サッカーJリーグのベガルタ仙台はこのほど、複数の選手がキャプテンを務める布陣を発表した。角田誠梁勇基柳沢敦林卓人4選手がキャプテンに就く。


 どのスポーツでもキャプテンは、選手のまとめ役であったり、チームの顔であったり、選手と監督・コーチとの橋渡し役であったりと、果たす役割は大きい。
 4人のキャプテン制度を採用したベガルタ仙台では、キャプテンの負担が軽減されることが期待されるが、一方で指揮系統が混乱し、責任の所在も曖昧にならないだろうか

 今年から藤川球児が加わったことでわが国でも注目が集まる、米メジャーリーグのシカゴ・カブスは1961年、ベガルタ仙台以上に斬新な制度を取り入れた。監督制度を廃止し、8人のコーチによる合議制を採用した。チームが低迷する中での、思い切った決断だった。
 8人のコーチの初期メンバーは、(1)リップ・コリンズ、(2)ヴェディ・ヒムス、(3)ハリー・クラウト、(4)エル・タップ、(5)ゴーディー・ホルト、(6)チャーリー・グリム、(7)ヴァーロン・ウォーカー、(8)ボビー・アダムズ
 当然、現場の混乱が予想されたが、当時のオーナー、フィリップ・リグレー氏は、カブスはどんな野球をすべきかをまとめたマニュアルを用意。当時のゼネラル・マネジャー、ジョン・ホランド氏も、「自分勝手なやり方でやりたがっている奴はいらんのだ。我々が必要としているのは調和であり、何でも言うことを聞いて、悪くとらない奴なんだ」と、前代未聞の制度の成功に自信を覗かせていた。

 だが、結果は推して知るべし。野球に限らず、スポーツでは指揮官は、目の前の状況に応じた、迅速な判断が求められる。マニュアルに従い、話し合いながらでは、遅すぎる。
 はたして、カブスは負け続けた。1961年当時、ナショナルリーグには8チームが加盟、1962年にはニューヨーク・メッツヒューストン・コルト45's(現在のヒューストン・アストロズ)が加わり10チームになったが、その中でカブスは、1961年7位、1962年9位、1963年7位、1964年8位、1965年8位と下位に沈み、シーズン勝ち越しに成功したのは1963年の1年間のみ。1962年など勝率.364で、合議制を敷く以前よりも勝てなかった。

 当然ながら、合議制は1965年を最後に廃止。1966年からは、ブルックリン・ドジャース (ロサンゼルス・ドジャース)、ニューヨーク・ジャイアンツ(サンフランシスコ・ジャイアンツ) で指揮を取った経験のあるレオ・ドローチャー監督に就任した。
 ドローチャー新監督は、就任1年目こそ10位に終わったが、1967年3位、1968年3位、1969年東地区2位(ナショナルリーグではこの年から、東西2地区制度が採用された)、1970年2位、1971年3位と、チームの建て直しに成功した。
 やはり、指揮系統は一本化した方がいい。

 ちなみにドローチャー監督だが、埼玉西武ライオンズの前身、太平洋クラブライオンズの監督を務めたことがある。1976年に契約した。
 だが、契約には至ったものの、直後に病気で倒れ、来日することはなかった。はたして、後任監督にはヘッドコーチの鬼頭政一が就任。ライオンズ初の外国人監督は、幻に終わった。