道長を演じる柄本佑

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一条天皇への反省をうながす道長の辞表

 末っ子で、最高権力者になるような立場ではなかったが、いったん政権トップに昇り詰めると、権勢欲をむき出しにした――。史料にあたるかぎり、藤原道長はそんな人物だったと思われる。ところが、NHK大河ドラマ光る君へ』では、主人公の一人だから仕方ないとは思うけれど、かなり立派な「人格者」として描かれている。6月23日に放送された第25回「決意」では、道長(柄本佑)は辞表を提出してまで、一条天皇(塩野瑛久)をいさめようとした。

【画像】定子(高畑充希)を寵愛するあまり…一条天皇(塩野瑛久)とのキスシーン(第25話より)

 中宮定子(高畑充希)を寵愛するあまり、一条天皇は周囲の反対を押し切って、出家した彼女を内裏に近接する「職の御曹司」に戻した。そして、以後は定子のもとに入り浸り、政務を顧みなくなった。道長が、鴨川の氾濫の危険性を訴えても聞く耳をもたず、ついに堤防が決壊して、多くの人の命が奪われた。それを受けて、道長は職の御曹司に出向き、一条天皇に向かってこう言い放った。

道長を演じる柄本佑

「堤の修繕のお許しを、お上に奏上しておりましたが、お目通しなく、お願いしたくとも、お上は内裏におられず、仕方なく、お許しなきまま修繕に突き進みましたが、時すでに遅く、一昨日の雨でついに大事にいたりました。早く修繕をはじめなかった私の煮え切らなさゆえ、民の命が失われました。その罪はきわめて重く、このまま左大臣の職を続けてゆくことはできぬと存じます」

 さすがの一条天皇も驚いて、「朕が悪い。このたびのことは許せ」「朕を導き支える者はそなたしかいない」と、折れて謝罪したが、道長は聞き入れない。そのまま立ち去ると、伊東敏恵アナウンサーのナレーションが流れた。「道長は三度にわたり辞表を提出するが、一条天皇は受けとらなかった」。

重い腰病を理由に三度も出家を申し出た

 道長は一条天皇が受理しないとわかっていながら、駆け引きとして辞表を提出した、という設定なのだろう。一条に反省させ、同時に天皇としての自覚をうながすために、道長は博打に打って出た、という描写だと思われる。道長も父の兼家ばりの堂々たる政治家になった、と視聴者には映ったのではないだろうか。

 実際、史実の道長もこのころまでには、かなりのネゴシエイターになっていたと思われる。また、「三度にわたり辞表を提出した」ことも史実として確認できる。ただし、辞表を出そうと決意した理由が、史実とドラマとでは異なるのである。

光る君へ』では、道長の意向を受けて、天皇の秘書官長にあたる蔵人頭の藤原行成(渡辺大知)が、一条天皇に政務について判断を仰いだ。しかし、聞いてもらえないばかりか、一喝されるありさまだった。しかし、その行成が遺した日記『権記』によれば、道長が辞意を表明した原因は、一条天皇にはなく、道長自身にあった。長徳4年(998)3月、道長はひどい腰病に見舞われた。そして苦しんだ挙句、出家をしたいといい出したのである。

『権記』の記述にしたがって説明すると、当初から、一条天皇は道長の病を心配したようで、3月3日、行成を道長の自邸へ見舞いに行かせている。そのとき、御簾のなかに入ってきた行成に、道長は出家をしたい旨を伝えたという。しかし、行成が内裏に戻り、道長の意志を報告すると、一条天皇は却下した。一条は道長の病気の原因を「邪気(物の怪)が行ったものだ」と判断していた。要は、邪気さえ払えば、道長は政務を続けられるはずだ、ということである。

 しかし、道長もあきらめない。3月5日にも出家を申し出て、また却下されたが、3月12日にも出家を口にした。一条天皇としては、道長に代わる人材もなく、自身の伯父でもある道長に左大臣を続けてもらうしかなかった。一条は腰病で歩行も困難な道長のもとに、たびたび行成を遣わし、意見を求めるなどした。そうこうするうち、道長は4月に回復し、ふたたび内裏に参内するようになったという。

激務をこなすたびに病気になった道長

 ちなみに、『光る君へ』では、一条天皇が定子のもとに入り浸る様子が、憂うることとして描き出された。だが、その点も史実とはいえない。一条天皇は定子を職の御曹司に移したが、このとき宮中からかなりのブーイングを浴びており、定子のもとには、遠慮がちにしか通うことはできなかった。だからこそ、その後、定子を一定期間、内裏に戻したりした。彼女が職の御曹司に留め置かれていては、思ったようには「妊活」ができなかったのである。

 いずれにせよ、道長が出家を申し出た背景には、一条天皇の自分への信頼を試すという駆け引きもあったにせよ、主たる動機は病気にあった。女にうつつを抜かし、その結果、道長に身体を張っていさめられたように描かれた一条天皇は、少し気の毒にも思える。

光る君へ』では、いたって健康そうに描かれている道長だが、実際には、生涯にわたって病気に苦しめられた。なかでも、大きな心配事があったり、激務をこなしたりしたときには、病気になりやすかったようだ。

 先に述べた腰病を患う前年の長徳3年(997)は、道長の長兄であった道隆の息子で、道長のライバルでありながら自滅して流罪になっていた伊周と隆家が、大赦によって4月に赦免され、都に戻ってきた。それを受けて、道長は7月5日、藤原公季を内大臣に据え、左大臣道長、右大臣顕光、内大臣公季という体制を固めた。復帰した伊周が上級の公卿になれないように、手を打ったものと思われる。

 その間、道長は気が休まる暇がなく、また、体制固めのために激務が続いたと思われる。すると案の定、6月8日の夜中に発病した。そこからは回復したものの、7月26日、今度は瘧病(現代のマラリア)で倒れた。瘧病は感染症だが、免疫力が弱ったところで感染したのかもしれない。

人格者ではなくても人間臭かった

 さらには、件の腰病が回復したのちも、同じ年の8月には裳瘡(現代のはしか)に感染している。そして、このときも一条天皇に引退を申し出て、ふたたび断られている。

光る君へ』では、6月30日に放送される第26回以降、道長が長女の彰子を一条天皇のもとに入内させる話が展開する。定子が一条の皇子を出産するのを阻止するとともに、ゆくゆく彰子に皇子を産ませ、その皇子を即位させて、みずからは外孫として君臨する。それが道長の青写真だった。いずれその通りになるのだが、長保元年(999)11月7日、彰子を女御とする宣旨を一条天皇が下すと、奇しくも同じ日に、定子は皇子を出産した。

 彰子を入内させるためにも、道長はおそらく激務をこなし、神経をすり減らしてきた。そこに、定子が皇子を産んだという、もっとも恐れていたことが現実になったという知らせである。その10日後、道長は霍乱(現代の急性胃腸炎)で倒れている。

 冒頭に、道長は「権勢欲をむき出しにした」と書いた。しかし、権勢欲が膨らめば膨らむほど、政務は繁忙になり、神経はすり減ったことだろう。道長の身体は、そうした状況に対して悲鳴を上げ続けたのである。出家を申し出たのも、それだけ病気がつらかったということだろう。『光る君へ』の道長は「人格者」だが、史実の道長は、もっとえげつなく、もっと弱く、もっと人間臭かった。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部