豊臣秀頼は逸話も少なく謎多き武将でした(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第44回「徳川幕府誕生」では家康が征夷大将軍になりましたが、茶々は偉丈夫に育った息子・秀頼と豊臣家の復権を目指しました。第45回「二人のプリンス」では、関ヶ原で敗れた武士が秀頼のもとに集結。この豊臣秀頼について『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。

豊臣秀頼は1593年に大坂城で生まれました。母は茶々(淀殿)で、父・秀吉は57歳です。秀吉は先年、同じ茶々を母とする初めての実子・鶴松を失っていたため、同じことが起こることを極度に恐れていました。そこで、子の健康を願い行う当時の風習に沿って、いったん秀頼を大坂城の外に捨て置き、それを家臣の松浦重政が拾い上げる形をとります。

この秀頼の誕生は、秀吉にとって「思いもよらぬこと」。まさに望外の喜びでしたが、同時に深刻な問題も抱えました。それは後継者に指名していた甥の関白・豊臣秀次の扱いについてです。

秀吉は甥の秀次を抹殺

当初は秀次の娘と秀頼を婚約させ、秀次から秀頼への政権継承を考えますが、結局、秀次とその一族を謀反の罪に問い、虐殺します。秀頼が2歳のときのことです。

しかし秀吉と秀頼の年齢差を考えると、秀頼が成人するまでの政権を担う人物が必要となります。秀次を殺してしまった秀吉は、徳川家康を中心とする五大老と、石田三成らの五奉行による合議制の政権運営に舵を切りました。しかし、この目論見は秀吉の死の直後からゆらぎます。秀頼が5歳のときのことでした。

まず家康が政権掌握に動き出し、それに対抗する形で三成が挙兵し、関ヶ原の戦いが起こります。この戦いに家康は勝利し、事実上の国内最高権力者の座につきました。

関ヶ原の戦いの直後、家康は秀頼の補佐役として、関ヶ原の戦いの論功行賞を行いました。そこで家康は豊臣家の直轄の土地を勝手に分け与え、自身にも大幅な加増を行います。これによって豊臣家は220万石から65万石、徳川家は400万石になりました。

こうして徳川家が領地のうえでも豊臣家を圧倒し、事実上、豊臣家は一大名の地位に落とされました。秀頼が7歳のときの出来事です。

さらに家康は、征夷大将軍の官位について武家の棟梁となり、江戸に幕府を開きます。秀頼が10歳のときのことです。


茶々(淀殿)は、秀頼が臣下の礼をとることを拒みました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

家康が天下に政権交代を示す

これは、そもそも秀吉が織田家から天下を簒奪した手法と同じ手法です。

秀吉は自身を関白の地位につけることで、官位の権威をもって織田家の政権を公的に奪いました。家康はそれにならって、征夷大将軍という武家の棟梁としての公的な立場をもって政権交代を天下に示そうとしたと思われます。

その一方で家康は秀吉の遺言に従い、孫娘である7歳の千姫を秀頼の正室として婚姻させ、大坂に送ることを決めました。この時点では、家康は秀頼に対して融和的な姿勢を見せており、秀吉が信長の嫡孫である織田秀信(三法師)を岐阜城主とし、豊臣政権下の一大名として遇したのと同じ考えでしょう。

秀頼は、朝廷においては、摂関家の家格を維持する公家としては昇進を続けていました。これに対し家康は、それまでうやむやにしていた秀頼との関係を正式にはっきりさせるため、高台院(寧々)を通じて秀頼に臣下の礼をとるよう要求します。秀頼13歳のときのできごとです。

これには秀頼の母・淀殿が激しく反発して立ち消えに。家康は、大坂に6男の松平忠輝を送って融和を図りました。この時点では、まだ家康は豊臣家に一定の配慮を行っていたことがわかります。

家康は偉丈夫になった秀頼と対面

そして、ついに家康と秀頼が対面するときがやってきます。家康が臣下の礼を要求してから6年後、秀頼18歳のときのことです。2人は二条城で対面します。この対面は、加藤清正や浅野幸長ら豊臣恩顧の諸将の働きかけで実現しました。

これを豊臣家の臣従と見るか、なお豊臣家が徳川家に対等の立場を示したものか、その意義への見解は分かれますが、仲介した加藤清正らの本音は、ここでおとなしく秀頼が家康に臣従することを願ったのではないかと思われます。

かつて家康は、ひざを屈して上洛し秀吉に臣従しました。そのことを知っている清正らにとっては、淀殿がなんと言おうとも秀頼に、その器量を期待したように私は思います。

このときの秀頼の感想など、彼の考えを窺い知れるものは何も残っていません。家康は秀頼の器量を認め、かつ恐れたという話もありますが、これも事実かはわかりません。ただ秀頼が、非常に礼儀正しく家康に接したことだけは間違いないようです。

家康が恐れたのは、秀頼の資質よりも人気だったのではないでしょうか。秀頼への京の人々による熱狂に触れ、家康は初めて秀頼の存在の危険性を認識したものと思われます。秀頼がここまで表舞台に出てこなかったことが彼の神秘性を高めたのかもしれません。以降、家康は周到に豊臣家排除を開始しました。

豊臣滅亡までの家康の策略

家康は、まず豊臣家の財力を削ぐことを考えます。豊臣家は所領を65万石に減らされたとはいえ、大坂城には秀吉が残した莫大な量の金銀がありました。

家康は豊臣家に、秀吉が建立したものの慶長伏見地震で倒壊した方広寺大仏殿の再建をもちかけます。その莫大な費用は豊臣家が負担し、その実施にあたっては徳川家も手伝うというものでした。当然、豊臣家の負担は大変なものになります。

この工事はわずか2年という異例の早さで完了しました。そして方広寺大仏殿の再建に際して納める梵鐘の銘文について問題が発生します。いわゆる方広寺鐘銘事件です。

ほぼ言いがかりに近い、この問題で、家康は「秀頼の江戸への参勤」「淀殿の人質」「大坂城からの国替え」という要求を行います。豊臣家にとっては屈辱的な条件ですが、もしもこのとき、この条件を受け入れていれば、豊臣家は少なくとも命脈をつないだ可能性は高いでしょう。

なぜなら家康自身、ほぼこれと同じ屈辱を秀吉から与えられたものの、家康は受け入れたからです。しかし豊臣家はこれを受け入れず、徳川との全面対決に向かっていきます。

1614年、ついに家康は大坂攻めを決定。いわゆる大坂冬の陣が始まります。秀頼は22歳になっていました。この戦いは、真田信繁(幸村)の活躍もあり、大坂方が予想を上回る戦いをします。

そのうち、両者とも兵糧が尽き始めて継戦が難しくなったこともあり、和議を結ぶことに。このとき徳川方は、和議にあった外堀を埋めるという条件を破り、内堀まで埋めてしまいます。これで大坂城は城としての機能を果たせなくなりました。

この大坂冬の陣においてはさまざまな逸話が残っているのですが、不思議なのは総大将である秀頼の逸話がほとんど残っていないことです。大坂方の最終意思決定者として逸話が残るのは、母である淀殿ばかりでした。

秀頼は結局、出陣もできず

身長2メートル近く、体重は161キロという並外れた巨漢だったと言われる秀頼は、その体躯だけ見れば豪傑ともいえる大将です。その彼の言葉や行動が何も残っていないというのは極めて不思議といえます。

翌年の1615年に、国替えや牢人の追放を拒否して埋め立てられた堀を掘り返し始めた豊臣家に、家康は再出兵します。大坂夏の陣です。

野外戦で活路を見出そうとした豊臣方でしたが、奮戦むなしく敗れ、秀頼は母である淀殿とともに自害します。

享年23歳。

この夏の陣においても秀頼は目立った動きをすることなく、出陣することもなく、この世から姿を消しました。


豊臣秀頼、淀君ら自刃の地の碑(写真:dtgw60/PIXTA)

まるで蜃気楼のような存在で生涯を終えた秀頼は、逆に、情報が何もないがゆえに、われわれにいろいろな想像を与える不思議な存在でした。

秀吉が辞世に残した

「浪速のことも夢のまた夢」

これは、まるで秀頼のことを指しているようでもあります。


(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)