本心は絶対に口にせず、必ず「部下に言わせる」……天下人・徳川家康の"ずるすぎる成り上がり処世術"
※本稿は、童門冬二『徳川家康の人間関係学』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■ホンネを出しすぎるとバカをみる
織田信長が田楽狭間(桶狭間)を急襲して今川義元を殺したとき、徳川家康(この当時は松平元康といった)は今川軍の一部将として大高城にいた。
大高城は、織田方の丸根、鷲津の両砦に挟まれた今川方の拠点である。かなり織田領に侵入した前線基地で、だから田楽狭間より西方にあり、敵中に孤立していた。前日(永禄三年五月十八日)に、苦心して入城したばかりであった。
夕暮れになると、使っている乱破が忍んで来て、
「今川義元公が田楽狭間で、織田信長に討たれました」
という情報をもたらした。
家康は一瞬ギクリとし、心中はなはだ動揺したが、
「何をバカな。いい加減なことをいうな」
と乱破を叱りつけた。乱破は、はなはだ不満な表情をした。しかし家康は、
「そんな大事な情報が、もし虚報であった場合、義元公に申し訳が立たぬ」
と、あくまでも律儀なタテマエを口にする。そのくせ、乱破の情報を真っ先に信用したのは家康だ。
部将たちも、
「ほんとうかもしれません。早く城を出ないと、尾張(愛知県)へ凱旋(がいせん)する信長に攻め滅ぼされます」
と進言したが家康は、
「乱破ごときの言を信用できるか」
と突っぱる。じつは、この突っぱりが家康の常套手段で、やせ我慢のこの時間経過がタテマエをホンネに移行するプロセスになるのだ。
■自分の本音を「部下に言わせる」理由
そのうちに、家康の叔父水野信元から義元敗死の報がもたらされた。しかし家康はそうなると今度は、
「この大高城を死守して義元公に殉ずる!」
などといいだした。重臣群は、
「そのお気持ちはわかりますが、かっこいいのもほどほどにして、この際、故郷の岡崎に戻りましょう。こんな城に長居は無用です」
と、寄ってたかって家康を連れ出した。しぶしぶ岡崎にもどった家康は、今度は城に入らない。城下の大樹寺に陣を張った。
「入城しましょう」
という部下に、
「いや、火事場泥棒のような真似はできぬ」
と突っぱる。またカッコいいタテマエをいって、と思うが、そこは心得た重臣が、
「今川義元公は、あなたを人質にし、領地の米もほとんど奪い取っていました。もう十分に義理は果たしたはずです。それに、城は空のようですから別段かまわないでしょう」
と家康のタテマエが立つようにもちかける。そこではじめて家康は、
「そうか、捨て城か。では入城しよう」
と、やおら腰をあげる。家康自身、誰よりも早く城に入りたいのだが、それは自分からはいわない。その点、ホンネを出しつづけた信長や秀吉とは違う。ホンネを出しすぎてバカをみる例を、家康は子どものときからイヤというほど見てきたのだ。
田楽狭間のときから家康は今川と縁を切り、信長と同盟を結ぶようになるが、そこにいたるお膳立てはすべて他人か部下にやらせる。自分はタテマエだけを主張して、手は汚さないのだ。狡猾な男である。
■「本能寺の変」で見せた逃げ足の速さ
織田信長が明智光秀に殺されたときもそうだった。
六月二日の朝、京都の本能寺に泊まっている信長に、再度あいさつをしようと家康が支度をしていると、先発した本多忠勝が走り戻って来て、
「信長公が明智光秀に殺されました」
と告げた。誰がそんなことをいったと聞くと京都の商人茶屋四郎次郎だという。これを聞くと、
「商人のいうことなど……」
と、家康はまた鼻の先でセセラ笑った。
そのくせ、乱破や商人たちのもたらす情報が一番精度が高いことは百も承知だ。承知だが口には出さない。
やがて、信長が光秀に殺されたのがほんとうだとわかると、家康は、
「こうなった以上、ただちに京に入り、明智勢と戦って斬り死にしよう」
と勇ましいことをいいだした。
本多忠勝や酒井忠次たち重臣は、
「信長公にそんな義理はありません。まごまごしていると明智光秀に殺されてしまいます」
と、また寄ってたかって家康を逃げ出させる。
家康は、
「いや、いま逃げては信長公に済まぬ」
と脚をふんばる。よくいうよ、と思いながらも重臣たちは、
「おいやでしょうが、ここはひとまず」
と無理に連れ出した。
これも、ホンネはとっくにトンズラをきめこもうと心にきめているくせに、家康はタテマエしか口にしない。
しかも基幹情報のもたらし手である茶屋四郎次郎に対しては、
「たかが商人のいうこと……」
とバカにしたポーズをとる。オオカミが来る、オオカミが来るといっていた少年と同じで、そのうちに皆この二層性を熟知してしまい、家康がタテマエをいっても、
〈あんなことをいってたって、ホンネは別だ〉
と信用しなくなるが、この当時はまだその心理的カラクリは、側近以外にはバレずにいた。家康は重臣にせきたてられると、今度は自分のほうが先頭を走って、宇治田原→山田→信楽小川→伊賀の山越え→白子の浜から船で三河(愛知県)の大湊というコースで岡崎城に逃げもどった。その逃げ足の速いことは家臣たちが呆れるくらいである。
■「デマ」で人のみにくい面を引き出す
逆に、家康を発信主体にする情報は相当にデマが多い。たとえば、家康が秀吉と干戈を交えた小牧の戦い(天正十二年・一五八四)の翌年あたり、家康は背中にデキものができて弱ったが、このとき、
「家康は死んだ……」
という情報を意識的に流させて、関係者の動向をみている。
武田信玄に大敗した三方ケ原の戦いのとき(元亀三年十二月二十二日)にも、命からがら浜松城に逃げ込む家康は、途中で坊主頭の敵の首をブラさげている部下を見つけると、
「先に城に戻って、武田信玄の首をとったと触れまわれ!」
と、城兵のモラルアップのために、いい加減なことをいわせている。
大坂の陣がすべてデマといいがかりの謀略戦であったことは、詳しく書くまでもない。このころになると、家康はもうホンネとタテマエを恥ずかしそうに使い分けた処女のいとけなさはカケラもなく、ホンネむきだしの狡猾なヤリ手婆そのものだ。
三方ケ原戦いの際は、この直後、信玄は本当に死んでしまったから、家康は危機を脱した。
人為を超えたツキがあった。
家康にかかると対者はすべて、自分の内にひそむ背信、密告という人間のいまわしい性格を引きだされてしまうのであろうか。こういうみにくい面を引きだし、利用する点において、家康ほどの巧者はいない。
■家康の意を汲む知識人・林羅山
林羅山は、徳川幕府に「儒学」のうち朱子学を取り入れて、武士の精神的拠(よ)り所をつくり出した。
同時に、かれは「キリシタン追放」に重大な役割を果たしている。また、徳川家康の意を汲んで、豊臣家を滅ぼす口実となった「鐘銘事件」で、相当なこじつけの論理を展開したのもかれだ。豊臣秀頼がつくった方広寺大仏殿の鐘の銘のなかに、「国家安康」とあったのをとらえて、「この鐘銘は、家康という名をバラバラに切り刻んだものだ」などといい出したのだから噴飯ものである。少なくとも、学者のいうことではない。そのために、
「林羅山は、家康の御用学者だ」
といわれた。そういう面が確かにあったろう。
■家康が認めた林羅山の問答
林羅山が、家康の御用学者であるということを如実に示したのは、「徳川幕府の性格と、徳川家康の立場」に、特別な意味を与えたことである。
それは、どういうことだろうか。家康は、幕府を開いた後、林羅山にこんなことを聞いた。
「おれの立場は、どういうものだ?」
この質問に、羅山はとまどった。家康がなにを聞いているのかわからなかったからである。しかし、「どういう意味ですか? もう一度いってください」などと聞こうものなら、家康に見離されてしまう。
「おれの立場はどんなものだ?」という質問は、実に重大である。羅山は考えた。
思い当たった。
それは、家康が、
──京都の朝廷と徳川幕府の関係をどのようにとらえたらいいのか? そして、徳川幕府の頂点に立っているおれは、日本の国で、いったいどういう位置を占めているのか? ということだと思ったのである。
うかつに答えられない質問だ。戦国時代には、「下剋上の論理」というのがあった。これは、孟子のいう「放伐の理論」を適用したのであって、主人殺しや、主人追放や、あるいは親殺し、親追放など、戦国武将たちは、必ずしも悪いとは思っていなかった。武田信玄が父の信虎を追放したのも、この理論による。
孟子は、このようにいっている。「徳を失った王はもう王ではない。したがって、その王がそのポストを禅譲しないならば、実力行使をしてその王を追うことができる。これを放伐という」
戦国の下剋上の論理は、すべてこの孟子の放伐の理論によっている。しかし、いまは平和な時代である。京都朝廷と徳川幕府の関係は非常に難しい。羅山は慎重に考えた末、こういった。
「主権というのは、やはり一つしかないと思います。主権は徳川幕府にあります。かつて、朝廷は武家に政権を委ねられました。したがって、現在、政権は武家にあると思います」
家康は、この答えを聞いて、
「フム、フム」
とうなずいた。満足したのである。
「それでは念のために聞くが、いまの京都朝廷はなんだ?」
第二の矢が放たれた。家康が本当に聞きたかったのはこのことである。
■家康が「答えを聞いた」にとどめる理由
羅山のいうとおり、主権というのは一つで、二つも三つもあるものではない。
京都朝廷にも主権があり、徳川幕府にも主権があるということはありえない。京都朝廷に主権があるのならば、徳川幕府には主権がないということになる。
また、逆に徳川幕府に主権があるならば、京都朝廷にはないということになる。
そうなると、いったい京都朝廷というのはなんなのだ、ということが、家康の知りたいことであった。
知りたいというよりも、家康自身はすでに一つの考えを持っていた。かれは、はっきり、「京都朝廷には、すでに主権はない」と思っていたのである。羅山はこう答えたという。
「日本の王朝は、すでに滅びていると思います」
「そうか、なるほど」
ここは家康のずるいところだ。羅山の答えを聞いても、「おれもそう思うぞ」とは決していわなかったことだ。羅山のいったことを肯定してしまえば、自分もその説に与したことになる。だから、あくまでも参考意見として、学者に問いを発し、その答えを聞いたという形式にとどめたのである。
だから、家康自身は、羅山がそういっても、朝廷を否定したことにはならなかった。しかし、幕末に至って、討幕軍が江戸に押し寄せたとき、幕府の最高官僚であった小栗上野介は、いい放った。
「朝廷が、武家に政権を委任してからすでに数百年経つ。現在の朝廷に、幕府を討つ権限はない」
二百数十年後に、官僚がこういうことをいうくらいだから、徳川家康がこのとき交わした会話は、地下水脈として、ずっと徳川幕府の権力者たちに流されていたに違いない。
つまり、
「政権は徳川幕府にある」
と思っていたのである。この理論構成は重大である。
■死ぬ直前にも「ホンネ」と「タテマエ」
徳川家康のホンネとタテマエが、見事に違ったのは、やはり死ぬときだ。死ぬ直前、家康は諸大名には、
「天下は天下のものだ。息子の秀忠にもしおかしな政策があったら、すぐにこれを殺し、おまえたちのだれでもいいから天下をとれ」
と公言した。タテマエである。
ところが秀忠には、
「大名は誰ひとり信用できぬ。もし、反心を抱くような者がいたら、たとえ身内でもすぐに殺せ」
と告げている。これがホンネである。
自己の張ったネットワーク員たちが日夜、緊張していたのと同じように、家康自身もまた、気をゆるめることは寸時もなかったのだ。情報を利用するものの宿命であろう。
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童門 冬二(どうもん・ふゆじ)
歴史小説家
東京都企画調整局長、政策室長などを歴任し、1979年に作家として独立。著書は『小説上杉鷹山』『異説新撰組』『小説二宮金次郎』『小説立花宗茂』など多数。
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(歴史小説家 童門 冬二)