いつも笑顔の82歳 料理家、 村上祥子さん【写真/江口 拓(スタジオコム)】

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82歳の料理家・村上祥子さん。その元気の秘密は、日々の食事と前向きな考え方にありました。手軽に栄養が獲れる家庭料理を目指した「村上流レンチンレシピ」をはじめ、じぶん時間を目いっぱい楽しむための生きるヒントが満載のエッセイ『料理家 村上祥子82歳、じぶん時間の楽しみ方』より一部を抜粋して紹介します。

【書影】82歳、元気の秘密!誰でも簡単で美味しい「レンチン料理の第一人者」の新刊『料理家 村上祥子 82歳、じぶん時間の楽しみ方』

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アメリカへのあこがれ、結婚

私は、ハイカラなものが好きでした。

当時はアメリカの文化が一気に流れ込んできた時代です。

ファッションやライフスタイル、そして食文化もアメリカ的なものが最先端でおしゃれだったのです。

福岡女子大学で家政学を学んだものの、心の中では(アメリカに行ってみたい)というあこがれが膨らんでいきました。

夫は東京大学卒業後、日本最大の鉄鋼メーカーに就職。

彼の周囲は同じようなエリートばかり。

彼にとって私は 「地方大学出の小さくて元気な、かわいい女の子」だったそうです。

日本は高度経済成長真っ只中、サラリーマンはモーレツに働いていました。

私が新婚時代に住んだ社宅は北九州市八幡にある鉄筋コンクリートの5階建ての桃園アパート。

約6000人が生活する社宅です。

工場の煙突から吐き出される煙で、空は赤や黒に染まっていました(黒い煙には炭素、赤い煙には酸化鉄が含まれていると夫が教えてくれました)。

通退勤時間には、社宅から工場までの道は人の波が続いています。

当時、日本の会社は家族のような濃厚な連帯感があり、社宅もその延長にありました。

桃園アパート自体が一つのコミュニティになっていて、なんでも助け合い、支え合って暮らしていました。

あるとき、「ふっくらパンコンテスト」に出場しようと、毎日パン生地をこねて焼いていると、いい匂いが階段に漂います。

2階に住む上司夫人が玄関のドアをあけて「村上さん、焼けましたぁ?」と、皆でどやどや我が家にやって来て、パンの品評会。

おかげで、ふっくらパンコンテストにも入賞できました。

「おいしいものを共有することで、気持ちも通じる」を実感できた時代でした。

結婚して5年経ち、3歳、2歳、0歳の子どもの母として、私は忙しくも楽しい家庭生活を満喫していました。

ひょんなことから料理の先生に

師走。

キッチンでおせち料理を作っていると、夫が「アンさんというアメリカ人女性と結婚した同僚に、『大晦日に家に来ませんか?タッパーを持ってくればおせち料理をお裾分けしますよ』と言っておいた」と申します。

夫・村上啓助(むらかみけいすけ)は、私に相談してから先方に返事をすることはまずありませんでした。

昭和ひと桁世代ですから、家飲みの時代です。

夫が独身のとき、上司宅で夕飯を食べさせてもらったのと同様に、独身寮にいる部下を連れて帰ります。

私がすべて飲み込んで対応してくれると信じていたのでしょう。

社宅生活では、それが奥さんの「甲斐性」というものでした。

その後、同じアパートに住むことになり、私の手料理を届けたり、アンさんに簡単な和食を教えたりと、おつきあいが始まりました。

ある日、アンさんは東京アメリカンクラブの集まりで、私のことを話したそうです。

すると、「その人に日本の家庭料理を教えてもらいたい!」という人が続出。

日本人と結婚したアメリカ人11人ドイツ人1人の計12人で「アンさんの料理教室」がスタートしました。

私が27歳のときでした。

衝撃を受けた「アメリカの料理本」

そのとき私が考えたのは、なじみのない異国の料理を習って亭主に作ってあげるには、再現性の高さが必須ということ。

料理教室の発起人である望月アンさんがアメリカから持参した『Encyclopedic Cookbook』(Culinary Arts Institute )(日本の辻調理師専門学校のような学校の料理本)を見せてもらいました。

さすがは多民族国家アメリカです。

どんなバックボーンの人でもわかるように、徹底してマニュアル化されたレシピ本でした。

私は大きな衝撃を受けました。

これを機に、私が作るレシピは材料も調味料も分量を明確にするように心がけています。

「吸い加減に味を調え……」といった当時の料理書とは全く違ったものになりました。

それが今日に至ります。

ひょんなことから私は料理の先生になりましたが、夫が東京から大分に転勤することになったのでアンさんの料理教室は1年でおしまい。

社宅ができるまでの急場しのぎに借りてもらった一軒家住まいの大分でも、独身寮住まいの部下に夕飯をふるまいます。

ある日、ある部下の方から「東京の本社で仲良くなった彼女と結婚することになったので料理を教えてくれませんか」と申し出が。

その方が友人を誘い一緒にレッスン。

ようやく社宅用アパートが完成し、そこへ転居。

噂が広まって、大分市内からの生徒さんも増えていきました。

最初は1人から始まった料理教室も、4年後に私が大分を去るときには90名に。

出発の際、大分駅のプラットホームに生徒さんたちが集まり見送ってくれました。

その後、さまざまな土地に引っ越しましたが、ずっと料理教室は続けてきました。

今も休むことなく、55年も教え続けています。

異国の食との出会い

私は子どもの頃から無類のコンテスト好き。

小学生のときに『少女倶楽部』にお菓子のレシピを投稿したことに始まり、前述した「ふっくらパンコンテスト」など、事あるごとにチャレンジしていました。

専業主婦から料理教室の先生を始めた私にとって、料理コンテストは腕を磨き、それを確かめる絶好の機会だったのです。

自ら宣伝をするわけでもないのに、生徒さんはどんどん増えていきます。

家庭料理の基本を教えていても、何かおもしろいワクワクするようなレシピも加えてみたい。

それを料理の専門家である審査員の方々に評価してもらいたいと思いました。


コンテストに入賞する喜び(写真提供:Photo AC)

コンテストの応募を重ねるにつれて、私はその「傾向と対策」を練るようになりました。

コンテスト自体の目的やコンセプト、また審査員の顔ぶれなどを確認して、レシピの方向性を決めるのです。

「この先生がいるなら、ちょっとフレンチの要素も入れようかな」「簡単だけど、『わあっ!』と喜ばれるようなインパクトも大事ね」といった具合です。

カルフォルニアに本社のあるアーモンド会社が主催する料理コンテストにも、そんな調子で応募しました。

言うまでもなくカルフォルニアのアーモンドを日本に普及させるためのコンテストです。

当時の日本では、今のようにアーモンドは定着していませんでした。

条件はお菓子ではなく料理のレシピを作ること。

いろいろと考えては試作を繰り返し、できあがったのが『ポークハワイアンアーモンドクリーム添え』。

パイナップルジュースで煮込んだ角切り豚バラ肉に、牛乳とアーモンドで作ったクリームソースをかけます。

アーモンドの形は見えないけれど、ソースにはしっかりとその風味と味が感じられるレシピです。

オリエンタルな風味も入れてみようと、豚肉をパイナップルジュースで煮た自信作でした。

※本稿は『料理家 村上祥子82歳、じぶん時間の楽しみ方』(エクスナレッジ)の一部を再編集したものです。