姓が”おだ”でもここまで違う!戦国最弱でありながらも戦国時代を生き延びた「小田氏治」の軌跡

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強者ならば支配し弱者ならば淘汰される戦国時代の中で特質すべき特徴を持った人物がいました。その人物の名前は小田氏治(おだ-うじはる)。何の特徴を持っていたのかというと、戦国一最弱と言ってもいいくらい戦下手なところでした。

今回は敗北に敗北を重ねた人生とそれでも諦めることのなかった氏治の信念を紹介したいと思います。

 小田氏治/Wikipediaより

実は名門の出

氏治のいる小田家は関東を代表する8つの名家、関東八屋形の1つに当たり、室町時代では関東支配の一角を担っていました。しかし戦国時代になると佐竹家によって段々と衰退していきます。

それでも小田家を戦国大名にまで成長させた氏治の父、小田政治(おだ-まさはる)が所領拡大により最盛期を築きますが、天文17年(1548)に亡くなります。

 小田政治/Wikipediaより

そして氏治が父に代わって家督を継ぐようになると、時勢が一気に変わっていくのでした。

居城の落城を何度も見届ける…

父である政氏が亡くなると、それを契機に結城や佐竹と言った近隣の大名が攻めてきました。そして、氏治は弘治2年(1556)から永禄元年(1558)の3年間で居城である小田城を両者から3回も攻略されています。ここまでくると戦下手なのが露見してしまうほどです。

しかし、氏治の先祖代々の地を守る執着心は凄まじく、攻略されても必ず奪還する力は持っていました。

上杉謙信/Wikipediaより

そんな力を慢心してしまったのか氏治は従属していた上杉謙信を裏切って返り討ちを受けたり、元亀3年(1572)の大晦日に連歌会をしたが故に、佐竹家の家臣・太田資正(おおた-すけまさ)に攻略されたりと氏治は合計で9回小田城を攻略されてしまいました。

何故か人望だけは有った氏治

9回も居城を奪われた戦がとことん苦手な氏治ですが、意外なことに人望はありました。ここまで戦が下手だと当然のことながら愛想を尽かしてしまうもの。

しかし、当時土浦城城主だった菅谷勝貞・政貞(すげのや-かつさだ・まささだ)親子などの家臣団や領民から氏治は絶大な信頼を得ていました。

家臣団に至っては氏治に代わって小田城の奪還もしてしまうくらい武勇に優れた者もいました。

また領民も小田城を氏治以外が治めていると領民たちは姿を隠してしまい、氏治が小田城を奪還し戻ってくると領民も戻ってくるほどです。

これほどまでに信頼されている所を見ると氏治には不思議と人を惹きつける魅力と仁徳があったと言わざるをえないですね。

豊臣秀吉の天下統一の裏で起きていた氏治の野望

元亀4年(1573)に小田城を奪われて27年経った天正18年(1590)、氏治は小田城奪還のための佐竹家が治める小田城へ兵を率いて向かいました(樋ノ口の戦い)。

この年は豊臣秀吉による小田原攻めが行われた年ですが、なんと氏治は小田城攻めを敢行していたのです。

氏治率いる小田軍は優勢に戦を進めていましたが、援軍に現れた太田資正により氏治は小田城を奪還できずに撤退を余儀なくされました。

 太田資正/Wikipediaより

そして、氏治は小田原攻めに参陣しなかったことと豊臣に臣従していた佐竹家を攻撃したことのお咎めということで全ての領地を没収されてしまい、小田家は氏治の代で滅亡してしまいます。

その後氏治は娘が結城秀康に嫁いでいた縁で秀康に仕えます。そして、慶長6年(1601)に亡くなりました。

結城秀康/Wikipediaより

最後に

最後まで小田城のために尽くした人生でしたが、氏治は関ヶ原の戦いまで生き延びています。

上杉謙信や太田資正など氏治と敵対した戦国武将たちが早々と亡くなっていく中、ここまで生き延びたのは、先祖代々が治めてきた小田城を守りたい執着心がそうさせたのかと思います。

最終的に小田城は奪還できませんでしたが、信頼のおける家臣団と領民が最後まで残ったことが氏治にとって最高の宝だと思いますね。

参考:長谷川ヨシテル『ポンコツ武将列伝』