パリ五輪で表彰台に上った金のシェフラー(中央)、銀のフリートウッド(左)、銅の松山

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少しでも若い選手たちの力に

 パリ五輪の男子ゴルフ競技で銅メダルを獲得した松山英樹に、JGAオリンピックゴルフ競技対策本部から授けられたメダル報奨金600万円。このほど松山から、若手選手育成のためにその全額をJGAへ寄付したいという申し出があった。

【写真】壮絶な闘病生活の中でも常に笑顔で…20歳で夭逝したシェフラーの盟友

 JGAはその申し出を受けて、「今年から始動しているルーキープログラムをはじめとする選手強化事業や若手選手の育成に活用させていただく」という。JGAが発信したリリースには、松山のコメントも付されていた。

「今年のオリンピックでは、国民の皆さんの応援のおかげもあり、メダルが獲れたことを自分でも嬉しく思っています。これからどんどん日本の若い選手たちが世界の場で活躍できるように願いつつ、そして自分も彼らの目標であり続けられるように努力していきたいと思います。少しでも若い選手たちの力になれるよう、今回いただいた報奨金はJGAに寄付させていただくことにしました。是非有効に使っていただければ嬉しいです」

パリ五輪で表彰台に上った金のシェフラー(中央)、銀のフリートウッド(左)、銅の松山

寄付や社会貢献は一流の証し

 欧米ゴルフ界では、トッププレーヤーが社会貢献のために賞金等々を寄付することが、もちろん「ありがたいこと」「素晴らしいこと」と賞賛される。そして同時に、一流選手は「かくあるべし」とも思われている。

 人々のため、社会のために行動してこそ「一流の人」と見なされる欧米では、いわば寄付や社会貢献が一流の証しなのだ。

 日本では古くから「言わないことが美徳」という考え方があるせいなのかもしれないが、寄付や社会貢献をする際も「匿名」というケースが今でもしばしば見受けられる。「みんなに知ってもらうために寄付するわけではない」と、寄付について「書かないでほしい」「記事にしないでほしい」と願い出る日本人選手に、私はこれまで何度も出会った。

 だが、昨今では、災害被災地や被災者への義援金、コロナ禍での支援金などを含め、「寄付します」「寄付しました」と明かす選手が日本でもやや増えつつある。そして、1人増えたら、「私も!」という具合に、また1人、さらに1人と連鎖的に増えていく可能性も期待できる。

 ましてや、日本のエースである松山が五輪のメダル報奨金を寄付したとなれば、その姿勢に学び、「僕も」「私も」と社会に役立つプロゴルファーを目指す選手がきっと増えるのではないだろうか。

シェフラーの親友であり兄貴

 欧米ゴルフ界では、寄付や社会貢献をしてこそ一流選手と見なされるのだと前述した。その1例をご紹介したいと思う。

 世界ランキング1位の座をすでに100週以上も維持し、パリ五輪では金メダルを獲得、そしてPGAツアーの今季の年間王者にも輝いた28歳の米国人選手、スコッティ・シェフラー。彼はプロゴルファーになる前から、「寄付」や「財団」というものに直に触れてきた。その陰には、こんなストーリーがある。

 シェフラーはテキサス州のジュニアツアーに参加していたころ、ジェームス・レーガンという2歳年上のゴルファーと知り合った。シェフラーにとっては親友であり、兄貴のような存在でもあったという。

 レーガンはもともと将来有望なテニス選手だったが、2006年6月に13歳を迎えた直後、骨肉腫と診断された。手術により左脚の大部分を失いながらも、翌07年の夏にはゴルフを始め、シェフラーと出会った。

 その出会いと前後して、レーガンは07年6月に14歳の誕生日としてトーガパーティー(古代ギリシャ・ローマがドレスコードのパーティーで当時の学生に人気だった)を開き、ゲストから入場料50ドルを集めた。がん研究所や世話になっていた地元の病院などに寄付するのが目的だ。その結果、「いきなり4万ドル(約470万円)が集まって、びっくりした」という。

「がんは不意にやってきた」

 レーガンは翌08年の誕生日もパーティーとチャリティ・ゴルフトーナメントを開催し、10万ドルを集めた。これらがヒントになり、「がんとともに生きる子どもたちの人生を向上させたい」という願いを込めて、2010年に友人や家族と「トライアンフ・オーバー・キッズ・キャンサー(Triumph over kids cancer)財団」を創設する。

 レーガンは、こう言っていたという。

「がんは不意にやってくる。僕もがんだと告げられる以前は、スポーツ大好き、ゴルフ大好きなフツウの子どもだった。でも、がんは不意にやってきた。そして、それは誰にでも起こる可能性がある。それが起こってしまった子どもたちの人生が、どう変わってしまうのかを世の中に伝えたい」

「治療は痛かったり、苦しかったりで、とんでもなく、お金がかかる。だけど、その中でも何か楽しみを見出すことができたら、幸せな時間、幸せな日々を過ごすこともできる。そのことも僕は世の中に伝えたい」

 07年に肺への転移が確認されていたレーガンは、厳しい闘病生活の合間にゴルフの腕を磨いた。7年半近い間に6度の手術を受けながらも、ジュニアツアー優勝や大学進学などを実現させている。だが2014年、20歳で天国へ逝ってしまった。

ルーキーイヤーに5万ドルを寄付

 財団設立時のシェフラーは10代半ばだったが、レーガンとペアでトーナメントに出場するなど、すでに固い絆を築いていた。その後もレーガンに寄り添い続け、自身がプロになり、PGAツアーの選手になってからも、寄付はもちろんのこと、時間を作っては財団の活動に参加している。

 ルーキーイヤーだった2019年、シェフラーはRSMクラシックで行われたチャリティ企画で30万ドルを獲得。そのうちの5万ドルを、そのまま財団へ寄付した。

「スコッティが電話してきて、期せずして得たお金を財団に寄付したいと言ってくれました」

 レーガンの母親はそう振り返った。

 かつて、レーガンは「みんなに助けてもらっている。だから僕も、がんになった子どもたちの助けになりたい」と口癖のように語っていた。そんなレーガンの言葉をいつも聞いていたからこそ、シェフラーも周囲のサポートの1つ1つに感謝する選手になったのだろう。

想いを形にすること

 シェフラーは、プロゴルファーになる以前からレーガンが立ち上げた財団をさまざまな形でサポートしてきたが、PGAツアー選手になってからは、レーガンの姉とパートナーシップを組んで支えており、レーガンの残された家族と財団は、そんなシェフラーの熱心な応援団となっている。

 寄付はもちろんのこと、ゴルフバッグや用具を寄贈したり、病院にパット練習用のグリーンを設置したりもしているそうだ。そうやって、シェフラーから素敵な贈り物を授けられた人々も、やっぱりシェフラーの応援団になっている。

 そういう「持ちつ、持たれつ」が自然に続いていることが、とても素晴らしい。そして、そこに関わる人たちが明るい笑顔を浮かべていることが何より素敵だ。

 寄付や社会貢献は、意味や想いが伴ってこそである。シェフラーは、今は亡き親友とその家族のため、同じような病気と闘うすべての人々のために社会貢献をしている。松山は、日本のゴルフ界の若手育成のため、日本のゴルフ界のために役に立ちたいという想いを抱いて寄付をした。

 そんな風に、想いを形にすることが当たり前のように自然に、そしてもっともっと行われる日本社会と日本ゴルフ界になってほしい。

舩越園子(ふなこし・そのこ)
ゴルフジャーナリスト/武蔵丘短期大学客員教授。東京都出身。早稲田大学政治経済学部経済学科卒。1993年に渡米し、在米ゴルフジャーナリストとして25年間、現地で取材を続けてきた。2019年から拠点を日本へ移し、執筆活動のほか、講演やTV・ラジオにも活躍の場を広げている。『王者たちの素顔』(実業之日本社)、『ゴルフの森』(楓書店)、『才能は有限努力は無限 松山英樹の朴訥力』(東邦出版)など著書訳書多数。1995年以来のタイガー・ウッズ取材の集大成となる最新刊『TIGER WORDS タイガー・ウッズ 復活の言霊』(徳間書店)が好評発売中。

デイリー新潮編集部