東海大学 長倉 蓮選手「1年から頑張れば、2年生、3年生になって返ってくる」

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 昨夏、全国制覇を成し遂げた東海大相模で主将を務め、今春からは東海大でプレーする長倉 蓮選手。はたして、長倉選手はどのように高校野球のスタートを切り、どのような3年間を過ごして甲子園優勝までたどり着いたのだろうか。

とにかく一番目立つことを考えた

長倉 蓮選手(東海大学)

 小学生の頃から東海大相模の縦縞のユニフォームに憧れ、甲子園でプレーする事を夢見ていた長倉選手。全国でも屈指の名門校で野球をするため、中学時から硬式野球の強豪・湘南ボーイズに在籍して技術を磨き、準備をしてきたという。それでも「ボーイズの監督からは、『東海大相模にはレベルの高い選手が集まるから、試合に出場できるようになるかは分からないぞ』と言われていました」

 実際、優勝メンバーの一員でもある右翼手の豊田 寛(国際武道大)と中堅手の宮地 恭平(東海大)も入部時はキャッチャー。入学早々、熾烈なポジション争いが繰り広げられたが、当時の長倉選手が心掛けていたのは「とにかく目立つこと」だった。「入部した当初から同級生の先頭に立つように振舞っていて、練習中、1年生に集合がかかったら、自分が真っ先に声を出して集合をかけていました。誰に言われた訳でもなく、勝手にやっていた事なんですけれども(笑)」

 こうして、同級生の中では自然と中心的な役割を担うようになった長倉選手。プレー以外の部分でも、チームをまとめようとする姿勢が、周囲にも受け入れられた結果と言えるのだろう。

 もちろん、プレー面でのアピールもあった。「その頃は打撃がセールスポイントだったので、ティーバッティングでは奥の方の打席ではなく、できるだけコーチが見ている前で打つようにしていました」

 当然、その裏側では地道な努力を重ねていた。「入部したばかりの時期は帰宅したらすぐに寝てしまう生活だったので『1日が48時間あればいいのに』と思っていました。でも、ゴールデンウィーク頃に入寮できたので、往復の通学に費やしていた2時間を有効に使えるようになったんです。それで、全体練習が終わった後は先輩がまず自主練習をするので、その間は部屋でゆっくり過ごして、だいたい夜の11時頃から自主練習を開始。12時から1時くらいに終わって、2時に就寝という生活を続けていました。今、振り返ると『よくやっていたな』と思うんですけれど、自分は気になるところがあったら放っておけない性格なので、その日のうちに課題に取り組んでバットを振れる環境になったのは大きかったですね」

 1年秋にはキャッチャーのレギュラーポジションを獲得。2年夏には甲子園出場を果たしたが、結果は初戦敗退だった。「6回に満塁から勝ち越しタイムリーを打たれた場面は強烈に覚えているのですが、その後は一瞬で終わってしまったような感覚で、夢の舞台に立って完全に浮き足立っていたんだと思います。当時のチームは2年生が多く出場していたのですが、この試合では活躍できず、僕らが3年の代を終わらせてしまって本当に申し訳なかったです。先輩達も泣き崩れていたのですが、それでも『来年、甲子園に戻って来いよ』と声を掛けてくださったので、『次こそは……』という思いは強まりました」

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長倉 蓮選手(東海大学)

 甲子園から地元に戻ると、長倉選手は新チームの主将を任される事になった。「最初は暫定的だったんですが、自分もチームメートも『そうなるんだろうな』と思っていましたし、キャッチャーというポジションをしている事もあって、最後まで続ける事になりました」

 ただ、個性の強い選手が多かった為、チーム内の意見が合わない事もよくあり、まとめ役の長倉選手は胃炎を患ったという。そして、結局、その年の秋季神奈川県大会は4強止まり。「小笠原 慎之介(中日)と吉田 凌(オリックス)というエースがいて、この2人が投げる試合は『大丈夫だろう』という甘えがあったと思います。門馬 敬治監督からは、ずっと『打たなきゃ勝てないぞ』と言われていたのに、夏と同じ失敗を繰り返してしまいました」

 センバツ出場の道が絶たれ、当面の目標を失ったチームはモチベーションが低下。練習試合では投手陣が簡単にホームランを打たれ、打線も粘れずにあっさり負けてしまう事もあった。そこで、「緩んでしまったチームを立て直す為に、試合で出た課題をみんなで紙に書き出しました。例えば、『先頭打者に四球が多かった』とか『チャンスで一本出なかった』とか。そして、そのテーマを克服できるような練習メニューを組んだんです。選手から発信した練習ですから、やらされている練習にはなりませんでしたし、レギュラーではない者も『ベンチで選手を出迎える時に元気がなかった』と課題を見つけ、ただの傍観者にはならず、試合に入るようになっていきました」

 秋から冬にかけて良い練習ができた事もあり、翌年の春季神奈川県大会は優勝。だが、関東大会では準決勝で浦和学院に0対4で敗れた。「小笠原が先発し、全力で戦ったのに完敗してしまった。それで、試合後は春季大会にもかかわらず選手は悔し泣きをしていました」

 この試合が大きなターニングポイントとなり、夏に向かって各選手の練習に対する熱がさらに高まっていったという。また、この頃になるとチーム内の結束も強くなっていた。

「キャプテンとしてチームをまとめる上で意識していたのはメリハリ。グラウンドでミスをした選手には、他の選手から厳しい言葉が掛けられました。中心選手には言いづらい時もありますが、そんな時は自分が率先して言っていましたし、練習後の選手のみのミーティングでもそれぞれの選手が反省点を挙げて、課題を明らかにしていきました。やっぱり、ただの仲良し集団では勝てませんから。でも、逆に良いプレーがあった時はめちゃくちゃ褒め合いましたし、練習が終われば、みんなわだかまりなく接していて仲が良かったので、そのあたりのメリハリは上手くいっていたと思います」

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長倉 蓮選手(東海大学)

 キャッチャーとして投手陣をリードする面では、得意なボールを活かす事を意識した。「小笠原だったらストレート。吉田だったら縦のスライダーが一番良い球だったので、このボールを決め球にして打者を打ち取れるように逆算してリードをしていました。やっぱり、ピッチャーは自分の得意な球で三振を取れたら乗っていけますから」

 こうして最後の夏を駆け抜け、1年前に苦渋をなめた甲子園に再び戻ってきた東海大相模は投打がガッチリとかみ合った戦いぶりを見せる。決勝戦では仙台育英を10対6で下して全国優勝。

「6回に同点に追いつかれた時はスタンドがすごく盛り上がっていましたし、相手打者はボール球に手を出してくれなかったので本当に苦しかったです。でも、豊田のファインプレーもあって勝ち越されずにすんだので、『まだいける。自分達には運がある』と思っていました。優勝した時は、マウンドでもみくちゃになっている時に実感がわいてきて、校歌を歌っている時に涙が出ました。その後、スタンドへ挨拶に行った時、ベンチから外れたのに資料作りやバッティングピッチャーを務めてくれた3年生が泣いている姿を見て、『本当に良い仲間に恵まれたんだな』と感じて、もう一度、泣きました」

 グラウンドでは、時にぶつかりながらも本音を言い合ったからこそ、普段は気が置けない関係になれた。長倉選手は仲間に「恵まれた」という表現を使ったが、きっとそれはチーム全員で「作り上げた」ものに違いない。「高校時代を振り返ると、ツラい事の方が多かったと思いますけれど、目標の為にみんなで必死に頑張りましたし、これ以上ない充実した3年間を送れたと思います」

 最後に、これから高校野球を始める1年生に、長倉選手からアドバイスをもらった。「中学時代の実績や役割は一旦ゼロになるので、高校では自分に何が求められているのか、監督の意図を汲み取ってプレーするのが大切になってくると思います。あと、高校の3年間はあっという間に終わってしまうので、今、できる事は1年生の時から精一杯、頑張ってやることだと思います。確かに、1年生は自分の事以外にもやらなければいけない事が多いですが、やれる事はいくらでもありますから。

 それに、1年から頑張っておけば、2、3年に進級した時に返ってくるものが必ずありますし、自分も最初から積極的にやっていれば、もっと早く気づけた事もあったと思っています。だから、『まだ1年生だから、そこまでやらなくてもいいかな』とは思わずに、できる事を自分で見つけて練習に励んでほしいです」

 毎日、全力で野球に取り組んできたからこそ、甲子園で優勝が決まった瞬間は寂しさも感じたという長倉選手。彼の体験は、新1年生の良い手本となることだろう。

(文=大平 明)

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