東京 皇居のライトアップ巽櫓の夜景(写真: dual180 / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第48回は、関ヶ原の戦い後に家康を悩ませたある事情について解説する。

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正月も気が休まらない大名たち

早いもので今年も残りわずか。なんとか仕事納めまでにやるべきことを終わらせて、年末年始くらいゆったり過ごしたいものである。

だが、戦国大名はそうはいなかった。ましてや、関ヶ原の戦いが終わって最初の正月となれば、今後を見据えて大名たちは、有力者のもとに挨拶に行かなければならない。

慶長6(1601)年1月1日。関ヶ原の戦いが慶長5(1600)年9月15日だから、それから4カ月も経っていないうちに迎えた新年である。

もし、現代人がタイムスリップして大名の立場になれば、徳川家康のもとに馳せ参じることだろう。だが、当時の大名たちは違った。真っ先に豊臣秀頼のもとに挨拶にうかがっており、家康が諸大名から挨拶を受けたのは、1月15日のことだった。

なにしろ、秀頼はわずか9才にもかかわらず、すでに「従二位権中納言」という高位に就いている。公家たちもまずは秀頼に年頭の礼を行ってから、家康のもとへと向かった。

関ヶ原の戦い後も、豊臣恩顧の大名は、変わらず豊臣家のほうを重視したようだ。そのことは、田中吉政が愛宕山教学院に発給した文書からも、よく伝わってくる。慶長6(1601)年 1月14日、吉政は次の順番で祈願依頼を行った。

「秀頼様・政所様・御上様・内府様・中納言様・結城様・下野様・満千代様為御祈疇」

秀頼を筆頭に「政所様」(秀吉の正妻である寧々)、「御上様」(秀吉の側室で秀頼の母である淀殿)と続き、そのあとにようやく「内府様」と家康の名を挙げている。

田中吉政は織田信長、豊臣秀吉に仕えたが、秀吉の死後は家康に接近。関ヶ原の戦いでは東軍として戦って、戦功を上げている。そんな家康寄りの人物でさえも、秀頼へはもちろんのこと、寧々や淀殿への敬意を持ち続けていた。

こうした周囲の態度からも明らかなように、家康は関ヶ原の戦いに勝利したことで、天下人となったわけではない。「天下分け目の大決戦」と呼ばれながらも、もともとは、「自分勝手に振る舞う家康を排斥するべきだ」という石田三成らと、家康とそれを支持する勢力との戦い、つまり、「豊臣政権内の主導権争い」にすぎなかった。

「徳川軍」と「豊臣軍」の決戦が行われたわけではないので、家康は依然として、立場的には秀頼の下にならざるをえなかったのである。

論功行賞の裏にあった家康の苦悩

いや、そうはいっても関ヶ原の戦いのあと、家康は西軍の諸将から領地を没収し、東軍の諸将に論功行賞を行っているじゃないか――。

そんな異論があるかもしれない。確かに、関ヶ原の戦いのあと、敗れた石田三成、宇喜多秀家、小西行長、長宗我部盛親ら8人の大名が改易されている。そのほか、西軍に属した諸大名たちは、領地が没収され、厳封・減封が行われた。

その一方で、福島正則や小早川秀秋など東軍の勝利に貢献した大名には、恩賞が与えられている。肥後の加藤清正、筑前の黒田長政、筑後の田中吉政、土佐の山内一豊らのように、このときの加増で国持大名に昇格した者も少なくなかった。家康がすでに絶大な権力を誇っていたと考えるのも、無理はないかもしれない。

だが、家康は「領地を保証する」というお墨付きである領知宛行状を出していない。大名の支配者は名目上、いまだ秀頼であり、家康はあくまでも、「幼い秀頼に代わって政務を執る」という体で論功行賞を行うほかなかったのである。

また、このときに没収された630万石あまりのうち、実に520万余りが、先に挙げたような豊臣系大名に与えられている。

彼らが家康とともに東軍として活躍したからこそだが、本隊を率いる徳川秀忠が、遅参することなく戦場に間に合っていれば、徳川系の大名への恩賞を厚くすることができた。家康が東軍の勝利にもかかわらず、戦場に間に合わなかった秀忠を叱責したのは、勝利したあとのことも考えたからだった。

なにしろ、少なくなったといえ、秀頼はまだ65万石の領地を持ち、そのうえ、大坂城と莫大の富を有している。はたして自分が亡くなったあと、息子の秀忠は秀頼に対抗しながら、諸大名たちをコントールすることができるのだろうか。


豊臣秀頼像(写真: 長兵衛 / PIXTA)

自分の立場は依然として豊臣政権下の大老にすぎないし、戦の主役は徳川系大名ではなく自分に味方した豊臣系大名に奪われてしまうし……。

天下分け目の大決戦で勝利したあとも、家康の心配は尽きなかった。それどころか、より大きな難題を抱えたといっても、過言ではないだろう。

ともに官位が上昇した「秀頼と秀忠」

家康は「秀頼の臣下」の立場からなんとか抜け出すために、策を講じている。

関ヶ原から3カ月後の慶長5(1600)年12月19日、九条兼孝の関白就任を奏上。秀吉、そして秀次へと続いた関白職の独占的世襲を途絶えさせている。自身が関白職に対して発言権を持つことを打ち出す格好となった。

しかし、将来的に秀頼の関白就任の可能性がなくなったわけではない。慶長6(1601)年3月、9才の秀頼は権大納言に任じられている。異例のスピードで昇格を果たしていることからも、秀頼が豊臣摂関家の当主として、影響力を失っていなかったことがわかる。

秀頼の昇進に対して、家康の動きもすばやかった。翌日には、前権中納言だった息子の秀忠を権大納言として現任公卿に復帰。これ以降、秀頼の官位が上昇するたびに、秀忠も昇進することになる。

そこには朝廷への家康の働きかけがあったことはいうまでもない。秀頼の母、淀殿からすれば、少しずつ権力が奪われていくような、危機感を持ったことだろう。

なんとか権勢を維持しようとする豊臣と、名実ともに権力を掌握しようとする徳川。天下人をめぐっての主導権争いは、むしろ関ヶ原の戦い後に展開された。

将軍に就任しても秀頼に気を遣っていた

家康が征夷大将軍の座に就くのは、慶長8(1603)年2月12日のこと。関ヶ原の戦いから2年の月日を要している。

将軍の就任にあたって、家康は朝廷からの要請だけではなく、僧の金地院崇伝(こんちいんすうでん)や、もともとは豊臣家に仕えた藤堂高虎から、「薦められた」というかたちで、将軍宣下を受けている。秀頼や豊臣系の大名のことを思うと、できるだけ「周囲に推された」というかたちを作りたかったのだろう。

しかし、家康が将軍に就いてもなお、秀頼との微妙な関係は続く。諸大名たちは依然として、豊臣系はもちろんのこと、外様大名すら秀頼に対して伺候の礼を取り続けた。毛利輝元にいたっては、国元に次のような書状を送っている。

「家康様が将軍になられ、秀頼様は関白へとおなりになったとのこと。おめでたいことにございます」

秀頼が関白になったという事実はないが、「秀頼が関白となり、豊臣家が政権の中心となる」という世は、周囲からみてもまだ十分にありうることだったらしい。周囲が重要視する秀頼を、家康もむげにはできなかった。征夷大将軍に就くと同時に、秀頼の朝廷官職は、大納言から内大臣へと引き上げられている。

さらに、慶長8(1603)年7月、家康が征夷大将軍になって半年が過ぎた頃には、秀頼と家康の孫である千姫が、大坂城にて祝言をあげることとなった。秀吉が存命中に決まった縁談とはいえ、きちんと履行されたのは、互いにまだ敵対する時期ではないという判断があったからだろう。

最後の大仕事にとりかかる

豊臣から徳川の世へ――。その移り変わりにあたっては、地道に段階を踏まざるをえなかったことが、家康の言動からよく伝わってくる。

そして、自身が将軍の座に就いてからもなお、警戒を緩めることはできなかった。早々と息子の秀忠に将軍の座を譲り、自らは大御所となり二元政治を展開することになる。

自分の死後、息子の秀忠や孫の家光が変わらず、諸大名を束ねられるように、盤石の体制を築く。そのために、家康は「豊臣家滅亡」という、最後の大仕事にとりかからなければならなかった。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)

(真山 知幸 : 著述家)