駿府城(写真: taktak99 / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第49回は、宮中を震撼させた不祥事に対する家康の処理能力について解説する。

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会長の家康と社長の秀忠でタッグを組んだ

慶長8(1603)年、征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた徳川家康だったが、その2年後には、息子の秀忠に将軍の座を譲ってしまう。

体調に問題があったわけではない。なにしろ、家康はつねに健康に気を配っており、粗食を心がけたばかりか、健康のため自ら薬の調合まで行っている。「健康オタク」といってもよい。

家康は自身が健康なうちに将軍を息子に引き継ぐことで、存分にフォローアップしようと考えていたらしい。

かつて甲斐の武田信玄が、自らの死期を悟ってからようやく勝頼に本格的に政権を譲渡し、バタバタのなか、結果的には滅亡へと向かった。そんな武田家の末路を、見ていたからかもしれない。家康は早々と息子に将軍職を譲ると、自身は駿府に退き、大御所となっている。

いわゆる「二元政治」であり、政治の実務は秀忠が行ったものの、政治の実権は依然として、家康が掌握することとなった。現代の会社経営でいえば、創業者が息子に社長を譲って、自らは会長として権勢を振るうという関係によく似ている。

家康と秀忠は、支配エリアの分担も行っている。会長の家康はいわば西日本の担当で東海・北陸から西の諸国を、社長の秀忠は東日本の担当として関東・奥羽の諸国を支配した。

とはいえ、軍事指揮権や外交権は、大御所の家康が握っている。さらに、秀忠のもとには、家康の信頼が厚い本多正信が送り込まれており、家康が駿府からしっかり秀忠を見張っていた。人材も明らかに家康の駿府城のほうに集められている。

新リーダーを立てた家康の配慮

そうして若社長を監視しながらも、家康なりに配慮もしていたようだ。越後の堀忠俊が父の堀秀治から領地を受け継ぐにあたって、家康はこんな意味の御内書を与えた。

「越後国のこと、将軍よりすでに申し渡されているが、満足している。将軍に忠義を尽くして勤め仕えてほしい」

このような御内書を家康が発給していることからも、諸大名としても秀忠からの許可だけでは、まだ心もとなく、家康からの確証がほしいと思っていたことがわかる。

それに対して家康は、「自分もちゃんと把握している」と伝えながらも、「現在の将軍である秀忠が許可しているのだから安心せよ」と言わんばかりに、秀忠のことを立てている。限定的ではあるものの、領地のお墨付きを与えるのは秀忠だと、念を押していることがこの御内書から読み取れるのだ。

また、慶長14(1609)年12月には、家康は自分の配下にある中国、西国、北陸の大名にも、関東に下って江戸で年を越すように指示。どの大名に対しても「秀忠に忠勤するべし」と暗に伝えた。

秀忠はそんな父、家康の気づかいにも驕ることなく、自分の立場をよくわきまえていた。家康の意向には、ほぼ100%従っているといってよい。

慶長14(1609)年に、後陽成天皇が宮中の不祥事に激怒するという事件が起きる。天下無双の美男子とも言われた、猪熊教利が女官らに片っ端から手を出し、そのうえ乱交パーティーまで主催した。

寛永年間に成立した『当代記』によると、怒りのあまりに後陽成天皇は駿府の家康に「関係者を厳しく斬罪にするように」と命じたという。

乱交パーティーに家康はどう対応したか

何とも情けない事案に、秀忠もあらためて将軍の職務が多岐にわたることを感じたかもしれない。そして父がどんな判断をするのか。自分が裁定する立場になったときに備えて、さぞ注目したことだろう。


家康はどう対応したのか?写真は家康公銅像(写真: ブルーインパルス / PIXTA)

家康がどう答えたかについては『御湯殿上日記』に記載されている。『御湯殿上日記』は天皇に近侍する女官により当番制で記されたもので、皇室史の史料としては第一に置かれるべきものとされている。

『御湯殿上日記』によると、京都所司代の板倉重宗などを通じて「天皇のお怒りはもっとも」と理解を示しながらも「後難もないようにご糾明することが大切です」とし、「厳しすぎる処分は波紋を広げる」と暗に釘を刺している。このあたりの差配はさすがだろう。

その後、京都所司代が駿府に使いに出されて、家康の意向を確認。首謀者の猪熊教利ら2名のみを斬罪にし、あとの関係者は流罪にとどめている。

この事件について、秀忠にも形式的に知らされていたが、その返事として秀忠は「今度のことはごもっともと思います」(『御湯殿上日記』)と使いを通して伝えるのみだった。まだ自分の範疇ではないと思ったのか、空気のような存在に徹している。

その一方で、秀忠の判断による大名への御内書も徐々に増えていく。居城が全焼した前田利長への見舞状を送ったり、琉球出兵に成功した薩摩藩島津家に賞賛を伝えたりと、秀忠が独自の動きをすることもあった。

秀忠なりに「自分だけで判断してよい案件」を見極めていたのではないだろうか。まさしく「将軍の見習い期間」を家康とともに過ごしたのである。

「将軍見習い期間」後に急変した秀忠

まだまだどこか頼りない第2代将軍、徳川秀忠。そんな秀忠が、家康の死後、大名の改易と転封を連発する熾烈な治世を行うとは、この時点では誰も想像しなかったことだろう。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
福田千鶴『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』(新人物往来社)
山本博文『徳川秀忠』(吉川弘文館)

(真山 知幸 : 著述家)