安楽死の前夜に母が見せた悔し涙…「心が張り裂ける思い」取材Dが見つめた最期の日に向き合う家族の姿

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●再発を繰り返すがん、全身転移で耐え難い苦痛

フジテレビのドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』(毎週日曜14:00〜 ※関東ローカル)では、スイスでの安楽死を決断した母親とその家族に密着した『私のママが決めたこと〜命と向き合った家族の記録〜』を、きょう2日に放送する。

取材したのは、フジテレビ入社8年目の山本将寛ディレクター。日本では認められていない制度で、議論すらタブー視される風潮にある“安楽死”というテーマに果敢に挑み、昨年制作した『最期を選ぶ 〜安楽死のない国で 私たちは〜』は国内外のメディアコンクールで受賞するなど、高い評価を得た。

今回のドキュメンタリーで取材したのは、安楽死を切望する一人の女性と、向き合う家族。極めてセンシティブなテーマだが、どのように撮影を進めたのか。そして、最期の日に向かっていく家族の姿をどのように見つめていたのか。話を聞いた――。

最期の瞬間を迎えようとするマユミさん(手前)と夫・マコトさん (C)フジテレビ

○苦しんできた母の決断を、家族は戸惑いながら受け入れた

夫と2人の娘と暮らしていたマユミさん(44)は3年前、子宮頸がんが見つかった。抗がん剤治療などを尽くしてきたものの、がんは再発を繰り返し、脳など全身に転移。耐えがたい苦痛の中で、彼女は日本では合法化されていない“安楽死”をスイスで実行するという選択肢を考えた。スイスでは“安楽死”は合法で、外国人にも許されている。苦しんできた母の決断に対し、家族は戸惑いながらも受け入れた。

最期の日を前に、夫婦水入らずのスイス観光を楽しみ、翌日、いよいよその時がきた。ベッドの横には夫、そして、スマホにはテレビ電話でつないだ娘たちの顔も。番組では、その看取りの場面や、その後の家族の姿も追っている。

○一度断った取材を受ける「安楽死について知ってもらえる機会に」

山本Dがマユミさんと最初にコンタクトを取ったのは、約1年前のこと。マユミさんがSNSに、スイスでの安楽死について投稿したのを見て取材の依頼をしたが、当時は「家族に迷惑をかけたくないので、受けられないです」と丁重に断られた。

やり取りは一旦終わったが、昨年10月半ば、マユミさんから山本Dに連絡が。それは、翌月にスイスで最期を迎えると決めたことを伝えるのと同時に、「取材を受けます」という内容だった。話を聞くと、今の日本の安楽死に関する制度について思うところがあることから、番組に協力したいという気持ちになったという。

実はこの直前、山本Dが制作したドキュメンタリー『最期を選ぶ 〜安楽死のない国で 私たちは〜』が放送されていた。その番組を見たというマユミさんは「自分は当事者なので、目を向けられないところもあったんですけど、こういう形で取り上げてもらって、安楽死について知ってもらえる機会が増えたのは良かった」と感想を話していたのだそう。このテーマに対して、山本Dが真摯(しんし)に取り組む姿勢が、彼女の心を動かしたのかもしれない。

●とにかく生きる努力をものすごくしていた

今回、スイスでの撮影に入るまでの間、マユミさんががんという病気に打ち勝つためにたくさんの努力をしてきたことは、本人や家族の話、そして実際に接した人柄からも十分に感じたという。

「進行が速いがんだったので、どんどん転移してしまうのですが、それでも何とか治そうといろんな治療を試してきたんです。病院を変えてみたり、最新の医療でどんなことができるのかを調べたり、バリバリのキャリアウーマンとして仕事をしていた時のように、夜な夜なずっと調べていたと、夫のマコトさんも話していました。だからもちろん、最初から安楽死という方向に向かっていったわけではない。どんどん体が蝕まれ、痛みもひどくなっていく中で、娘たちのためにもという思いで、とにかく生きる努力をものすごくしていたんです」(山本D、以下同)

末期がんにおいては、痛みを和らげる緩和ケアという方法もあるが、「もちろん、それは選択肢の一つとしてあったといいます。でも、マユミさんの場合は頭皮がんがすごいスピードで大きくなっていて、自分の脳の中も同じようにがん細胞でパンパンになってしまうのを考えたらキツいなと話していたんです。脳に転移してから急に目が見えなくなってきたり、体の支障も感じていて、今の形ではなく命を延ばす緩和治療を、自分がしたいとは思えないと言っていました」とのことだ。

○仲の良い家族だからこそ「理解」

マユミさんは、山本Dに連絡を取った際、11月に安楽死をするという決断をまだ家族には伝えておらず、最初に実際に会うまでの間に、初めて向き合って話をしていた。

当時、高校3年生の長女(18)と小学6年生の次女(12)は、受験を控えていたこともあり、マユミさんも伝え方に苦悩。特に次女については、直接の会話だけでなく、直前までLINEで「ままは安楽死したいの?」(※原文ママ)と問いかけられ、それに答えるという形で理解を求めた。

夫と娘たちは、この選択に「納得」とまではいかないものの、最終的に「理解」「尊重」することになったが、山本Dのそれまでの取材経験では、家族全員が一定の理解を示すというのは、とても珍しいという。この一家がそれをできたのは、マユミさんの人柄が大きいと考えている。

「本当に友達のようにすごく仲の良い家族なんです。親としての責任をきちんと果たしつつ、同じ目線で話している印象があって、その表れとしてあだ名で呼び合うのが印象的でした。だからこそ、こういう形になったのではないかと思います」

●最期の地へ旅立つ母との別れ…泣き顔を見せなった娘たち

何の罪もない仲むつまじい家族に、なぜこのような試練を与えるのか――そんな思いにさせられるシーンの一つが、最期の地であるスイスへ旅立つ母と娘たちの空港での別れだ。

姉妹は、悲しく暗い別れにせず、明るく送り出そう決めており、その手を離すまで気丈に振る舞っていたが、やはり実際に別れた後、涙をこらえきれなかった姿をカメラが捉えている。それでも、保安検査場を通って再び姿を見せた時には、泣き顔を見せなかったという。

「お母さんがいろいろ悩んで下した決断に対して、ある種の敬意を持って自分たちも接しようと決めていたんだと思います。だから、実際には心の中で、ものすごい葛藤があったと思いますし、受け止めきれていないところもあると想像しますが、それをお母さんに見せないという思いが、彼女たちを強くさせていた気がします」

空港での母との別れの場面 (C)フジテレビ

○「娘たち返すことができないことが残念で悔しい」

愛する娘たちと別れ、夫と共にスイスへ降り立ったマユミさん。自分の意見をしっかりと持ち、今回の大きな決断をしてから家族の前でも弱音を吐かなかった彼女に、山本Dは“強い女性”という印象を抱いていた。しかし、最期の日の前夜に本音を打ち明けられた時が、今回の取材で最もつらかったと振り返る。

「娘さんたちへの思いを聞いていると、“娘たちは自分に対していろんなことを考えながら言葉をかけてくれて、それがすごく支えになってうれしかったんだけれども、自分は亡くなってしまうから、それを彼女たちに返すことができないことが残念で悔しい”と、涙を流したんです。ご家族からもマユミさんは全然泣かないと聞いていて、僕もそういう姿を見たことがなかったので、やっぱり家族ともっと一緒にいたい、娘さんたちにできることをもっとしてあげたいという思いが強くあるんだとすごく感じて、その時は本当に心が張り裂けるような思いで聞きました」

その翌日、マユミさんは自らの手で致死薬の入った点滴のバルブを開けた。愛する家族に見守られながら、穏やかに目を閉じ、最期の時を迎えることになる。

山本将寛ディレクター


●山本将寛1993年生まれ、埼玉県出身。上智大学卒業後、2017年フジテレビジョンに入社し、ディレクターとして『直撃LIVE グッディ!』『バイキング』『めざましテレビ』『Mr.サンデー』を担当。「FNSドキュメンタリー大賞」で『禍のなかのエール〜先生たちの緊急事態宣言〜』(20年)、『最期を選ぶ 〜安楽死のない国で 私たちは〜』(23年)を制作し、『最期を選ぶ』では、「FNSドキュメンタリー大賞」で優秀賞、フランス・パリで開催された日本ドキュメンタリー映像祭「Un petit air du Japon2024」でエクランドール賞(最優秀賞)、国際メディアコンクール「ニューヨーク・フェスティバル2024」でドキュメンタリー・Human Rights(人権)部門の銅賞を受賞した。また、『エモろん 〜この論文、エモくない!?〜』『オケカゼ〜桶屋が儲かったのはその風が吹いたからだ〜』といったバラエティ番組も手がける。

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