主婦バイトが『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』を読んだら/第15回 ぼんやり者のケア・カルチャー入門

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『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』で話題の堀越英美さんによる新連載「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」。最近よく目にする「ケア」ってちょっと難しそう……でも、わたしたち大人だって、人にやさしく、思いやって生きていきたい……ぼんやり者でも新時代を渡り歩ける!? 「ケアの技術」を映画・アニメ・漫画など身近なカルチャーから学びます。第15回のテーマは、主婦バイトとアダム・スミス。

なんとも不合理な学習塾の採点バイト

新しい書籍の企画が思いつかない。書籍化が予定されている原稿も遅々として進まない。メールの返事も遅れている。当然のごとくこの連載の原稿も遅れている。そんな状況で余計なことをやるなと怒られそうだから言えなかったが、5か月前から某フランチャイズ学習塾の採点バイトをやっている。

きっかけは、昨夏に5年生の次女が英語を習いたいと言い出したことだった。自閉スペクトラム症があるから、集団の塾や英会話教室ではうまくいかないかもしれない。そこで個人ベースで進められる近所のその塾に通うことにした。面談のとき、私が高校時代に同じ塾で採点バイトをしていたことについて触れると、忙しいときは頼んじゃおうかな、と先生が冗談ぽく口にした。あははいいですよ、と適当に答えたら、しばらくして本当に電話がかかってきた。あくまでお子さんが勉強している週2回の1〜2時間だけ。お子さんを見守れるし、送迎もできるから安心でしょう。おしゃべりな自閉スペクトラム症児の親としては、教室で大人しくできるかどうか不安でもあったので、引き受けるしかなかった。

本業に差し障らないか気になったが、ブランクが30年以上あるとはいえ経験者だし、最低賃金のバイトだし、大したことはないはず。その見立てが甘かったことは、始めてすぐに気づいた。まず、プリントに描く丸が真円ではないととがめられた。100点の100を斜めに書くのもダメ。答えさえあっていればいいゆるい運用で、わからない子にはじっくり数学を教えることができた昔とは明らかに違っていた。少子化で生徒獲得競争が激化しているせいなのか、時給は大して変わらないのに、細かい作業やルールが覚えきれないほど増えている。仕事を始める前には、プリント10枚を30秒台で採点できるようストップウォッチで測って記録しておかなくてはいけない(いまだに達成できない)。100を描くスピードが少しでも遅いと、すかさずベテランからダメ出しされる。ある日、勉強が苦手な子に解き方を聞かれ、自信がもてるようがんばりを認めながら教えてあげていたら、教えるのは教室長にまかせて採点だけに集中するように指示された。求められているのは、何も考えずに細かいレギュレーションに沿って高速採点するマシーン。その観点からいえば、私はポンコツマシーンでしかないのだった。

確かにポンコツなのは認める。大学時代、試食販売のバイトの事前講習をぼーっと聞いていたら、講師に「あなたみたいに話を聞いていない人間はダメだ」といきなり名指しされたこともある。編集者として就職したての頃は、「面白そうという理由で人を雇うな!」と私を採用した上司が女の先輩に怒られていた。それでも、なぜか補習メインの個人指導塾の先生バイトだけはうまくやれた記憶がある。習い事を詰め込まれてストレスを貯めた低学年のお嬢様には息抜きになるようナゾトレ形式で楽しく国語を教え、生意気盛りの中高一貫男子校生には「先生のおかげで数学が好きになれた!」と感謝され、サッカーのことしか頭にない男子小学生にはサッカーに関する文章を教材に音読と漢字のレッスンをした。本部の覚えもめでたく、いつの間にか責任者として校舎の鍵を託されていた。仕事が試食販売と編集者しかない世界では生きていけなくても、個人指導塾の先生という仕事さえあればなんとかなりそうな気がした。反抗的な子も大人しい子もいたが、話を聞けばみんなかわいく思えたし、それぞれに合わせた能力の伸ばしかたを考えるのは本当に楽しかった。

だが今の私は、大学時代よりもはるかに低い時給で、わからなくて困っている児童にすがるような目で見られても、ごめんね、と目で謝ることしかできない。仕方がない、と痛む心に言い聞かせる。得体のしれない主婦バイトが間違いを教えでもしたら、クレームになりかねないのだから。むしろ一介の大学生バイトに校舎を任せていた前世紀の個人指導塾のほうがどうかしていたのだ。教育をフランチャイズチェーン化するということは、こういうことなのだろう。儲けを最大化するには、安い時給で雇った人間を使ってあらゆる場所に教室を設置し、そのすべてで均質なサービスを提供する必要がある。個人の能力や裁量でサービスの品質が左右されてはならない。したがって末端労働者の私が困っている児童を放置するのは、資本主義的に正しい行為である。

経済学は「愛の節約」を研究する学問になった。社会は利己心で成り立っている。アダム・スミスの見えざる手から経済人は生まれた。愛は私的な領域に追いやられた。社会に漏れださないように、しっかり管理しなくてはいけない。

『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』p42

「経済人」予備軍として扱われる大学生、責任主体とみなされない主婦

それにしても、なぜ主婦とみなされたとたん、大学時代よりも無能な存在として扱われ、社会における裁量がなくなるのか。たまたま読んだ『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』(カトリーン・マルサル著、高橋璃子訳、河出書房新社)は、そんな疑問に答えてくれる本だった。曰く、経済学では自分の利益が最大化するように常に合理的に行動する個人を「経済人」と呼ぶ。経済人がそれぞれ利己的に行動すれば、「見えざる手」によって適切な資源配分が達成され、みんながハッピーになる。経済学はこの「経済人」の集合から市場が成り立っているという前提のもとに、社会をとらえてきた。経済学の父アダム・スミスの有名なフレーズ「我々が食事を手に入れられるのは、肉屋や酒屋やパン屋の善意のおかげではなく、彼らが自分の利益を考えるからである」(『国富論』)にあるとおりだ。だが、このフレーズには食事にありつくために必要な労働が抜け落ちている。その食事を作ったのは、そもそも誰なのか。食事作りをはじめとする家族をケアする労働は、無償であるがために経済活動とはみなされない。有償の家政婦を雇っていた男性がその家政婦と結婚して主婦にすれば、GDPが下がってしまう。それって何かおかしくない? 同書は人類の半分にあたる女が担ってきた無償のケア労働をないことにする経済学の欠陥を問う。

大学生であった頃、私たちは男であれ女であれ「経済人」予備軍として扱われていた。だからこそ高い時給でそれなりの裁量が許されていたのだと思う。人気講師になれば給料も増える。偏差値の高い大学生たちなら利己心も強いだろうから、放っておいても子供たちに好かれようとし、成績を上げる努力を自然にするはずだ。と本部が考えていたかどうかはわからないが、現場はほぼ放任だった。だが子供を持って正社員ではなくなった女は、もう「経済人」ではない。無償の愛で家庭に尽くすべき母に、利己心があるはずもないからだ。実際、子持ち女性が家庭より仕事を優先すれば、自分勝手だと後ろ指を指されるだろう。だから、非「経済人」である主婦バイトは金銭インセンティブを与えても仕事の質を上げることはない、とされる。最低賃金で雇い、怠けないようにしっかり管理しなくてはいけない。裁量をもたせるなんてもってのほか。思いやり? そんなものは自分の家族にでも食わせておけ。

 お金の世界と思いやりの世界は切り離され、両者が交わることは許されなかった。
 そしてお金の世界は、思いやりや共感やケアの概念を失った。経済の話をするときに思いやりを考慮する人はいなくなった。おそらくそのせいで、現代の女性は男性よりもずっと低い経済的立場に立たされている。

同上、p161

ケアをするには責任が必要だが、お金の世界で最下層におかれる主婦バイトは、責任主体として扱われない。「経済人」だったときのほうが困っている子供たちをケアできたのに、子供のケアに慣れた今は賃労働でそのケア能力を使うことができないのはそういうことなのだろうけど、なんだか皮肉だ。理屈はわかったが、このシステムが現状、合理的だとはとても思えない。子供が苦痛に感じたり、学力が上がらなければ早晩辞められてしまうのだから、助けを必要としている子供を放置するのは「コスパ」が悪くないのだろうか? 

『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』の著者は、どんなに経済のシステムが高度になろうとも、経済の根本にあるものは「人の身体」、つまり「ケアを必要とする身体」「人生のさまざまな局面で、誰かの助けを必要とする身体」(p129)であると記す。だが、経済人はケアを必要とする身体を拒絶する。経済人にとって、身体は「活用して利益を出すべき」人的資本にすぎない。経済人からすれば、将来的に大きな利益を出す見込みの低い子に大きなリソースを割いて教えるのはコスパが悪い、ということになるのだろう。それよりは、優秀な幼児をたくさん入れて中学受験塾の上位クラスに入れる児童を多数輩出し、評判を上げたほうがいい。かくして、ケアを必要とする子供は置いてきぼりになる。

ケア労働が経済に組み込まれても、その報酬はおおむね低い。同書はその理由を、人をケアする仕事は「愛とお金の二項対立のせいで、経済的に低く見られている」せいではないかと考察する。著者の表現によれば、経済学者は愛に「女性」のレッテルを貼り、経済から切り離した。そしてケアはそこらにいる女から無尽蔵に湧き出る天然資源として、安く見積もられたのだ。低賃金のため、日本のみならず先進国ではケア労働者は常時不足している。ケア労働以外の職場が女性にも門戸を開けば、女性たちがより待遇のいい仕事を求めるのは自然なことである。職業選択の自由があるのにお金が稼げないのは努力が足りないせいであるという新自由主義の価値観が広まったこともあり、低賃金のケア労働からは人が離れる一方だ。愛やケアを保護したいなら、ケア労働者にきちんとお金とリソースを提供すべきだったと同書は訴える。

経済人にとって気まずいのは、どんなに人的資本が高い人だって、老いや病気によって無力な依存状態になることからは逃れられないという現実だ。利益を出せなくなったら生きるのは無駄だ、と経済人は思うかもしれない。「経済人の世界なら、死はただの意思決定になる」(p221)という同書の一文に、経済学者が高齢者に「集団自決」を促して物議をかもした一件を思い出す。彼もまた、経済人であることに忠実であろうとしただけなのだと思う。経済人は高齢者を殺したりしない。そんな野蛮なことはしない。この世は自由なのだし、すべて自分で決めていい。ただし、人に迷惑をかけないかぎり。迷惑をかけるようになったら……あとはわかるよね?

 経済人は彼が駆逐しようとしてきた現実の、ひとつの症状なのである。身体や感情や依存や弱さを、社会はずっと女性のものにしてきた。存在しないはずのものだと言ってきた。
 なぜなら、自分ではあつかいきれないからだ。

同上、p224

経済人の発言がグロテスクだと批判される一方で、私たちはときに経済人に魅せられる。『主婦である私がマルクスの「資本論」を読んだら』(チョン・アウン著、生田美保訳、DU BOOKS)の著者もその一人だ。外資系企業で活躍するワーキングマザーだった著者は、周囲の「子供がかわいそう」攻勢に耐えきれず二人目を妊娠中に退職し、専業主婦になった。現在は作家業もしているが、生活の8割は主婦業で、会社勤めへの未練が捨てきれない。彼女がママ友相手にする「作家といえば聞こえはいいが、実体のない仕事だ。ろくな収入にならないし、虚栄心ばかり強くなる。昼も夜もひとり机に座ってする仕事なので孤独でおかしくなりそうだ」(p48)という愚痴がわかりすぎる。一緒に愚痴りたいくらいだ。

彼女は結婚してから会社という存在が大好きになったという。男性側の血統を祀る行事(チェサ)が大々的に繰り広げられ、嫁がその料理の支度を取り仕切らなければならない国で、参加を免除される正当な理由は、「出勤」しかないからだ。会社があれば、合意した覚えのない大量の嫁業務から逃れられる。会社はいい仕事をすれば評価され、業務はある程度自分が身につけたスキルに基づくもので、事前の打診なしに無関係のタスクが突然降ってくることはあまりない。嫁をタダでこき使う理不尽な親族と比べたら、上司や同僚の不当な要求なんてかわいいもの。「お金」が女性に対する古くからの慣習を突き崩してくれたと考える彼女は、『資本論』の読書会に出席しても、ほかの人のように資本主義を憎むことができない。家父長制に対抗できるのは、目下、資本主義だけなのだ。

韓国人であるチョン・アウンのこの実感は、日本人である自分にもよくわかるものだ。主婦とみなされた存在のあつかいを知ると、独立した個人でいられた「経済人」時代のやりがいが懐かしくなる。だが彼女は、利己的な欲求に忠実な人が経済的リターンと名誉を享受する一方で、他人をケアする人々を経済的に弱い立場に追い込み、あまつさえ「遊んでいる」とみなす資本主義社会のケア軽視に疑問を投げかける。さらに、韓国でも起きている看護師・保育士不足は、「女性の無償労働により大幅な利益を上げてきた資本主義体制がこれ以上作動しないことを示している」(p245)と指摘することを忘れない。

私の実感では、ケア労働を抱えている高学歴の主婦バイトを安く使って成り立ってきた昔ながらの教育産業も、崩壊しつつあるように思う。出産後も会社を辞めず、経済人として働き続ける女性が増えたためだろう。私が働いている塾でも、採点バイトが少しずつ減っている。だいたい黙っていてもバイト募集に人が集まる状況なら、わざわざ生徒の保護者をバイトとして引っ張ってくる必要もないのだった。

女だって働けばお金を得て独立した個人として自由になれる資本主義は、女を無償のケア労働者として家に閉じ込める家父長制よりははるかにマシだ。問題は、ケアの経済的価値が相変わらず低すぎて、その担い手がどんどん減っていくことである。このままでは経済学者が集団自決を促すまでもなく、高齢者は生きていけなくなってしまう。少子化も、今のところ改善する見込みはなさそうだ。資本主義は愛とケアにもっと高い価値を置く必要がある。困っている子供を放っておけないという感情を労働でいかんなく生かすことができ、金銭的に評価されるような社会なら、採点バイトだってこんなにつらくないはずだ。幸い賃労働はやめると言ったからって、家父長制下の嫁のようにいびられたりしないし、PTAみたいに「子供を仲間外れにするぞ」と脅されることもない。血や地域の束縛から逃れられる経済人を人々が目指すのは、やはり必然だったのだと思う。一方的にケアを押し付けられるのではなく、人間の弱さを見つめ、主体的にケアを行う経済人というものに、私はなりたい。とりあえずバイトやめたい。

Credit:
堀越英美