ハワイアン時代、1970年代半ば

写真拡大

 58歳にしてメジャーデビューし、3枚目のシングルとなった「愛のままで…」で、NHK紅白歌合戦に61歳6か月という紅組史上最年長での初出場を果たした歌手の秋元順子(79)。結婚後、家業の生花店や家事・育児に邁進するため、一度は歌から離れていたものの、思い断ちがたく、再び舞い戻った歌の世界でデビューをつかみ取った。秋元にとって歌とは……。

(全2回の第1回)

 ***

【写真を見る】家業の生花店で働いていたころ…ほか 貴重ショットで振り返る「秋元順子」の音楽半生

小中高で音楽熱の高まり 音大志望も家庭事情が許さず……

 ラジオから流れる美空ひばり、島倉千代子、三橋美智也らの曲を聴きながら真似をし、自然と歌うことが好きになった子ども時代だった。

ハワイアン時代、1970年代半ば

「近所のおばさまたちが『順子ちゃん、また歌って』と言ってくれて、歌うと『いい声ね』とか『上手い上手い』と。そう言われると子どもは純粋に喜びます。褒められて自信が持てるようになりましたね」

 音楽を愛する心はさらに育ち、小中高ではずっと音楽クラブや音楽班に入って活動した。

「小学校の音楽クラブでは、合唱や合奏の『こども音楽コンクール』に出場し、トライアングルを担当しました。中学生になってからはシロフォンも演奏するようになりました」

 高校ではオペレッタも。出演するだけでなく、演出も手掛けた。

「シンデレラの『意地悪お母さん』役をやりました。先生にアドバイスをもらいながら演出し、衣装係も兼ねました。1つのものをみんなで作り上げることがすごく楽しかったんです」

 音楽熱はさらに高まり、音大を志望したが、家庭の事情で叶わなかった。

「家計を助けてほしいと言われて石油会社に就職しました。そこに『ハワイアンクラブ』があったんです」

ハワイアンバンドでジャズ、シャンソン、歌謡曲……なんでも歌う

 ハワイアンクラブとは会社の音楽同好会のこと。血が騒いですぐに入部し、そこでのバンド活動をメインにしながら、そのほかにも2つのバンドに所属した。主にボーカルを務め、ハワイアンジャズにラテン、日本の歌謡曲などをジャズアレンジで歌う――。歌手・秋元順子の礎はこの時期に作られ始めた。

「バンドのリーダーに、スティールギター奏者でジャズ好きの方がいたんです。その人に『ジャズも歌った方がいいんじゃないか』と勧められたんです。メンバーも非常に才に長けていたので、ジャズ、ラテン、シャンソン、カンツォーネ、民謡となんでもできたんです。私はそれを全部歌いました。ただ声が低かったので、本場のハワイアンの曲は難しかった。普通ならピアノやウッドベースで歌うようなジャジーな曲を、スティールギターとエレキベースで歌うことも。それが自分の糧になり、今の自分の基本のひとつになりましたね」

 ジャズで歌う「アイ・ラブ・ユー」の言葉が、ラテンでは「テ・キエロ」になり、表現の仕方も変わる。色々なジャンルを学びながら自身に落とし込んでいった。

「ただ覚えてうわべで歌うのではなく、どの曲でも歌の中の主人公になりきることができる。それは今も私の強みと思っています」

妊娠を機にバンド活動を「小休止」

 石油会社に勤務して6年が経過し、24歳で寿退社した。バンド活動は続けていたが、妊娠を機にステージには立てなくなった。

「3つのバンドのうち、最後まで活動していたバンドの人たちに『お腹が大きくなってハワイアンドレスが着られないから、ちょっと休むわね』と言いました。やめるのではなく休むことを強調したんですが、リーダーに『ちょっとじゃないだろう』って言われて。確かに3年後に下の子が生まれたので、都合9年ぐらい休んじゃいました(笑)」

 だが音楽好きの性分は変わらない。家事・育児に加え、夫が営んでいた生花店にも携わり、忙しい日々を送る中でも、“すき間時間”をうまく音楽に活用した。

「台風や大雨だとお客様は来ないので、店を閉めて、有線放送をかける。いいなと思う曲があったらタイトルを問い合わせて、休みの日にレコード屋へ買いに行く。そんな風にして新しい曲を覚えていました」

 当時知ったのは、ナット・キング・コールやフランク・シナトラ、ドリス・デイ、ジュリー・ロンドンらの、スタンダードジャズがほとんど。後に自身が歌うことになる歌謡曲は、まだ積極的には聴いていなかったそうだ。

「自分が歌謡曲に行くとは当時は思っていませんから(苦笑)。当時一番歌いたかったのはラテンで、トリオ・ロス・パンチョスがよかった。彼らのアルバムを買ってきて、自分が歌える曲をピックアップして覚えました。『ベサメ・ムーチョ』『テ・キエロ・ディヒステ』『キエン・セラ』などが好きでした。それからジャズへと……」

食事会に呼ばれたはずが復帰へ

 再びバンドで歌うことになったのは、半分“騙し討ち”だったという。

「最後まで一緒にやっていたバンドの人たちからは、復帰の数年前から、夏になるたび『人手が足りない』と打診があったんです。でも子どもを2人見ながら、自分も花の仕入れや配達に行っていて、物理的に無理だと断っていた。ところがあるとき『食事会をするから来て』と言われ、主人も『食事会だけなら』と送り出してくれました。そうしましたら当日に『新しいメンバーが加わったので再結成する日だ』と言われて。騙されました(笑)」

 東京・原宿にあったハワイアンの店での出来事だった。断ったものの、「1曲だけ歌ってよ」と頼み込まれ、ステージに上がると客席はすでに満杯。以前にバンドで歌っていた「南国の夜」を歌い終えると万雷の拍手が湧いた。

「メンバーが得意になって演奏していたので、私も得意になって歌っちゃって。久しぶりなので声なんて出ないだろうと思ったら、出ちゃったんです。みんなに『声出るじゃん。それだけ出るならやろうよ』と言われ、自分も血が騒いできて。すぐ主人に電話して『こういうわけで再結成に加わろうと思うんだけど』と言ったら、簡単に『うん、いいよ』って。家へ帰って再確認したら『今までの歯車をどこも削ることなくできるならいいよ』と」

 歯車――家事だけではなく、生花店の仕事や従業員の管理などを、当時、秋元は担っていた。しかも、結婚当初に比べると、従業員も店舗も増え、シフトを組んでいたのも秋元だった。

「3回あったバンドのリハーサルのうち、参加は1回にしてもらい、リハーサルと本番の2日間は、生花店のシフトを組み替えて、活動を続けることができました」

ジャズの関係者に見込まれて……

 ジャズへの転機は、バンド活動を再始動させた直後にあった。ステージに立ったハワイアンパーティーにジャズ業界に通じた関係者が訪れていた。

「終了後に私を待っていたその人から『君の声はハワイアンじゃなくてジャズだね』と言われました。そして『今度、ジャズの勉強を兼ねてニューヨークとニューオーリンズに行くツアーがあるんだけど行きませんか』と誘われたんです」

 今度は夫に電話で確認することなく、二つ返事で応じた。

「絶対そこで新しい自分が見つかると思いました。その少し前、私が一生懸命やっていたので『ご褒美あげるよ』と主人から言われていて、そのご褒美としてお願いしました。主人は3、4日の温泉などと思っていたようですが、ツアーは12日間。『行くならタダで帰ってくるな』と送り出してくれました」

 本場ニューヨークの「ブルーノート」を訪れ、一流ミュージシャンらの演奏に酔いしれた。ハワイアンからジャズへの転向を決心して東京へ戻り、3人のトレーナーにジャズボーカルの基本を学びながらライブハウスに出演するセミプロ歌手となった。トレーナーには、かつての人気深夜番組「11PM」にレギュラー出演していたピアニストで、ボーカリスト、サキソフォン奏者の沢田靖司がいた。

「沢田先生にいろいろなことを教えていただき、目から鱗でした。先生がほぼバイリンガルなので発声練習は英語でするんですが、日本語の発声練習と違うこと自体が楽しくて。生花店の仕事を続けながら、先生の教室へ通うのがこんなに楽しくていいのかと思ったほど」

 四十路が近づきつつあったが、当時、デビューを望んでいたわけではなかったそうだ。

 ***

 好きだった音楽の道へ復帰した秋元。第2回【「あなたの歌のおかげで離婚をやめた」秋元順子(79)が語る『愛のままで…』秘話 デビュー直後には“偽者”騒動も】では、メジャーデビューに至った経緯、デビュー直後に現れた自身の“偽者騒動”などについて語っている。

デイリー新潮編集部