『メキシコ麻薬戦争 アメリカ大陸を引き裂く「犯罪者」たちの叛乱』/ヨアン・グリロ 著/山本昭代 訳/現代企画室
2006年から現在も継続中のメキシコ麻薬戦争。凄惨きわまりない遺体の写真をネットで見たことある人も多いだろう。本書はこのメキシコの負の側面を現場から描いたルポルタージュ。歴史、政治、国際情勢、文化、信仰、そしてマフィアや殺し屋たちへのインタビューから垣間見える彼らの素顔。これらを一冊にまとめあげた大作である。当初、ポップなカバーデザインと重厚な内容との間にややギャップを感じていたのだが、読み込んでいくうちに文字の箔がはがれていき、何とも不穏な表紙に見えてきた。計算されていたのならば凄い。間違いなく傑作だ。

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メキシコ麻薬戦争」とネットで検索すれば、嫌でも凄惨な遺体の数々を目にすることになる。
遺体には、暴行を受けた痕跡が生々しく残る。頭部や四肢が切断されたものもある。それらが、まるで見せびらかすように路上に転がされている。まぎれもなく現代メキシコの一側面である。

2006年、メキシコ大統領に就任したフィリペ・カルデロンが撲滅を宣言したことで激化した国家と麻薬密輸組織(カルテル)との「戦争」は、ギャングだけでなく一般国民をも巻き込んで、現在までに推定7万人以上の死者を出していると言われている。
なぜこのような殺人が横行しているのか。カルテルとはいかなる組織なのか。
また今年2月、伝説の麻薬王とも呼ばれるチャポことホアキン・グスマンが逮捕された。その結果をうけて、麻薬戦争はどこへ向かうのだろうか。
当然、そのような疑問が生じる。

だが、地球の裏側で起こっているこの「戦争」について書かれた日本語の本は、翻訳されたものも含めて多くはない。ましてや、ノンフィクションとしてまとめられたものは私の知る限り皆無である。
ネット上には、画像や映像が溢れているにもかかわらず。

その意味で、3月に出版された『メキシコ麻薬戦争 アメリカ大陸を引き裂く「犯罪者」たちの叛乱』は待望の一冊と言える。
著者のヨアン・グリロ(Ioan Grillo)は、メキシコ在住のイギリス人ジャーナリスト。『タイム』やCNN、AP通信などでラテンアメリカに関する報道を行ってきた人物だ。1929年から71年続いた制度的革命党(PRI)による支配が終わり、メキシコ国民が期待に包まれていた2000年に現地を訪れて以降、取材を続けている。

グリロが10年にも及ぶ調査をもとに書上げ、2011年にイギリスで発表したルポルタージュ『El Narco: Inside Mexico’s Criminal Insurgency』の邦訳が本書である。
「Narco」(ナルコ)とはメキシコ麻薬密輸人の呼称だ。今や自動小銃を構え、爆弾やランチャーをも所持する武装殺人集団となったナルコのグループ、カルテル。その闇の世界を、資本主義やグローバリズムの観点からグリロは考察する。

現在の惨劇の起源は、荒涼とした山岳地帯の農村にあった。
メキシコ北西部。アリゾナのアメリカ国境あたりからメキシコ内陸部まで約1500キロに及ぶ西マドレ山脈に接する州のなかでも、チワワ州、ドゥランゴ州、そしてシナロア州はメキシコ版黄金の三角地帯と呼ばれ、多くの麻薬が生産されてきた。

特にシナロアはメキシコ麻薬ギャング発祥の地として知られている。ここでは、シナロア・カルテルという最古の密輸ネットワークをもつ組織が生まれ、分裂と盛衰を繰り返しながら、ホアキン・“チャポ”・グスマンがボスとなり、メキシコ最大のカルテルにまで昇りつめた。

1860年代に移民してきた中国人たちが、ケシの種を持ち込んだことから全ては始まったという。この中国人移民の背後には、清王朝時代のアヘン禁止令が存在している。その後、アメリカ政府もアヘンを始め麻薬の非合法化へと進んでいく。
法により薬物所持が規制されると何が起こるか、想像するのは簡単だ。密輸である。こうしてナルコは誕生した。

カルテルは、密輸地点となるテキサス国境周辺等のメキシコ北西部から、各地に移動した。アメリカへの密輸ルートを確かなものにしたナルコたちは、コロンビア産のコカインの輸送を代行するようになり、事業を拡大させていく。マリファナ、コカイン、ヘロイン、覚せい剤……。密輸は富を生み出した。カルテルたちは互いに縄張りを主張し、武装を強化する。警察への収賄や、汚職が横行した。地元警察と連邦警察という警察同士による銃の打ち合いも珍しくないという。金で動かなければ、力にうったえた。政治家や警察署長、そしてジャーナリストまでもが、幾人も殺された。

アメリカの若者が薬物でリラックスしている裏で、メキシコの少年らはいとも簡単にナルコとなり、十代から人を殺し、拷問する技術すら教え込まれている。
グリロは言う。ナルコの歴史はアメリカの麻薬政策の歴史でもある、と。

ナルコという言葉は、麻薬密輸人のみを指すのでなく、一部の人々にとっては生き方そのものをも意味するという。
彼らは、メキシコの民謡音楽を意味するコリード(corrido)という語の頭に「ナルコ」を付け、「ナルココリード」(narcocorrido)という独自のジャンルミュージックを持っている。

また、全体の8割以上がカトリック教徒であるメキシコにおいて、カルテルは触法行為を生業とし、利益のためには殺人もいとわない。したがって、カトリック教会に入れてもらえないのならば、と自ら新興宗教をたちあげ、構成員に教義を教えているボスすらいる。
これらに代表されるように、ナルコは私たちに馴染みのない特有の文化を形成している。

本書は三部構成となっている。
グリロは、カルテル成立から興隆までの歴史的政治的背景を「PARTI 歴史」で解説し、ナルコたちの文化的宗教的背景を「PARTII 内蔵」で解剖する。この二つのパートを縦糸、横糸として、メキシコ麻薬戦争の実態を緻密に紡ぎ、「PARTIII 運命」で麻薬戦争の解決策のひとつを提案する。

もっとも強く印象に残ったのは、「PARTII」で描かれる殺し屋たちの素顔だ。
そのひとり、肌の色と低い身長からフリホール(インゲン豆)とあだ名されていたホセ・アントニオ。カルデロンが麻薬戦争を布告したその年、フリホールはすでにチワワ州シウダー・フアレスの、バリオと呼ばれるストリートギャングの一員となっていた。14歳だった。

彼の両親は、工場で日本製テレビなどを組み立てていた。一日の賃金は、平均6ドル。両親が工場で長時間働いている間、フリホールは近所の10代の仲間たちとしゃべり、笑い、サッカーをしていた。ただそれだけで、彼はギャングになっていた。
シナロア・カルテルとフアレス・カルテルが街を奪い合う抗争を始めた。マフィアたちはギャングたちを歩兵として雇った。
最初の仕事は麻薬の売店の見張りだった。そのうち大きな仕事をするようになった。殺人だ。

グリロは、マフィアはいくら支払うのか訊ねた。1000ペソだ、とフリホールは答えた。およそ85ドル。バリオの他のギャングたちも、皆同じ答えだった。フリホールは平然とした面持ちで言う。
「銃撃戦のなかにいるとアドレナリン全開だよ。死者が出ても何も感じない。毎日殺し合いがある。十人死ぬときもあれば十三人死ぬときもある。いまではそれが普通なんだ」

グリロは麻薬戦争終結の一策として、マリファナの合法化を挙げている。カルテルの収入源を断つことが目的だ。2012年にはアメリカのワシントン州とコロラド州で、嗜好品としての大麻と所持と使用が合法となった。
だが、麻薬政策がどう改革されようとカルテルはすぐに消えてなくなるわけではない、ともグリロは言う。

現在、ナルコたちの事業は国際的になり、多角化している。麻薬密輸だけでなく、強盗や営利目的の誘拐も頻繁に行う。
カルテル同士の抗争は、警察組織や軍との癒着が絡み、複雑な様相を呈している。事実、カルデロン政権では、軍によるカルテル制圧に巻き込まれ、罪なき国民が射殺される事態が頻発した。国家による人権侵害も深刻な問題のひとつだ。

2012年、エンリケ・ペーニャ・ニエトが大統領となり、政権が再び制度的革命党(PRI)に移った。ペーニャ・ニエト大統領は、麻薬戦争を軍主体から改変した警察主体に移行することで鎮圧する方針だが、実際にこの「戦争」が終わる兆しはあるのだろうか。

カルテルはピラミッド型の権力構造を持っているわけではない。ある勢力が弱まれば、その縄張りで別の勢力同士による抗争が始まるとみられる。
研究者でもある訳者の山本昭代は「訳者あとがき」にて、2014年現在、北部国境付近での暴力はやや沈静化しているが、中部でマフィア間での報復合戦が激化していると記している。また、住民自体が武装し、自営団を組織する事態にまでいたっているという。

誰が味方で、誰が敵なのか。国家対麻薬組織という構造が崩れた今、次の段階が一般メキシコ国民による蜂起であるとすれば、ますますこの「戦争」の終結が遠のくことは間違いない。

〈参考資料案内〉

メキシコ麻薬戦争、あるいはラテンアメリカの麻薬事情に関連する日本語の資料をいくつか紹介しよう。ラテンアメリカまで視野にいれることで、アメリカの国際的な対麻薬政策がメキシコ麻薬戦争に多大な影響を及ぼしていることをより理解できる。

※『BLOW』(ブルース・ポーター 著/山田圭 訳)
1970年代の伝説的なアメリカ人麻薬密輸人、ジョージ・ユングの半生を描いたノンフィクション。ヒッピームーブメントに湧いていた60年代後半。メキシコから大麻を運んでいたユングは、後にコロンビアの麻薬王パブロ・エスコバルと関係を持ってコカインを密輸するようになる。一時、アメリカで流通するコカインの約80%がこの男の手によって持ち込まれたとも言われている。2001年にはジョニー・デップ主演で同名の映画化がされた。

※『パブロを殺せ』(マーク・ボウデン 著/伏見威蕃 訳)
パブロ・エスコバルについては本書が詳しい。メキシコのカルテルが密輸規模を拡大する90年代後半より前、麻薬王と言えばコロンビアのメデジン・カルテルのボスであるこの男のことを指していた。メキシコのギャングたちは、コロンビア、アメリカ間のコカインと麻薬資金を運ぶ流通業者であった。政治の世界にも絶大な力を持っていたエスコバルは、コロンビア軍特殊隊急襲部隊により1993年に射殺された。

※『犬の力』(ドン・ウィンズロウ 著/東江一紀 訳)
エキレビでも執筆されている丸本大輔さんから教えていただいた。DEA(麻薬取締局)の捜査官を主人公にすえたこの作品には実在の事件が書き込まれており、フィクションであることを考慮すべきではあるが、麻薬戦争のディティールを知ることができる。

※『ノンフィクション新世紀』(石井光太 責任編集)
メキシコ人女性ジャーナリスト、アルマ・ギリェルモプリエート(Alma Guillermoprieto)によるルポ『The Murderers of Mexico』(2011)の抄訳(「メキシコを殺す者たち」/樋口武志 訳)が掲載されている。大麻を栽培する農村部と結びついた太平洋側の組織(“チャポ”・グスマンのシナロア・カルテルなど)と、栽培をせず卸売りを資金源とする東部メキシコ湾沿いの組織(軍出身者らで構成される犯罪集団セタスなど)。ギリェルモプリエートはその相違点に注目し、密輸組織同士の「文化の戦争」という側面を指摘する。

※『ニューズウィーク 日本版』
断続的にルポルタージュが掲載されている。特に2012年7月25日号には、西マドレ山脈の先住民族までもが麻薬の運び屋を請け負っているという内容の記事があり興味深い。脅威の走力と持久力を持つタラウマラ族は、貧困から抜け出すために密輸組織に利用されているという。

※『週刊金曜日』2012年1月27日号
最後に、日本人によるルポとして工藤律子の記事を挙げておく。誘拐犠牲者の家族を支援するNGOや、貧困層の若者を支援するNGOの人々の声が記されている。被害者家族の子供のなかには、将来は殺し屋になる、大人になったら殺し屋を雇って親の仇をとる、と話す子もいる。

いずれにせよ、メキシコ麻薬戦争に関する日本語の文献はまだまだ少ないのが現状だ。
格好の入門書であり現時点での決定版である『メキシコ麻薬戦争 アメリカを引き裂く「犯罪者」たちの叛乱』を全力でお勧めしたい。

(HK 吉岡命・遠藤譲)