82歳 料理家、村上祥子さん【写真/江口 拓(スタジオコム)】

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82歳の料理家・村上祥子さん。その元気の秘密は、日々の食事と前向きな考え方にありました。手軽に栄養が獲れる家庭料理を目指した「村上流レンチンレシピ」をはじめ、じぶん時間を目いっぱい楽しむための生きるヒントが満載のエッセイ『料理家 村上祥子82歳、じぶん時間の楽しみ方』より一部を抜粋して紹介します。

【書影】82歳、元気の秘密!誰でも簡単で美味しい「レンチン料理の第一人者」の新刊『料理家 村上祥子 82歳、じぶん時間の楽しみ方』

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最初の食の記憶

生まれて初めての食について思い出そうとしましたが、記憶は真っ白です。

何も覚えておりません。

私は、1942(昭和17)年。福岡県若松市で生まれました。疎開先は、福岡県福津市(以前は津屋崎町)。半農半漁の自然豊かな町で、小学6年生半ばまで過ごしました。

父は戦争に召集され、妹が生まれる年に母と祖母と一緒にトラックの荷台に乗って引っ越したと聞いています。

私は2歳でした。

津屋崎町の出のばあやが、大工の棟梁である息子と近所にいて、母は心強かったと聞いています。

当時、日本の食糧事情は、栄養重視の食事とはほど遠く、厳しい状況が続いていました。

そのため、一緒に疎開したねえやは故郷に帰したそうです。

私の小学校1年生の写真は、なぜかほっぺがプクプク、前歯の抜けた口を大きく開けて笑っています。

周囲の同級生はみんなガリガリです。

鶏のすき焼きの光景…

家の資産(土地家屋)を管理していた我が家は、働かずとも裕福だったようで、上等な服を着た私は見事な健康優良児でした。

終戦後もどこから入手するのか家にはバターや砂糖がありました。だから栄養は十分に摂取できたのでしょう。

でも豊かな食生活かというと、それはまた別の話です。

私が生まれた後、長女を4歳で失った母は、食べてくれれば十分と、好きなものを存分に与えてくれたのかもしれません。

「8歳のお誕生日、何が欲しい?」と聞かれて、「チーズ!」と元気よく答えたそうです。

甘いお菓子よりもチーズが大好きだったのですね。

チーズを1箱もらった私は、大喜びで妹と分け合って、妹は少しずつ、私は一気に全部食べました。

この家での強烈な食の記憶は、鶏のすき焼きです。

15歳年の離れた九州大学の医学生だった従兄に、母が食料の足しになれば、と、庭で飼っていた鶏を絞めてもらうように頼んだのです。

井戸端にしつらえた石の流し台で、無言で鶏をさばくお兄さんの大きな背中。

水の音、赤い血、お腹から数珠つなぎに取り出される大から小の卵黄…。私は驚きと好奇心で、一心にその様子をみつめていました。

その夜は、 鶏のすき焼き鍋を皆で囲みました。

その味こそ忘れてしまいましたが、その日見た光景は今なお鮮明に覚えています。

生まれて初めて作った料理

体格が華奢だった父は終戦直前に招集され、山口県沿岸部の護衛部隊に所属しましたが、すぐに戻って来ました。

戦後、私が物心ついた頃のことです。

母は気苦労が多かったのかもしれません。何か持病があったのかもしれません。具合が悪く床に伏せることが多い人でした。

昔の家では、病人はお座敷に寝かせるのが常でした。

電燈には風呂敷を被せて薄暗くして。

7歳の私は、 母が心配で部屋を覗きに行っては戻り。

ねえやは故郷に戻されたし、お嬢さん育ちの祖母はまるで家事ができない人です。父も皆目できません。

そこで私は蒸した、ほかほかのご飯を母に持って行きました。

どこかで「蒸す」という調理を見たのでしょう。

とにかく(あったかいものを食べさせなくては)と子ども心に思ったのだと思います。それが、私が生まれて初めて作った料理です。

子どもだってご飯を作りたい!

子どもって、 食いしん坊で食べてばっかりいるイメージがありますが、 一方で作ってあげようと考えることもあるのじゃないかしら。

私の息子も、やっぱり7歳ぐらいだったかな、撮影の仕事を終えてもどってきて座りこんでいる私に、砂糖をたっぷり入れたアイスコーヒーをご馳走してくれました。

ガラスのグラスになみなみと入れたアイスコーヒーを、こぼさないように運んできた真剣な顔をよく覚えています。

もうそれだけで、母親の疲れは吹き飛んじゃいますよね。


(写真提供:Photo AC)

今まで私は、いろんな小学校で食育の授業を行ってきました。

そのなかで、電子レンジでご飯を炊いてもらいます。

浸水しなくてもおいしいご飯が炊けるんですよ。

それを受講したある男の子が、お母さんが風邪をひいたときに、弟と一緒に電子レンジでご飯を炊いてあげたんですって。

お母さんはとても喜んで、その顔を見た男の子は、次にサバのみそ煮(これも食育のレシピ)を作ったそうです。

お母さんから「とってもうれしかったです」というメールをいただきました。

もちろん、 お母さんが作るご飯を食べるのもいいけれど、 子どもだって作りたい。

一緒に作ったり、作ってあげて感謝をされたりするのも、子どもはうれしいのだと思います。

子ども時代の我が家の食卓

そんな我が家の食卓はというと、昭和の家庭料理とはちょっと違っていたかもしれません。

父は一滴もお酒が飲めない人。そして魚嫌い。

夕食はビーフシチューやステーキなど、洋食が多かったですね。

会合などで父が出かけることがわかると、母はすぐに魚屋に電話をしてお刺身の盛り合わせを取り寄せました。

「わさびとおしょうゆだけで、こんなにおいしいのよ」と、うれしそうに教えてくれるのです。

母の料理は、おふくろの味というよりは、今でいうグルメ風。

プレーンオムレツもお刺身も、上質な素材を生かした料理でした。

小学1年生の遠足には、手製の飴をかわいい缶に詰めて持たしてくれました。

「お友達にもあげてね」私は飴のたくさん入った缶を振って、もうワクワクです。

楽しい遠足に出発!ところが夕刻、玄関にたどり着くなり、私はうっとしゃがみ込み、「おえー!!」と、いうや否や胃の中のものを吐き戻してしまいました。

後日、近所の人から私が飴を一人で食べ切っていたと聞いた母に大笑いされました。

お姉ちゃんぶっていてもまだまだ子ども。おいしいものには目がない食いしん坊だったのですね。

体調を崩した母にはあったかいご飯を、お客さまにはあるもので工夫をしたお茶菓子を。

私は7歳の頃から、だれかに何かを作ることの喜びを知りました。

食事は栄養を得るためだけでなく、人と人がつながるためのものでもあると、なんとなくわかっていた気がします。

※本稿は『料理家 村上祥子82歳、じぶん時間の楽しみ方』(エクスナレッジ)の一部を再編集したものです。