父・三浦雄一郎氏(左)とともに登山をしてきた次男、豪太氏は、コロナ禍を利用して資格取得を目指したという(写真:『諦めない心、ゆだねる勇気 老いに親しむレシピ』)

2023年8月、 冒険家・三浦雄一郎氏の次男、豪太氏(54歳)は、要介護4の「寝たきり状態」から奇跡の回復を果たした父・雄一郎氏(90歳・当時)の「富士登山」挑戦を、多くの協力メンバーをまとめ、アウトドア用車椅子を使うことでサポート、無事に成功させた。

しかし、車椅子を使った雄一郎氏の富士登山は賛否両論を呼び、富士山登頂を伝えるYahoo!ニュースには2300件を超えるコメントが寄せられた。 要介護4の寝たきり状態から、富士山頂に至るまで――その裏側にはいったい何があったのか?

50代での資格への挑戦や移住、そこに重なる親の病気について、雄一郎氏との共著『諦めない心、ゆだねる勇気』の豪太氏執筆部分から、一部抜粋・再編集・加筆してお届けします(全3回、第1回はこちら)。

2020年、ほとんどの仕事がキャンセルに

コロナ禍でさまざまなことがストップしてしまった時期。あの頃は、僕にとって猛烈な逆風だった。

僕は、講演、スキーやアウトドアのイベントの主宰、スキーのコーチ、オリンピック中継の解説者、スキー関連の通訳、スキー関連団体の理事など、いろいろやって生活している。いわば、山、スキーに関する“よろず引き受け業”である。

しかし、“ステイホーム”が求められた2020年はほとんどの仕事がキャンセルになった。

逆風はつらいが、それは僕には変えようがない。そこで、空いた時間を有効に使おうと考え、以前より関心を持っていたビジョンを具体化させることにした。

山岳ガイドと「IOI」の資格を得ることである。

山岳ガイドの資格は「公益社団法人日本山岳ガイド協会」が認定するもので、文字どおり山岳ガイドの公的なライセンスだ。登山経験はそれなりにあったが、それを生かすためにきちんとした資格を持ちたかったのだ。

では、「IOI」とは何か?

近年では、障がいの有無や年齢にかかわらず、多様な人々がともに大自然を楽しむ取り組みを「インクルーシブ野外活動」と呼んでいる。前回(第1回)の原稿でも書いたが、「インクルーシブ」とは「多様な人々をすべて包み込む」といった意味もあるそうだ。

「IОI」は、こういった野外活動の指導員のことである。

たとえば、障がいがある人がいる家族の誰かがIОIの資格を得ることによって、アウトドア用車椅子や、専用のスキーなどの道具を用いて、家族みんなで野外活動を楽しめるようになる。

これは、父のような要介護になった人がいる家族やコミュニティにもいえることだ。

家族を連れて、老父母の住む街に移住


三浦豪太氏が五輪出場を果たしたモーグルも、子供の頃、札幌で覚えた体験がベースとなっている(写真:『諦めない心、ゆだねる勇気 老いに親しむレシピ』)

コロナ禍でもう一つ進めたことに、老親の住む街への移住がある。

もともと僕は札幌出身だが、アメリカ留学や選手生活を経て、逗子で家族と生活していた。だが、ひとりのスキーヤーとして、スキー場にもっと近い環境で生活したいという思いをずっと持っていた。また、親として3人の子どもたちも山やスキーが身近に感じられる土地で育てたいという理念も温めていた。

札幌に住めば仕事の幅を広げられつつ、両親をサポートできる。

住み慣れた逗子を離れ、両親のいる札幌へ。妻や子どもたちと相談し理解を得たうえで、僕は札幌に拠点を移すことになる。

資格の取得や移住は、なかなかにエネルギーを必要とする。

そして、そんなタイミングで、親の病気や介護に直面する。50代ともなれば、多くの方が似たような経験をするのではないだろうか。僕も例外ではなかった。

コロナ前の2019年4月に、父は脳梗塞と診断された。

「めまいがする。きっと脳の問題だ」とうったえ、病院に行ったことで脳梗塞だとわかったのだ。

脳梗塞にはふたつのタイプがある。脳の血管が動脈硬化により狭くなることで起きる「脳血栓」と、心臓等にできた血栓が脳の血管に流れて詰まる「脳塞栓」だ。このうち、父が診断されたのは「脳血栓」であり、そのなかでも脳の深部を流れている細い血管が詰まってしまうことで起こる脳梗塞「ラクナ梗塞」だった。これは、頭にメスを入れるようなものではなく、薬での治療により回復することが多い。

なお、「ラクナ」とはラテン語で「小さなくぼみ」といった意味だ。冗談が好きな父はこれを「“楽な”梗塞だ」と言っていた。そのぐらいの余裕があった。

早めに病院に駆け込んだことで大事に至らなかった。86歳の高齢者が脳梗塞となれば、それだけでシリアスな事態だといえるが、父の場合、「検査してみたら脳梗塞だった」──といった感じだった。ただ、ふらつきの症状は残った。

父が、100万人に1人の難病で「要介護4」に

深刻な状況になったのは、コロナ禍の2020年6月3日のことだった。

そのとき僕は、父の検診に付き添うためにたまたま札幌の両親の家に来ていた。深夜3時半頃、大きなテレビの音がして目を覚ました。

高齢者にありがちなことだろうが、父はいつも大きな音でテレビを観る。別の部屋で寝ていた僕はそのときも、「まったく迷惑だなあ」と目をこすって、頭から布団をかぶった。

だが、どうも様子がおかしい。テレビの音がいつもの大音量よりもさらに大きいのだ。いくらなんでも大きすぎる。それでもなんとか眠ろうとしていると、遠くから何やら声が聞こえる。

「お〜い。お〜いい」

父が呼んでいるのだ。

結果的にはテレビの音を大きくすることで、その声に僕が気がつくのが遅くなったのだが、それは父が僕を起こすためにできる精一杯のことだった。そのとき、父は身体に力が入らなくなっていたのだから。

父のうめき声に気づいた僕が様子を見に行ったのは4時頃。全身が痺れ、動かないという。すぐに救急車を呼んだ。

「頸髄硬膜外血腫」という100万人に1人の珍しい症例だった。

その日の昼すぎから夜にかけて、父は手術を受け、そのまま入院生活に入った。まだコロナワクチンも開発されていない時期だったので、家族の付き添いも制限された。あの頃の医療機関の緊迫感というのは、本当に緊急事態を感じるものだった。

父は、歩くことも、立つこともできなくなり、「要介護4」となった。

リハビリ次第と言われ、「だったら、父には有利だな」

だが、この病気についてよく調べてみると、病状にはいろいろあり、その後は完全に回復している人から、寝たきりになっている人まで差があることがわかった。

「リハビリ次第ですね」と医師は言う。「だったら、父には有利だな」と思った。

これまで、父は骨折などでリハビリは何度も経験してきているし、起き上がれるようになる、歩けるようになる、といった目標を設定すれば頑張るだろう。骨盤と大腿骨の付け根を骨折した大変なときも、普通なら寝たきりになってもおかしくない状態だったのに、数年後にはエベレストに登っていたのだ。

うちの父なら今回も寝たきりにはならず、ある程度は回復するか、もしかすると完全回復もするかもしれないと考えた。


手術後に面会をする母と。父・三浦雄一郎氏は「頑張りようがない」と珍しく弱気だったという(写真:『諦めない心、ゆだねる勇気 老いに親しむレシピ』)

入院した父は父で大変だったが、同時にもう一つ問題となったのは、母が自宅にひとり残されることだった。

父と同じ年齢の母は、普通に生活できるもののわずかに認知症の傾向もみられる。また、そのことで物事が思いどおりにならずイライラすることも多いようだ。さらに、複雑骨折をした経緯から両膝が人工関節であり、歩行に障がいもある。

そんな母が自分でクルマの運転をしたいと主張する。「私は大丈夫だ」と。

札幌の生活では自動車に頼らざるをえないという母の気持ちもわかるが、もちろん、怖くてとてもハンドルを握らせることはできない。

コロナ禍の日々の中では、母の胃がん(ステージ2)の手術もあった。

手術をすれば大事に至らないとのことだったが、やはり心配だったし、入院生活はコロナ禍で見舞いもままならない。そのことが、認知症を進行させるのではないかという懸念もあった。

どんな状況でも、できることをやるしかない。父のときと同じだ。幸い母の手術は成功し、わずか2週間で退院することができた。認知症にもそれほど影響はなかった。

3人きょうだいでの、介護ローテーションの始まり

父や母の介護のために、姉の恵美里、兄の雄大、そして僕の3人がローテーションで札幌に通う日がつづいた(その途中で僕は札幌に移住し、サポートしやすくなったが)。


父は転院したり、プログラムを変更したりしながらリハビリをつづけていた(写真:『諦めない心、ゆだねる勇気 老いに親しむレシピ』)

姉はプロデューサー的な存在だ。全体を把握していつも冷静な判断をする。リーダーシップをとる。兄の雄大はどこか超然としているというか、事態を達観している。そして、緻密に考え、やるべきことを的確にやる。兄がいるだけでなぜか安心できる。僕は……エベレストやアコンカグアへの遠征のときもつねに父と一緒に行動していたように、現場で身体を動かすことが多いだろうか。

「3人でなんとかやっていこう」。それぞれが負担になるところはカバーし合って介護をしていこう。

父の手術が成功したあとのある日、ワインを飲みながらきょうだいで話し合ったのをよく憶えている。


(三浦 豪太 : プロスキーヤー、博士(医学)、慶応義塾大学特任准教授)