連載「礎の人 〜栄光の前にこの人物あり〜」第1回:田尾安志(前編)

 派手なファインプレーは誰が見ても分かる。優勝の瞬間のヒーローもまた万人は知る。しかし、その場の勝利は遥か彼方にありながら、創成期や過渡期のチームを支え、次世代にバトンを渡すために苦闘した人物に気づく者は少ない。礎を自覚した人は先を見据えた仕事のしかた故にその結果や実績から言えば凡庸、否、惨々たるものであることが多い。しかし、スポーツの世界において突然変異は極めて稀である。チームが栄光を極める前に土台を固めた人々の存在がある。「実はあの人がいたから、栄光がある」という小さな声に耳を傾け、スポットを浴びることなく忘れかけられている人々の隠れたファインプレーを今、掘り起こしてみる。

 連載1回目は、東北楽天イーグルスで初代監督を務めた田尾安志。


楽天からの監督解任発表を受け、会見を行った田尾安志(2005年)

 中日新聞文化部で丁寧な仕事をこなしている中村陽子というデスクがいる。企画するテーマが秀抜で知る人ぞ知る逸材である。小学2年生の時にナゴヤ球場のある尾頭橋に住んでいたという彼女が話してくれた思い出がある。場所柄、同級生と中日ドラゴンズの選手の入り待ちをするのが流行っていた。ある日、学校帰りに友人のあかねちゃんと外で待っていると、球場に入ろうとする田尾安志選手が車から降りて来た。子どもだけで駆け寄るせいか、だいたいの選手に邪険にされることはなかったが、田尾に握手をお願いすると、とびきり優しく目を見て快く両手を握ってくれた。背番号2を見送りながら、嬉しくて友だちと「もう、手を洗えないね!」と喜び合っていたら、30mほど先からくるりと振り返って「手は洗わなきゃだめだよ〜」と爽やかに声をかけてくれた。

 小さき者に対する優しさ、ということが伝わる話だ。一方でその甘い風貌からはイメージしづらいが、強い者、権力を持つ者に対しては田尾ほどの硬骨漢もいない。

 闘将と呼ばれるある指揮官と田尾が新幹線で乗り合わせた時にこれを目撃したという人物から聞いたエピソードがある。

「俺らみたいなのが一番いいな。周りには気を遣わんけど、好きなようにやるためにはここ(親指を)というところだけ掴んでおけばいいからな」

 要はワンマン組織のトップの心証さえ抑えておけば、予算も取れるし人事も操れるということだ。それに対して田尾はこう返した。「そういうやり方でチームを運営されるのはわかります。ただ、僕は違います。僕はそのやり方は出来ないんですよ」。闘将は黙ってしまった。

 自分のためというよりも選手や裏方のため。筋を通すためなら干されることもクビになることも厭わない。オーナー企業の会長だろうが、小学一年生の子どもだろうが接する人によって態度を変えない。生き方がそれを証明している。私の持論だが、真の闘将は田尾である。 

 田尾は組織のトップにも一切おもねらず、正論をぶつける。政治的な駆け引きもジジ殺し的な折衝もしない。ましてや上に好かれて自分のポジションを安泰にしようとも思わない。

「楽天の監督に就任する際、三木谷(浩史)オーナーに『僕は自分が正しいと思うことしかやらない監督です』と言ったんです。それが嫌なら尻尾を振る人はいっぱい居るから、そういう人にやらせてあげたらいいじゃないかと。僕は何よりも東北にできた球団をいい方向に持っていきたいと思って引き受けました」

 楽天の初代監督というのは、まさに火中の栗のコレクターだ。球界再編の煽りから生まれた新球団の戦力は分配ドラフトで構成された。すなわち、近鉄バファローズと合併したオリックス・ブルーウェーブ(現オリックス・バファローズ)のプロテクトから洩れた選手と他球団で戦力外とされた選手たちの参集だったのだ。きつい言い方をすれば、必要としないと判断された(岩隈久志や磯部公一のように自ら楽天への移籍を希望した例外もある)選手たちの集合体。開幕前から最下位は決まっているようなもの。しかし、指導者としてのキャリアに傷がつくことを承知で誰かが引き受けなければならない。

「以前からマーティ・キーナート(楽天初代GM)からアドバイスを求められていて、それで最終的にやってくれないかとオファーを受けたわけです。最初は『僕を地獄に落とすのか』と答えたのですが(笑)。あの(球団側と選手会がもめていた)時の渡邉恒雄会長の『たかが選手が』という酷い言葉も気になっていましたし、守らないといけないものがあると考えたんです。三木谷さんには、『企業名をユニフォームに入れないというのはどうでしょうか。メジャーリーグに倣って』と提案し、『それは良いアイデアですね』と言ってもらえて、面白いオーナーだなと思ったのも引き受けた要因のひとつです(結局、企業名はユニフォームに入ることになる)」

 今年15年目を迎える東北楽天イーグルスであるが、不思議な因縁で今季からチームの監督に就任した平石洋介は、田尾がドラフト7位で最後に指名した選手である。この選択が無ければ平石の人生もまた変わっていたはずだ。誰がどう見ても最下位になるチームを引き受けた田尾が掲げたテーマは「何とかプロのレベルと言える最下位にまで(チーム力を)持っていって次の監督にバトンを渡す」ということだった。

 開幕戦こそエースの岩隈でロッテに勝利したが、2試合目は26対0という歴史的な敗戦。以降も連敗は続いた。監督に対する批判は覚悟の上であったが、予想だにしなかったことが起こった。

「どれだけ負けても東北のファンの人たちがものすごく暖かく応援してくれたんです。ヤジる人が居なかった。僕は中日、西武、阪神と現役をやりましたけど、ダメだとヤジられるという文化で育って来ましたから、これは嬉しかったです」

 田尾は自らのバッティング指導を通じて徐々に選手を再生、もしくは才能を開花させていった。オリックスを自由契約になっていた山崎武司に関しては、入団前からスイングを直せば打てると確信していた。体重を後ろ軸にして打つようにアドバイスを送ると、山崎は新境地を開いていった。その潜在能力に気づき、阪神とのトレードで獲得した沖原佳典もまた、移籍して1年目で.313の高打率をマークした。

 結果が出ないことによる圧力はむしろ意外なところから来る。オーナーの方から部下を介して4月の段階で若手を使えという要請が来た。田尾は使いたいのはやまやまだが、”今、使える若手が見当たらない”と返答した。

「連敗してる監督がなぜ若手を使いたがるかといったら、『若手を育成してます、ファンの人たち、何とか我慢してください』というのがひとつの言い訳になるからです。でも、それが『こんな選手を使うのか?』となるとチーム内がバラバラになる。プロは裏方さんも含めて生活がかかっているんです。やっぱり、『こいつを使った方が勝つ確率が高いだろう』というのはわかるんです。そういうのを僕は見てきたので、若いという理由だけで使うというのはできない。監督の仕事というのはベストナインをどれだけグラウンドに置けるかということなんです」。選手起用は監督の専権事項である。 

 さらに4月に11連敗した時に、オーナーはヘッドコーチの山下大輔と打撃コーチの駒田徳広を二軍に落とす指示を出した。田尾は激怒する。

「2人のコーチが駄目で負けているわけじゃないから、それはおかしい」

 そもそもが他チームとの間に動かしがたい戦力差があるのだ。精一杯抵抗したが、人事は決行された。自ら招聘したコーチが連敗の責任を取らされることに納得のいかない田尾はすぐに辞表を書いた。「自分だけ生き残るわけにはいかない」。妻も賛同した。「『これで(辞表を)出さなかったらパパじゃないよ』と女房も言ってくれました」。

 辞表を提出しようと持って行ったが、球団から山下が二軍監督を引き受けたことを伝えられ、その矛先を収めた。山下が田尾の気持ちを汲んでチームに残ってくれたのである。

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