攻撃を受けたレストラン(写真:『晴れ、そしてミサイル』撮影:渡部陽一)

連日のように世界のどこかで戦いが起き、誰かの生命が失われている。目を背けたくなる残虐な映像も流れてくる。このような日々に私たちはどう向き合えばよいのだろう。『晴れ、そしてミサイル』を上梓した戦場カメラマン、渡部陽一氏はロシア軍の軍事侵攻後、ウクライナを4回訪れているほか、31年にわたってイラク戦争やアフガニスタン紛争、パレスチナ紛争など世界各地の戦場でシャッターを切り続けてきた。そのような渡部氏だから感じてきた戦場のリアルについて話を聞いた。

戦地には絶対に1人では行かない

――戦場カメラマンとして戦地へ赴く際のリスク管理は?

戦場カメラマンというと地雷が埋まっているような戦争の最前線でカメラをたくさん持ち、1人で駆け回りながら写真を撮っている、危険な仕事というイメージを持たれるかもしれません。

しかし僕は1人では絶対に戦地へ飛び込まず、その地域で生まれ育ち状況に精通したガイド、地域ならではのアクセントを使いこなせる通訳、そして万が一、何か事件に巻き込まれたときに身を守ってくれるセキュリティ担当と最低4人で取材チームを組み立てます。

現地のスタッフは外国人の僕にはわからない、ちょっとした違和感を肌で感じ取り、危険を察知します。そのため彼らから「ここで引きましょう」と言われれば必ず従います。僕が何十回と取材し、この地域のことはわかっていると思っていても、です。取材を欲張らず、撤退する勇気を持つこと。これが戦場報道の危機管理、安全を担保する土台となっています。

戦地の取材で必要なのは8割が安全危機管理や情報管理など事前の段取り、2割が戦場に立ってからの撮影やインタビューの技術だと考えています。これが僕の戦場カメラマンとしての個人的な仕事の向き合い方の線引きです。つねに安全第一、取材はその次。この優先順位が動くことはありません。


渡部陽一さん(撮影:尾形文繁)

――ゆっくりとした話し方は意識されているのですか?

幼少期のころから話すスピードがゆっくりでした。小中学生のころは友達から「渡部くん、話し方が変だよ」といつも言われていたのですが、幼かった僕は言われている意味がよくわからず、そのまま大きくなってしまいました。

ただカメラマンになって世界中を飛び回るようになると、言葉が通じない地域でも知っている単語をゆっくり話せば相手も必ず耳を傾けてくれました。そんな日々を31年も送ってきたので、もともとの話し方に拍車がかかり、もっとゆっくりになってしまったようです。

戦場のイメージと現実

――新著『晴れ、そしてミサイル』のタイトルに込めた思いは?

戦場と聞けば、どこもかしこも破壊されて燃え尽き、すべてが壊滅されたイメージを持たれる方が多いと思います。しかし実際、現地に降り立つと、最初は「どこが戦場なんだろう」と思うほど、ごく普通の街並みが広がっていることもあります。

僕は現地のガイドや通訳の家にお邪魔させてもらって取材を進めるので、戦地で暮らす人々の様子を間近で見てきました。争いや紛争が起きている国や地域でも、一般市民にとっては朝起きて、ご飯を食べて、仕事や学校へ行って、家族とともに過ごして眠りにつく、という日常が繰り返されています。

もちろん巡航ミサイルが飛んできたり、自爆テロや市街戦が起きたり、突発的な危機はあります。しかし危機が去れば、また家族の日常が淡々と繰り返されていく。

戦場カメラマンとして、戦いや残虐な光景そのものにカメラを向けることもあります。しかし、その悲しい戦争が起きている街や村で暮らす人たちの日常を撮ることを自分の使命と考えています。

例えばどのように水を確保しているのか、生まれたばかりの赤ちゃんをどうケアしているのか、結婚式の衣装をどう調達するのか。取材をしていると日本で家族や友人、近所の方たちとつながりあう関係性が、世界中どこの紛争地や戦地でも見えてきます。戦場の日常を記録に残していくこと。それが取材の大きな柱になっています。

僕は「晴れ、そしてミサイル」という言葉に、戦場に暮らす人々にも、僕たちと同じように家族や友人との暮らしを慈しむ温かな時間がある、という現実を知ってもらいたい、と願いを込めました。彼らには外部から来た僕たちのような人間を温かく迎え入れる「寛容さ」もあります。

しかし、ごく普通の暮らしの中で残虐な行為が繰り返されている、というのも事実です。この日々繰り返される状況を表現するために「晴れ、そしてミサイル」というタイトルを付けました。

戦地に訪れる「晴れ」の瞬間

――ミサイルが連日のように落とされている、パレスチナ自治区・ガザのような場所であっても「晴れ」の瞬間はあると考えていますか。

激しい戦時下であっても、家族や友人と共有する時間は、何よりそこで生きていく人たちにとって大切な心の支えになっているはずです。日本にいると見ているだけで悲しくなる映像はたくさん流れてきます。

しかし、そのような場所にも人間らしい思いやりや優しさを持った人たちが今、この瞬間も生きている、ということに気づいてもらえたら、と願っています。


キーウ中央駅で撮影した再会の場面(出所:『晴れ、そしてミサイル』撮影:渡部陽一)

――ウクライナではイルピンやブチャなど一般市民が大量に虐殺された一帯を取材されています。

2022年5月、ロシアの軍事侵攻後初めてウクライナに入りました。イルピンやブチャで取材し、はっきり確認できたこと。それは、ロシアがウクライナ領内で繰り返し行ってきたことは一般市民を狙った大量虐殺、ジェノサイドだということです。

激しい攻撃を受け焼き尽くされた一般市民の家、蜂の巣のような銃撃痕が残る乗用車、無惨に殺害された遺体の数々……。一般市民の大量虐殺は国家権力で情報統制され、その事実が伏せられてしまうこともあります。戦場カメラマンはその事実を明らかにするため、写真によって戦争犯罪の証拠を集める役割もあるのです。

「戦争の犠牲者はいつも子どもたち」

――戦場カメラマンになったきっかけも、ジェノサイドだったそうですね。

20歳のとき、大学の授業で知った狩猟民族・ムブティ族に会いたいとバックパッカーでアフリカへ向かいました。しかし現地に降り立つと、ジャングルの一帯ではルワンダ内戦が勃発し、民族間の衝突によって100万人近い方々が犠牲になっていたのです。しかし血だらけの子どもたちが目の前で泣いていても、学生だった僕は1人も助けられませんでした。


渡部陽一(わたなべ・よういち)/1972年、静岡県生まれ。明治学院大学法学部法律学科卒業。学生時代から世界の紛争地域を専門に取材を続ける。戦場の悲劇、そこで暮らす人々の生きた声に耳を傾け、極限の状況に立たされる家族の絆を見据える。イラク戦争では米軍従軍(EMBED)取材を経験。これまでの主な取材地はイラク戦争のほかルワンダ内戦、コソボ紛争、チェチェン紛争、ソマリア内戦、アフガニスタン紛争、コロンビア左翼ゲリラ解放戦線、スーダン、ダルフール紛争、パレスチナ紛争、ロシア・ウクライナ紛争など(撮影:尾形文繁)


そのときの無力感から自分にできることは何かを考えました。思いついたのが子どものころから好きだったカメラで戦地を撮影し、1人でも多くの人に戦争の犠牲になっている子どもたちの姿を知ってもらいたい、ということ。「戦場カメラマンになる」という“鉄の杭”が自分の心に打ち込まれた瞬間でした。

その後、31年にわたって戦地での撮影を続けてきました。戦争や紛争は民族や宗教の違い、資源や領土をめぐる問題など、さまざまな理由で起こりますが、どの戦場でも変わらなかったこと。それは「戦争の犠牲者はいつも子どもたち」だという現実です。

戦争で傷つき、泣いている子どもたちの声を世界へ届けるため、危機管理を徹底しながら僕はこれからも戦地でシャッターを切り続けるつもりです。

(吉岡 名保恵 : フリーライター)