1988年に起きたミャンマーの民主化闘争。当時16歳だったミャンマー人女性、キンサンサンアウンさんは「デモの参加者は容赦なく殺された。私もデモに参加したので警察にマークされ何度も尋問を受けていたが、タイに出稼ぎに行っていた姉が日本人男性と結婚したことをきっかけに運命が変わった」という。文筆家でイラストレーターの金井真紀さんの著書『日本に住んでる世界のひと』(大和書房)より、その一部を紹介しよう――。(前編/全2回)

■貧しさから赤ちゃんがゴミ箱に捨てられる国

最初わたしは「サンさん」と呼んだ。そしたら紹介してくれた人が笑って「彼女の呼び名はサンサンなのよ」と言った。おっと、敬称をつけると「サンサンさん」なのであった。もうそれで、サンサンさんのお名前は忘れられなくなった。

シャンシャンシャンシャンシャンシャン!

電車のドアが開くたびにクマゼミの大合唱が押し寄せてきて、あぁ夏の関西に来たな、と思う。西大路、桂川、長岡京……と駅名に旅情を感じながら、摂津富田(せっつとんだ)駅に到着。そこから徒歩25分、曇り空なのにすごく暑い道をだらだらくねくねと辿って、サンサンさんのいるキリスト教会を訪ねた。

「ようこそいらっしゃいました。まずはクーラーの部屋で休んで、それから話しましょうね。冷たいお茶も、さあどうぞどうぞ」

優しくて明るい声で出迎えてくれた。日本語はとてもなめらか。そこから5時間ぶっ通しでサンサンさんの話を聞いた。どんなにつらい話でもサンサンさんの声は優しさと明るさを失わなかった。この人はこの声で他者を励まし、自分を励まし、生きてきたのだと思った。

サンサンさんは1972年、大都会ヤンゴンの中心部で生まれた。兄が3人と姉がひとりいる、5人きょうだいの末っ子だ。

イラスト=©金井真紀
キンサンサンアウンさん - イラスト=©金井真紀

「父は軍のキャプテン、母は軍の看護師をしていました。軍の中では男女が付き合ったらいけない決まりだったんだけど、それでもふたりは付き合って、母は軍を離れて産婦人科病院の看護師さんになりました」

ところが末っ子のサンサンさんが生まれて1年くらいで、お父さんが亡くなってしまう。

お母さんの肩に、5人の子どもの生活がのしかかった。さらにお母さん自身が8人きょうだいの一番上で、弟や妹の面倒をみる必要もあった。それだけではない。サンサンさんの母親はとんでもなく奇特な人だった。

「ミャンマーでは貧しくて子どもを育てられない家がたくさんあって、赤ちゃんはバス停やゴミ箱に捨てられるんです。その赤ちゃんは母の勤務先である産婦人科に連れてこられる。母はそういう子を見るとね、やっぱりかわいいからね……」

ただでさえ苦しい暮らしなのに、捨て子を引き取ってしまうのだ。

■「これ以上赤ちゃんができないように」炊事場の一角で避妊の処置

ヤンゴンから少し離れた村には、病院もなく医者もいない。お母さんは村の女性たちからよく医療相談を受けていた。幼いサンサンさんが助手としてついていくこともあった。

患者さんはみな子だくさんで貧しく、家は狭い。炊事場の一角を布で仕切って、診察も手当てもそこでおこなう。

「患者さんが横になって、母はストローみたいな形をしたものを押し込んでいました。あれは避妊のための処置だったんだとあとで知りました」

すでに6人も7人も子どもを授かり、これ以上は育てられない。赤ちゃんができない体にしてほしい。それは女性たちにとって切実な願いだった。

「生まれた子を引き取ってくれと頼む人もいてね。そうするとやっぱり母はそれを断ることができなくて。おばあちゃんと手分けして面倒をみていました」

仏教国ミャンマーでは珍しく、おばあちゃんとお母さんはクリスチャンだった。でも困っている人を捨て置けないのは、信仰というより性分だろう。

写真=iStock.com/baona
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/baona

ミャンマーでは、学校や職場に出す書類に母親の名前を書く欄がある。お母さんは引き取って育てた子どもたちに「困ったときは私の名前を書いていいからね」と伝えていた。

そのためサンサンさんはいろんな場所で、「あなたは本当の子?」と聞かれたとか。

「小さな頃は、やきもちしました」という言い方がかわいらしく、切ない。

■人助けをして借金取りに追われる生活

とはいえ、お母さんひとりの稼ぎでそんなに多くの人が暮らせるはずもなかった。家計は逼迫(ひっぱく)し、やがては借金を抱えることになる。

「子どもの頃、借金取りが家に来るのが恥ずかしかった。お母さんは『なにか売ってお金を返します』と頭を下げるんだけど、もう売る物なんかなにもないの。それなのに家には親戚や困ってる人が次から次にやってきて……」

ビルマ語では、友人に会ったときこう挨拶する。

「タミンサーピービーラー(ごはん食べたか)」。相手が「まだ食べてない」と答えたら、「じゃあ食べていけ」ってなるのは必然だ。ロンジー(腰巻)がないって言われたらあげちゃう、お米がないって言われたらあげちゃう。お母さんは軽やかに人を助け続けた。なんなんだ、それは……。わたしが信じられないという表情をしたら、サンサンさんは笑って言った。

「当時は『家のお金がないのに、なんであげちゃうの』って母とよく喧嘩しました。でも母は『なんとかなるから大丈夫』って。そういう人なんです」

■軍政下で行われた「考えさせない」教育

そして1988年がやってくる。

軍事独裁政権に耐えかねた人々が立ち上がった、忘れ得ぬ民主化闘争の年だ。大学生たちが始めたデモは日を追うごとに拡大し、僧侶、教師、商店主、公務員などさまざまな立場の市民が合流していった。

サンサンさんは高校2年生だったが、戒厳令が出て学校は閉鎖された。迷うことなくデモに参加したという。

「うちは街の中心地にあったから、家の前の通りがデモ隊で埋め尽くされた。一歩外に出たらもうデモに参加する感じ」

民主化を求める思いはそれ以前からあったんですか? と問うと、サンサンさんはことばを探した。

「ええと、なんていうか……そもそも民主化なんて考えられない状態で。ミャンマーではレベルの低い教育しか受けられないようになっていたんです。そのほうが支配しやすいから」

1960年代から続く軍政下、「考えさせない」教育が徹底していた。子どもたちは学校に行っても、字を習い、簡単な暗記をするだけ。作文や感想文を書く機会は一切与えられなかったという。それが「考えさせない」教育だ。そもそも義務教育ではないため、学校に行かず読み書きができないまま大人になる人もたくさんいた。

写真=iStock.com/yuelan
※写真はイメージです(ミャンマー、バカンにある学校) - 写真=iStock.com/yuelan

その代わり政府高官の子弟は必ず海外に留学し、学問を身につけ、裕福な暮らしを享受する。なるべく格差が埋まらないように、貧乏人が人権意識や民主主義に目覚めないように。それが国の方針だった。

■アウンサンスーチー氏の演説で目覚める

「テレビの放送は夜の8時から10時の2時間だけ。そこでニュースが流れるんだけど、いま思えばだましてるニュースでしたね。もちろん当時はだましてるなんてわからない、みんな洗脳されてるから」

報道の自由がまったくない。恐ろしいことだ。だけどそこまで徹底して「考えさせない」ようにしても、人々は目覚めたのだ。

「ちょうど1988年にアウンサンスーチーさんが帰国して、みんなの前で演説をしました。それを聞いて、このままじゃダメだと多くの人が気づいたんです」

■容赦ないデモ隊への弾圧

市民の目覚めは、政府にとって忌避すべきこと。治安部隊は容赦なくデモを弾圧した。

「うちの前でデモをしていたから、本当に残酷な……」

と、そこでサンサンさんは一瞬沈黙した。

「……首が切られたり、血まみれになったり、脳が出てしまった死体を見ました。銃で撃たれた女の子も運ばれていった」

ひと夏で数千人の若者が犠牲になったと言われている。山を越えて外国に逃げた人も少なくない。

「たとえばチンの人たちはインド、カチン人は中国、カレン人やビルマ人はタイ……それぞれが近い国境を越えて亡命しました。逃げた先でもミャンマー人は貧しくて助けてくれる人もいなくて、差別されたり虐待されたり。女の人はなおさらつらい目に遭ったと思います。みんな私と同世代だから、いまはもう50代ですね」

サンサンさんの身にも危険が迫った。

デモに参加したことを察知した警察が家にやってきたのだ。お母さん、下のお兄さん、サンサンさんの3人は別々に連れて行かれた。

「お母さんはデモには行ってないけど、参加者とのつながりを聞かれたんだと思います」

じつはサンサンさんの上のお兄さんは高校時代に活動家となり、行き先も告げずに家を出て密かにカレン人の反政府グループと合流していた。だから警察はサンサンさん一家をマークしていたのかもしれない。

「それに、うちは警察に渡すお金がなかったですからね。賄賂を払えば、たぶん取り調べはやんだと思う」

サンサンさんは刑務所の鉄格子の前に連れて行かれ、夜まで尋問された。そういうことが何度か続いたという。16歳の少女にとって、どれほど心細い時間だっただろう。

「同じ質問を何度もされて。あのときの怖さは忘れられないです」

写真=iStock.com/lonelytravel
※写真はイメージです(民主化運動の象徴的存在であるアウンサンスーチー氏。スーチー氏が率いる国民民主連盟の選挙2012ポスター) - 写真=iStock.com/lonelytravel

■タイで出稼ぎする姉が出会った日本人

民主化運動は徹底的に潰された。サンサンさん一家も行き詰まっていた。

「そしたら姉が『私、海外に働きに行く』って言ったの」

ミャンマーでビクビクしながら生きるより、海外で出稼ぎをして家計を助けたい。それがお姉さんの決断だった。ブローカーにお金を払って、単身タイへ。ところがこういうときにブローカーが口にする釣り文句はだいたい適当だ。すぐに見つかるはずの仕事はなく、相談に乗ってくれる人もいないまま日が過ぎていった。

「お姉ちゃんは困り果てて、タイから家に電話をかけてきました。そのときお母さんが『帰ってらっしゃい』って言ったのを覚えてる。でもお姉ちゃんは『帰っても地獄だから、もう少しここでがんばる』って」

それが運命の分かれ道だった。

お姉さんはその後しばらくしてひとりの日本人男性と知り合う。旅行でタイに来ていた茨城の人。メロン農家の長男だった。その男性がお姉さんに惚れ込んで、なんと求婚した。

「お姉ちゃんは英語で、本当に結婚したいならミャンマーの実家に挨拶に来てくださいと言ったの。そしたらその方、ヤンゴンのうちまで来てくれました。それでお姉ちゃんは茨城の農家に嫁いだんです」

なんという急展開。そしてそこからサンサンさんの人生も大きく動いていく。何度も警察の取り調べを受けるサンサンさんを心配したお母さんが、「あなたも日本に行きなさい」と言い出したのだ。当時、日本で在留資格をもつお姉さんが保証人になれば、家族を呼び寄せることは割と簡単だった。

「このままミャンマーにいてもなにもできないでしょう。それなら日本で勉強して、仕事を見つけて、お母さんの借金を返したい。そして国が安定したらまた戻ってきてお母さんと暮らすほうがいいと思ったんです」

お母さんの仕事を見て育ったサンサンさんは、いつか自分も医学を学んで、産婦人科医になりたいと密かに思っていた。

■賄賂を渡し続けて1年

それなのにパスポートが取れなかった。何度申請しても却下されるのだ。

上のお兄さんが反政府組織にいることが影響したらしい。「取得までに1年近くかかった」と言うので詳しく聞いたら、それは「パスポートを発給する役人に1年近く賄賂を渡し続けた」という意味で、あっけにとられる。お姉さん夫婦が日本から送ってくれた炊飯器やラジカセを包んで、役人の自宅にせっせと運んだという。

「日本製品を持ったお母さんが、『さあ、お願いしに行こう』って私に声をかけるんです。毎晩のように。私はこんなことしても意味ないだろうと思いながら、母のうしろをついて行く。それがすごくいやでした」

金井真紀『日本に住んでる世界のひと』(大和書房)

役人の家に着いても、相手はすぐに応対してくれない。サンサンさん母娘に「そこに座ってなさい」と言ったきり、自身は家族とゆっくり食事を始めたりして、2時間も3時間も待たせるのだという。そうやって立場の違いを見せつける。さんざん待たせた挙句に賄賂の品だけ受け取って「パスポートがほしければ、また来なさい」。最低なやつだ。

役人はそういう態度を1年近くとり続けた。そして最後に「うちの妻も日本に行きたがっている。その書類も揃えるならパスポートを出してやってもいい」と言ったらしい。日本にいるサンサンさんのお姉さんは、役人の妻を「親戚」ということにして、その書類まで準備させられたのだった。ミャンマーの役人、ほんとに腐ってる。

(後編に続く)

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金井 真紀(かない・まき)
文筆家・イラストレーター
1974年、千葉県生まれ。テレビ番組の構成作家、酒場のママ見習いなどを経て、2015年より現職。著書に『はたらく動物と』(ころから)、『パリのすてきなおじさん』(柏書房)、『マル農のひと』(左右社)、『世界のおすもうさん』(和田靜香との共著、岩波書店)、『戦争とバスタオル』(安田浩一との共著、亜紀書房)、『世界はフムフムで満ちている』(ちくま文庫)、『聞き書き世界のサッカー民 スタジアムに転がる愛と差別と移民のはなし』(カンゼン)など。
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(文筆家・イラストレーター 金井 真紀)