああ、この番組(局・人)は権力側の立ち位置ですね」とわかることもある。ド素人の私がわかるくらいならまだいい。権力に追従して、視聴者に伝えるべきことを伝えないほうがよっぽどたちが悪い。それでも上の判断で、番組は構成される。

反省と検証、そしてトラウマ

最後は、福島智之アナウンサー。そつなく進行をこなすものの印象が薄く、番組の顔としては弱い。副調整室では福島の「色のなさ」にため息とダメ出しの言葉が漏れる。メインキャスターとして新番組が始まるというのに、自分が前面に出ることに悩んでいた。弱気な発言で「向いていない」とつぶやく。というのも、福島にはトラウマがあったからだ。

2011年、生放送中に岩手県産のお米プレゼントの当選者を発表する際、「怪しいお米」「セシウムさん」などと、とんでもないテロップを流して大問題になった。「ぴーかんテレビの不適切テロップ事件」である。当時、キャスターを務めていたのが福島だった。ネットでたたかれ、番組は打ち切りに。福島は非難の的にされてしまった経緯がある。

喪失感や苦悩を抱える人を小バカにした文言は許しがたいし、大失態だ。ただ、匿名かつ執拗なネットの批判をメディアはどこまで受けとめるべきか、とふと考えてしまった。東海テレビはこの致命的な失敗を二度と繰り返さないために、「放送倫理を考える全社集会」を毎年行っているそうだ。

その割に、覆面座談会企画で出席者の顔を映し出すというミスを犯しちゃったりして。このドキュメンタリーは反省に基づく自己検証を行いながら、報道局ができれば隠しておきたい恥部もしっかりさらけ出していた。

ラストシーンをどう捉えるかは人それぞれだが、3人の来し方行く末とテレビ局の悩みが実にうまく構成されていたと私は感心した。「ある種の予定調和」も感じられた。構成のうまさを感じた時点でドキュメンタリーとしての精度が失われる、と考える人もいる。

でも、予定不調和のリアリティーをぶんなげられて終わるよりも、作り手の意地悪さや問題提起を肌で感じつつ、多少の作為で「テレビ的に」まとめられたほうが断然見やすいし、実は面白いと思った。響く、とも思った。

「テレビ的」なものこそ数字を取るジレンマ

今、テレビは「いかにもテレビ的」と批判され、そこから脱却しようともがいているのだが、実は「いかにもテレビ的」なものが数字を取れるというジレンマもあるだろう。報道番組だが冷凍食品の特集で視聴率が上がり、局内が盛り上がるシーンもあった。皮肉と諦観を矜持に変えるためにも、このドキュメンタリーが多くの人の目に触れる必要があると思う。

渋谷ユーロスペースで観たが、テレビ業界人と思しき人々がちらほら。前半では笑いが起こり、「あるある〜」的な反応だったが、最後のほうは固唾をのんで凝視していた(ような気がする)。私も同様である。

「さよならテレビ」というタイトルはテレビ局の人間だけに向けた言葉ではない。冷凍食品の特集はじっくり観て、共謀罪のニュースはさらっと聞き流す、そんな私たち視聴者に向けた皮肉かもしれないなと思った。