ドーム代表取締役CEO 安田秀一(やすだ・しゅういち)1969年、東京生まれ。法政大学文学部在学中、アメリカンフットボールで大学全日本選抜チームの主将を務める。92年三菱商事に入社。96年ドームを創業。98年米アンダーアーマーと日本の総代理店契約を結ぶ。2015年1月にプロ野球の読売ジャイアンツと5年間のパートナーシップ契約を結ぶ。

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■「9秒台を出したら1億円をあげる」

【弘兼】本社の入り口に流れていたビデオの主人公が、ケンブリッジ飛鳥選手でした。彼はドームの社員だということを思い出しました。安田さんは、リオ五輪前にテレビで「9秒台を出したら1億円をあげる」と発言していましたね。

【安田】陸上競技の100メートル走は、日本のスポーツ界でまだ価値が眠っている分野だと思っています。リオ五輪で3連覇を達成したジャマイカのウサイン・ボルト選手、あるいはひと昔前で言うとアメリカのカール・ルイス選手など、みんなスーパースターです。彼らには「世界で一番足が速い」という称号が与えられます。思い返してみれば、小学生のときから足が速い生徒はスターでした。足が速いということは、誰にでもわかりやすい。では、日本で一番足の速い選手は誰でしょうか?

【弘兼】えーっと……。リオ五輪では男子100メートル走で山懸亮太選手が準決勝まで進出しました。タイムは誰が一番速いのかな?

【安田】弘兼先生に限らず、そういう答えが返ってきます。日本記録は僕と同学年の伊東浩司選手が1998年に出した10秒00。現時点で誰が一番速いのかは、あまり知られていません。これは不思議ではありませんか?

【弘兼】そうですね。100メートル走は陸上の華なのに。

【安田】たとえば、毎年、日本選手権を実施して、1位になった人間には賞金1000万円を与えるという仕組みにすればどうでしょう。ゴルフのようにツアーを行って、賞金王を決めるというのもありでしょう。しかし、今まではそうした試みが日本の陸上界ではありませんでした。

【弘兼】なぜですか?

【安田】「オリンピック至上主義」というものがあるからです。陸上競技の場合、誰が一番速いかよりも、五輪に参加するための標準記録や派遣設定記録をクリアして、五輪に出場することが大切なんです。そして五輪で好成績を残して、補助金をもらうのが目的になってしまっている。

【弘兼】リオ五輪前に行われた6月25日の陸上日本選手権で、ケンブリッジ飛鳥選手、山懸亮太選手、桐生祥秀選手という日本で最も速いと思われる3人が揃って走りました。あれは、たまたま、だったのですね。

【安田】ええ。通常は五輪に出るためのレースにしか出場しません。ほとんどの競技において、五輪に出場、金メダルを取りました、というのは税金で成り立っています。いわばメダリストは国家の無形資産。JOC(日本オリンピック委員会)はレスリング、水泳の飛び込み、フェンシング、卓球などの競技に何億円も注ぎ込んでいます。

【弘兼】オリンピックでメダルを期待できそうな競技ですね。

■なぜケンブリッジ飛鳥を社員に迎え入れたのか

【安田】ただ、税金を使っているのに、国の側はリターンを考えていない。厳しい言い方になりますが、水泳の飛び込みでメダルを取れたからといって、社会的な影響力は小さい。たとえば100メートル走であれば、ケンブリッジが活躍することで、その姿に子どもたちが憧れて外に出て駆けっこをするようになる。マラソンランナーも同様に増えれば国民が健康になる効果がある。そういう観点から強化費、助成金の使い方を見直すべきです。メダルの数だけで判断するのは、20年、30年前の東欧諸国の考え方。アスリートの側も補助金をもらい続けて金メダルを狙って、終わったら、ポイ捨てされる。競技に集中していたから、セカンドキャリアも何もない。その競技と選手の双方に焼け野原が残るだけ。

【弘兼】それがオリンピック至上主義の弊害ですか。

【安田】僕はスポーツを、経済効果があるものと、個人的に自腹で楽しむスポーツの2つに分類しています。そもそもアスリートというのは、お金が欲しくてその競技を始めたわけではありません。夢中になって取り組むのは、ただひたすらその競技が好きだった、もっと上手くなりたい、あるいは自己実現をしたい、人間性を高めたいなどの理由のはずです。ただ、高いレベルでそれをやり続けるには、職業としてやっていけるのか、自腹でやっていくかに分かれてきます。差別するわけではないですけれど、たとえば、なぎなた、剣道を続けてもお金は稼げませんよね。

【弘兼】片や、野球ならばプロ野球選手、サッカーはJリーガーというプロとしての道がある。

【安田】その競技で稼げるか稼げないか。本来、スポーツはこの2つしかない。ところがそこにオリンピックというものが介在して、税金が投入されることでややこしくなった。

【弘兼】そんな中、安田さんはケンブリッジ飛鳥選手を社員として迎え入れています。企業としてのメリットをどう考えますか?

【安田】企業がスポーツをバックアップするときに、判断するのはマネタイズできるかどうか。つまり、金銭的なリターンがあるか。100メートル走には間違いなくリターンがあります。

【弘兼】マネタイズ、つまり収益に繋げられる、投資した金額に対して十分な見返りがあると判断したと。先ほどの社会的意義がある、国民の健康に寄与するということですね。

【安田】ええ。100メートル走というのは、アフリカ系人種が強い。そこに我々、アジア系人種でも十分戦えると思ってもらえれば、国民の気分は高揚する。アフリカ系人種以外で10秒を切った選手はほとんどいない。かつて伊東浩司さんは参考記録ですが、10秒を切ったことがあります。そう考えると、実はアジア系人種は足が速いのではないかと思っています。僕は5年ぐらい前から、ドームに所属する陸上選手で10秒を切ったら1億円を出すと言い続けてきました。そこにケンブリッジが入ってきただけなんです。彼が結果を残せば、同じように外国人の親を持つ子どもたちは大きな自信になる。それ自体に社会的効果があります。

【弘兼】2015年12月には、サッカークラブ「いわきFC」を設立しました。

【安田】はい。今年5月にはいわき市に物流センターを開設しました。その敷地内に人工芝のピッチとクラブハウスを整備中です。そこでいわきFCの選手は働きながら練習しています。将来的にはいわきFCのスタジアムを建設し、商業施設をつくり、地域に人が集まることを目指しています。スポーツを通じた地域活性化は、大きな可能性を秘めています。

【弘兼】そもそも安田さんとスポーツの関わりはアメリカンフットボールでしたよね。法政二高でアメフトを始めて全国ベスト8になり、法政大学に進んだ後は日本選抜の主将を務めた。大学卒業後は三菱商事に入社します。そこでは何を担当していたのでしょうか?

【安田】自動車部です。

【弘兼】花形部署ですね。

【安田】ええ、まあ……当時、自動車部はいすゞ自動車と組んで、部品を供給して現地で組み立てて販売するという「ノックダウン方式」で、大がかりなビジネスをしていました。まずは現地に組立工場をつくります。そのうちに向こうでも簡単な部品、鋳物などをつくるようになるのです。僕はその部品を輸入する仕事でしたが、花形なのは輸出をするほうです。

【弘兼】学ぶものはありましたか?

【安田】小さなビジネスモデルみたいなものは学びました。でも、それ以上に組織の限界を感じました。当時の三菱商事は職種によって、権限が厳格に規定されていたのです。僕のような新人社員は、ファクスを出すこともできない。

【弘兼】かなり窮屈ですね。

【安田】僕が商社を選んだのは実力主義だと聞いていたからなんです。でも入社してみて、「新人ハンドブック」というものを開いてみると、勤続年数や役職で、仕事がきちんと決められていた。何か違うなと。

■はじめて商品を見てすぐに電話で交渉

【弘兼】それで4年で退社したわけですか。でも、三菱商事にいれば高給は保証されていたでしょう。辞めることは怖くなかったのですか?

【安田】僕の世代というのは、現代っ子の新しいプロトタイプというか、第一世代だと思うんです。社会の最適化、同一化みたいなものを戦後、日本はずっと追い続けていた。僕たちは、それに満足しない世代です。別の言い方をするならば、僕たちは生まれたときから、それなりに豊かでした。では、何が大切かというと、何のために生きているのだという根本的な問いかけにどう答えるか。

【弘兼】三菱商事という大企業の中に同一化することができず、自分の存在価値を問うてみたいと思った。

【安田】大袈裟に言うとそういうことになります。

【弘兼】退社後、安田さんは母校である法政大学のアメフト部コーチに就任します。同時にドームを立ち上げ、テーピングの輸入を始める。アメリカだと1本1ドル程度のテーピングが日本では400円もした。流通経路を整理して、安く日本へ仕入れることに成功したそうですね。

【安田】そのときはテーピングの輸入とフットボールのコーチで食っていこうと思っていました。フットボールのことがすごく好きですから。

【弘兼】ドーム飛躍の大きなきっかけとなったのが、スポーツブランドの「アンダーアーマー」でした。

【安田】テーピングを扱っているうちに、「こんなものはないのか」と、様々な商品を頼まれるようになったんです。僕としてもお客さんの要望に応えたいと、ほかのものも輸入するようになりました。そんなときに、NFLヨーロッパというフットボールリーグのコーチ募集がありました。条件を見たら、僕が行くしかないんじゃないかと。

【弘兼】NFLヨーロッパとは、アメリカのアメリカンフットボールリーグのNFLが世界戦略として欧州で展開していたリーグですね。

【安田】はい。スポーツビジネスの視察も兼ねて98年に半年間派遣コーチとしてヨーロッパに行きました。そのとき、アンダーアーマーがNFLヨーロッパへの商品提供を始めていました。

【弘兼】商品はどんなものでしたか?

【安田】今もラインアップに入っているのですが、「0039」(画像参照)という白色の伸びる素材で出来たシンプルな上半身用のアンダーウエアでした。それまで下半身用のスパッツのようなアンダーウエアはあったのですが、上半身用はなかった。僕自身選手時代から、アンダーウエアには悩んでいました。だからアンダーアーマーの商品をはじめて見たときは、「めっちゃいいじゃん」と思った。商品タグに製造元の電話番号が書かれているのを見て、その日の夜に電話し、「代理店をやらしてくれ」と言ったんです。

【弘兼】社長のケビン・プランクに会うために、アメリカのボルティモアへ渡ったとか。すごい行動力ですね。

【安田】僕にとっては当然のことでした。サラリーマンのときは制約があって行動できませんでしたから、フラストレーションがたまっていたような気がします。

「アンダーアーマー」は96年、アメリカのメリーランド大学のアメリカンフットボール選手だった、ケビン・プランクが設立したスポーツメーカーだ。「コンプレッションウエア」という、吸汗速乾性と筋肉のサポート効果のある機能性インナーを軸に成長を遂げてきた。米アンダーアーマーの15年12月期売上高は1ドル120円換算で4750億円。日本のアシックス、独プーマとの3位争いを制し、売り上げ1位のナイキ、2位のアディダスに次ぐ規模になった。

日本にはドームが総代理店となって98年に上陸。ドームは96年に創業し、毎年増加率25%前後で売上高が上昇。15年12月期には売上高356億円を達成した。アンダーアーマーの総代理店として輸入販売だけでなく、国内製品の企画販売や、テーピングの輸入販売やサプリメントの製造・販売も手がける。さらに、野球の読売ジャイアンツ、バスケットボールの琉球ゴールデンキングスなどのチームとも契約を結び、ユニフォームを製造して提供。また、契約アスリートが利用できるトレーニング施設も運営。アンダーアーマーを軸に、スポーツとアスリートに広く貢献する事業を展開してきた。

【弘兼】安田さんがケビン社長のもとへ会いにいった頃、アンダーアーマーはどれくらいの規模でしたか?

【安田】当時、社員2人でした。ドームは社員8人だったので、こちらのほうが大きかった。ビジネスについてもまだまだで、商品が送られてくると、全部不良品。最初から「どうしてこんな商品を送ってくるのか」と文句を言いました。当時、ケビンの付き合っていた女性が日本車に乗っていたので、なぜアメリカの自動車メーカーは凋落したのか、なぜ日本車がいいのか、品質管理の重要性について話をしたこともあります。

【弘兼】アメリカのスポーツ市場を見ると、95年にスポーツ産業(※1)の規模は15兆円でした。それが10年には自動車産業を一時的に追い抜き、60兆円を超えています。アンダーアーマーはその流れに乗って成長したともいえます。一方、日本のスポーツ産業の規模は95年に5兆円だったものが4兆円に落ちています。

【安田】その通りです。僕がドームを始めた頃、アメリカでスポーツ産業は順調とはいえませんでした。スポーツショップの商品は赤札をつけて叩き売り状態、メジャーリーグではストライキがあり、観客席は閑散としていた。

【弘兼】野茂英雄さんがストライキ直後の95年にメジャーリーグに移籍したのは記憶にあります。

■日本人が目指すのは「コピー&インプルーブ」

【安田】あの後、メジャーリーグは20年で市場規模を5倍にしています。ところが、日本のプロ野球はほぼ横ばい。一気に差がついてしまいました。それまでメジャーリーグでは戦力が一部の球団に集中していました。それを分散する方針をとったのです。シーズン終盤までいかにスリリングな展開にするのかをリーグ全体で考えて、様々な工夫をしました。ベースボールはアメリカの文化だから、と一括りにされますが、実は具体的な努力がそこにはあります。日本のスポーツ界はそこから目をそらすのではなく、学ぶべきだ。日本が明治維新、そして戦後の復興期、二度とも欧米から学んだのと同じです。

【弘兼】明治維新の際には外国の外交官との社交場として鹿鳴館をつくり、議会制度も欧州を真似した。かつての日本人は、他国のいいとこ取りをしていました。

【安田】僕の考えでは、日本人はイノベーティブ(技術革新的)ではない。そこを目指しても仕方がありません。では何が得意かというと、「コピー&インプルーブ」です。

【弘兼】真似をして、改良していく。戦後の日本の製造業がそうでした。

【安田】松下幸之助さんも本田宗一郎さんも世界に憧れた。そして、それに近づくために模倣した。日本の繁栄をつくったのはそういう人たちです。しかし、最近の日本人は世界を見ない。世界と日本が乖離しているのに、文化、歴史が違っていると言って片付けてしまう。テレビをつけても、日本を讃える番組が増えている。極めて危険な状態です。

【弘兼】日本はこんなにすごいという類いの番組が目立ちます。

【安田】あえて、団塊の世代である弘兼先生に言わせていただくと、僕の父親の世代、弘兼さんの世代というのは、景気がよくて、需要があったから、運がよければお金儲けができた。多少の苦労はしたかもしれないけど、その前の世代がつくったもののおいしいところだけ取っているように見える。一方、僕らは、いわば「尾崎豊」の世界。「何のために生きているんだ」という疑問から始まっています。自分の幸せというのは、大きな会社に入って、出世するというのでも、莫大な金を稼ぐというのでもない。経済誌などにベンチャー企業経営者の対談とかが載っていますが、僕としてはまったく参考にならない。株価を上げる、資産を増やす、そういう話ばっかりですから。

【弘兼】物質的な成功では飽き足らない。精神的な充足を求める世代なのですね。

【安田】僕の親父は、中卒でした。そして、一生懸命働いて、僕を大学まで出させてくれた。息子である僕は、親父の世代よりも、この世の中をよくして次の世代に渡さなければならないという義務感みたいなものがあります。それが今の僕を突き動かしているのです。

※売り上げ構成は、スポーツ用品、スポーツ施設、スポンサー費、広告費など。

■弘兼憲史の着眼点

▼なぜ読売巨人軍と契約できたのか

有明に構えるドームの本社は倉庫を改装した無骨な建物。「仕事は戦い」という安田さんの考えを具現化した、要塞のようでした。

建物に入ると、無機質で近未来な雰囲気が漂います。オフィスと同じ建物内にはトレーニングルーム、ジャグジーやリラクセーションルーム、高タンパクの食事を提供するカフェ……、24時間居座ることができそうです。

今回の対談には、ドームが展開する「アンダーアーマー」のTシャツを着用していきました。アンダーアーマーの由来は「アスリートがユニホームの下に着て、戦うための鎧」。「U」と「A」を組み合わせたロゴのポロシャツを着用したスタッフが、社内で溌剌と仕事をする姿が印象的でした。

対談中、なぜ読売ジャイアンツと契約できたのかと尋ねると、安田さんはこう言いました。

「読売巨人軍の久保社長と話す機会があって、さきほどから弘兼先生に話したようなスポーツビジネスの概論を僕のほうから偉そうに話していました。ところが、久保社長は読売新聞の元記者で長年箱根駅伝などの取材を重ねていて、スポーツビジネスについてめちゃくちゃ詳しかった。僕は座学だけれど、久保社長は実践もしてきていて、釈迦に説法だった。ただ、自分の知識と考えは久保社長に伝わって、そこからはトントン拍子で話が進み契約を結ぶことになりました」

▼スポーツ、経営ともに因数分解が必要

現在は、読売ジャイアンツの商品開発に力を入れ、CMを積極的に打つなど、ブランディングの真っ只中のようです。高校生が「NY」と描かれたニューヨーク・ヤンキースの帽子をファッションアイテムとして取り入れているように、「YG」と描かれたアイテムを着用する人で街が溢れ返る日も、そう遠くはないかもしれません。

対談の終わり、安田さんにこんな質問をしました。

「アメリカンフットボールのチームのつくり方と会社経営は似ていますか?」

安田さんは「はい」と深く頷きました。

「スポーツは合理的なアプローチをしなければ結果が出ない。逆に言えば、結果が出ない人は合理的なアプローチをしていないのです。上下関係を必要以上に重んじたり、チーム構成のバランスを欠いていたり。勝つためには、自分たちに何が必要なのかを考えて、因数分解していく必要があります。それは企業の経営と同じ。優れたスポーツ指導者は、いい経営者になれると思います」

合理的で理知的な体育会系の経営者。安田さんを表現するならばそうなるでしょう。

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弘兼憲史(ひろかね・けんし)
1947年、山口県生まれ。早稲田大学法学部を卒業後、松下電器産業(現・パナソニック)勤務を経て、74年に『風薫る』で漫画家デビュー。85年『人間交差点』で第30回小学館漫画賞、91年『課長島耕作』で第15回講談社漫画賞、2003年『黄昏流星群』で日本漫画家協会賞大賞を受賞。07年紫綬褒章受章。

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(田崎健太=構成 河西 遼=撮影 時事通信フォト=写真)