志を繋ぐ碑の姿

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京アニ放火事件から5年

 2024年7月18日で、京都アニメーション放火殺人事件から5年の節目を迎えた。この事件を後世に伝えるべく、7月14日、京阪宇治駅そばにある「お茶と宇治のまち歴史公園」の敷地に“志を繋ぐ碑”が設置された。筆者は17〜19日にかけ、現地に通って取材を行った。連日多くのファンが訪れて碑の前で手を合わせていたし、なかにはキャラクターのアクリルスタンドを手に撮影をしている人の姿もあった。

【写真】京アニ事件現場から離れたところに建立された“志を繋ぐ碑”と、その周辺の風景。事件の記憶は受け継がれるか

 志を繋ぐ碑の建立までには紆余曲折があった。当初、京アニの八田英明社長は、事件が起こったスタジオ跡地を公園化し、そこに公開型の慰霊碑を建立することを目指していた。しかし、地元の自治会の反対もあって頓挫してしまう。そこで、宇治市内の別の場所に、慰霊碑でも記念碑でもない“志を繋ぐ碑”が設置されるに至った。なお、跡地には今後スタジオが建設される予定で、非公開の慰霊碑も建立される計画だという。

志を繋ぐ碑の姿

 2011年に起こった東日本大震災の後、震災や津波の被害を後世に伝えるため、慰霊碑のデザインをどうするか、震災遺構などのモニュメントをいかに残すかという議論があった。志を繋ぐ碑は亡くなった36人をイメージした36羽の鳥が飛翔する様子をかたどる。この手の碑としてはかなり複雑なデザインだが、素材はアルミニウム製で着色もなされていない。肯定的に言えば周囲の環境に溶け込むデザインだが、それゆえ碑としての存在感がなく、知らないと通り過ぎてしまいそうである。

事件が忘れ去られる懸念も

 公園内に建つ交流施設「茶づな」では、宇治にゆかりの深い源氏物語がドラマ化されることにちなみ、「光る君へ 宇治 大河ドラマ展」が開催されている。そちらを目当てに訪れた人たちは、碑には特段関心を示さずに通り過ぎていく。筆者が取材をしていると、東京都内から訪れたという60代の女性が「これは何?」と、話しかけてきた。

 説明すると、「京アニ? アニメ会社? ……ああ、そういえばそんな事件があったわね」「この場所で事件があったわけじゃないの?」と返された。5年の節目ということでニュースでは盛んに報じられているはずなのだが、事件が忘れられつつあることに衝撃を受けた。確かに、どれだけ凄惨な出来事であっても、時間が経てば事件の記憶は薄れていくのだ。

 コロナ騒動の真っただ中、2021年に大阪の北新地のクリニックで放火殺人事件があったが、覚えている人はどれだけいるだろうか。京アニ側は、スタジオ跡地には訪れないようにとアナウンスをしている。また、亡くなったクリエイターの名前の公表に関しても積極的ではない。様々な事情はあると思われるが、数十年先、この凄惨な事件が忘れ去られるのではないか、という心配を抱いてしまった。

「京アニって何が凄いんですか?」

 2019年7月18日、京アニの第一スタジオが放火された日のことは鮮明に覚えている。未曽有の事件ということでマスコミ界隈も慌ただしかったが、印象的だったのは、マスコミ関係者がかなりの割合で京アニの名前すら知らなかったことである。新聞社の記者から電話で「京アニって何が凄いんですか?」「有名な作品って、あるんですか」と聞かれた。周りに詳しい記者が一人でもいるかと聞いたところ、「たぶんいないと思う」と言っていた。

 筆者はアニメ関連の取材をする機会が多いので、京アニの名は当然知っている。しかし、一般的に知られているアニメスタジオは、スタジオジブリくらいではないだろうか。子どもたちに人気の高い「プリキュア」シリーズや「ONE PIECE」を制作しているのは東映アニメーションという長い歴史をもつアニメスタジオだが、それすら名前を知らない人は多いかもしれない。

 2000年代、京アニはヒット作を連発し、その映像美は“神作画”と讃えられていた。30〜40代のアニメファンは当時を鮮明に覚えている人も多いだろう。いわゆるアキバ系のオタクの間では、京アニの作品を見たことがない人がいないほどの知名度を誇ったものだった。しかし、昨今は膨大な量のアニメが制作されているせいか、京アニの作品も良作と評判は高いものの、埋没している印象はぬぐえない。

 調べてみると、10代、20代のアニメファンのなかには、京アニの作品を一作も見たことがないという人も多いようである。「呪術廻戦」のMAPPAや、「鬼滅の刃」のufotableなどの方が若いアニメファンには認知度が高いようで、神作画と呼ばれることが多い。アニメファンのなかでも、世代によって、京アニに抱く印象は大きく異なるようだ。

京アニの作画水準に手厳しい声も

 今年6月、京アニの看板作品の一つである「響け!ユーフォニアム3」の放映が終了した。おおむね好評であり、SNS上では「感動した」「さすが京アニ」「志が繋がった」と評価する声が相次いだ。その一方で、長年にわたって京アニ作品を鑑賞してきたファンからは、「ファンの間ではなかなか大きな声で言いにくい雰囲気があるけれど……」と前置きしたうえで、「明らかに作画能力が落ちていて、ショックだった」という意見も聞かれた。

「響け!ユーフォニアム3」は、北宇治高校の吹奏楽部の部長となった黄前久美子率いるメンバーが、全国大会“金”を目指して邁進する集大成的な物語である。いわゆる前作、前々作の複線回収もあったし、久美子と高坂麗奈の特別な友情もしっかり描かれた。物語としての評判は上々であった。

 その一方で、前出のファンは「最後の作品なのに吹奏楽の演奏シーンが少なかった」「楽器や演奏のシーンを描けるスタッフが育っていないのではないか」と指摘していた。現地で話を聞いた他のファンからも、「完結したのは良かったが、作画が安定していない回が多かった」「池田晶子さんや高橋博行さんなど、亡くなったスタッフが健在だったら……違う映像になっていたかもしれない」という声があった。

 京アニの顧問弁護士を務める桶田大介氏がマスコミのインタビューに対し、制作能力が戻ったわけではないと語っていたことからも、指摘は当たっているのかもしれない。京アニは「涼宮ハルヒの憂鬱」の「ライブアライブ」という回で、楽器の作画で有名になったため、古参のファンほど演奏の場面を厳しく見てしまう傾向があるようだ。

技術継承をどのように行うのか

 京アニ放火殺人事件はアニメ業界に様々な課題を突き付けている。事件後、アニメスタジオの防犯体制は一層厳重なものになりつつある。例えば、あるアニメスタジオは通りに面した場所にあるが、一切看板を掲げていない。通りに面した出入口を敢えて封鎖したり、ホームページに住所を載せていないスタジオまである。事件の余波が、至るところに残っていることがわかる。

 また、あるアニメ会社の社員は「事件は起こるべくして起こった」と語る。「以前から、ファンが“俺のアイディアを盗んだだろ”と抗議してくるケースは、しょっちゅうありました。最近も、あるアニメ監督に“パクリだ”と言って嫌がらせを繰り返した女性に、慰謝料の支払いが命じられた訴訟があった。京アニに放火した犯人の予備軍みたいな人は一定数いたといえるし、よく今まで事件が起きなかったと思う」と振り返る。

 SNSを見ると、あるアニメに対して「パクリ」を連呼したり、スタジオやクリエイターのアカウントに対して執拗に粘着し、誹謗中傷のコメントを書き込んだりする人が見られる。こういった人物はまた同様の事件を起こしてしまうのではないか。悲劇を防ぐために事件を語り継いでいくことは、社会全体の責務と言っていいだろう。

 アニメ業界の人材育成の難しさも浮き彫りになっている。現在、日本のアニメ業界では人材を海外に依存しているスタジオが多く、国内のアニメーターが育っていないといわれる。そんな中、京アニは社内で人材育成を行うことで知られるが、同社の躍進の礎を築いた木上益治氏が事件で亡くなったダメージは大きいとされる。現地で取材したファンの意見を聞くと、失われた人材の穴を埋め切れていない可能性が高いし、人材育成が一朝一夕ではいかないことがよくわかる。

 アニメを日本の基幹産業だと考えている政府関係者もいると聞くが、現場は依然として問題が山積しているし、業界に対する支援が十分であるとはとても言えない状況にある。特に、前出の木上氏のような優れた能力をもつアニメーターの高齢化が進んでおり、技術の継承は今がラストチャンスだという意見もある。事件で亡くなった人々の志を真に継承していくためには、官民合わせてアニメ業界の問題を解決するための協議が欠かせないといえる。

ライター・宮原多可志

デイリー新潮編集部