頭蓋骨を敵弾で砕かれ、顔半面を吹き飛ばされた「零戦搭乗員」が語った「波乱の人生」

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8月26日に発売される『決定版 零戦最後の証言3』は、4月に刊行した『決定版 零戦最後の証言1』、6月に刊行した『決定版 零戦最後の証言2』と同様、私がこの30年のあいだに直接インタビューを重ねた元零戦搭乗員たちが、戦争をいかに戦い、激動の戦後をいかに生きてきたかを、本人の「証言」と戦中、戦後の写真とともに解き明かしたものである。登場人物は各巻8名で、『3』は志賀淑雄、鈴木實、田中國義、佐々木原正夫、渡辺秀夫、宮崎勇、長田利平、笠井智一の各氏。今回はこのなかから、ソロモン航空戦で相次ぐ士官搭乗員の戦死を受け、下士官でありながら零戦隊を指揮して奮闘するも空戦で被弾、顔の右半面を失う重傷を負いながら生還した、渡辺秀夫氏のエピソードをリライトしてご紹介する。

日本軍の拠点「ラバウル」

太平洋戦争中、日米両軍が激闘を繰り広げた南太平洋で、日本軍の一大拠点となったのが、ニューブリテン島の北東部に位置するラバウルだった。

昭和17(1942)年1月、アメリカとオーストラリアとの連絡路を遮断する作戦の一環として、オーストラリアの委任統治領であったこの地を占領した日本軍は、飛行場の整備を進め、航空部隊を進出させた。

当初は、ニューギニア南東部の連合軍の拠点・ポートモレスビー攻略へ向けての作戦が主な任務だったが、同年8月、ソロモン諸島のガダルカナル島に米軍が上陸すると、ニューギニア、ソロモンの二正面での戦いを余儀なくされた。

開戦当初は無敵を誇った零戦隊も、日毎に増強される敵戦闘機の前に損失を重ねてゆき、消耗と疲労のいちじるしい部隊は再建のため内地に帰され、代わって新たな部隊が投入された。

昭和18(1943)年1月になると、日本軍はガダルカナル島の奪還を断念、2月、同島から撤退する。ラバウルはそれ以後、進出拠点から防衛拠点へと性格を変え、攻勢に転じた米軍を必死で防ぎとめる、長く苦しい戦いを繰り広げるようになった。

歴戦の零戦搭乗員が次々と斃れ、指揮官となるべき士官パイロットも、そのほとんどが戦死してしまう。そんな、いわばもっとも苦しい時期のラバウル零戦隊を背負って戦った23歳の下士官搭乗員がいた。

渡辺秀夫上飛曹。その名を抜きにして、大戦中盤のソロモン航空戦は語れない。

渡辺は、当時、ラバウル、ソロモン方面での航空戦の主力となっていた第二〇四海軍航空隊(二〇四空)で、士官搭乗員の相次ぐ消耗のなか、下士官でありながらときに空中指揮官の大任を果たした。昭和18年8月26日、日本軍の前進基地のあったブーゲンビル島ブイン上空の邀撃戦で被弾、顔の右半分を吹き飛ばされ、右眼を失う重傷を負いながらも生還、南東方面艦隊司令長官・草鹿任一中将より、「武功抜群」と記された白鞘の日本刀を授与されている。

日本刀が意味するものとは

私が、福島県に暮らす渡辺とはじめて会ったのは、平成11(1999)年6月のこと。じつは、ここへ至るまでの道のりが長かった。

同じ二〇四空の一員であった大原亮治に、渡辺を紹介されたのが平成8(1996)年の始め頃。手紙で取材意図を伝え、電話でインタビューをお願いすると、会ってくれるという。さっそく、新幹線のチケットを用意し、出発の準備をしていたところ、当日の朝になって

「やっぱり気が進まない」

と、断りの電話が入った。その後も同じようなことが続き、キャンセルになること数度。

「顔面の古傷が影響して、戦争の話をしようとすると気分が塞ぐんじゃないか」

と、紹介者の大原は言い、私も気長に待つことにした。渡辺本人は、インタビューに逡巡しながらも、なにかを残したい意思は持っているらしい。手紙や資料を送ってくれたり、電話をかけてきてくれることもしばしばで、まったく脈がないわけではなさそうだった。ただ、渡辺は朝が早い。電話がかかってくるのはたいてい朝の6時で、報道カメラマンという仕事柄、夜が遅いことの多い私には、少々つらいこともあった。

そして3年半が過ぎたある日、例によって朝6時に電話が鳴った。渡辺からだった。

「今日は気分がいいんです。今日なら話ができそうだから、いまから来られませんか」

とるものもとりあえず、当日の予定をキャンセルして、新幹線に飛び乗った。

午前10時半、福島駅の新幹線ホームで出迎えてくれた渡辺は、戦歴から想像したのとは正反対の、じつに淡々としたやさしい雰囲気の人だった。

右眼を中心に、その周囲の頭蓋骨を敵弾で砕かれ、顔半面を吹き飛ばされたと聞いていたが、一見、それほど酷い傷痕は見られない。ただ、右眼が義眼であることはすぐにわかった。

「海軍病院で、うまく顔を修復してくれたんです。戦時中は、手足を失ったり、顔面に重傷を負うなんてことは日常茶飯事でしたから、整形手術はいまよりむしろ発達していたのかもしれません」

タクシーで渡辺の自宅に着く。庭は畑になっている。主人の姿をみとめた柴犬が、玄関先で勢いよく尻尾を振った。

「戦後は役所に勤めましたが、退職後は農業をやってます」

渡辺は言った。そして、私を応接間に招き入れると、

「今日、気分がいい、と言ったのは、これが出てきたからなんです」

と、立てかけてあった一振りの日本刀を取りあげた。白鞘の日本刀。鞘には“武功抜群”と、墨痕鮮やかに書かれている。

「ブイン上空でやられて重傷を負ったあと、ラバウルの海軍病院に入院中に、草鹿長官からいただいた刀です」

目釘をはずして銘を見せてくれた。肥前国忠次作の銘がある。

「この刀が……」

と、私は思った。渡辺がこの刀を授与されたことについては、さまざまな戦記本で触れられている。そのほとんどに〈軍刀を授与された〉と記されているが、それは間違いで、目の前にある刀は、軍刀の拵えもなにもない、白鞘の日本刀だった。

「これは復員したあと、うちの父が、進駐軍に没収されるのを恐れてどこかに隠し持っていたんです。その後、没収のおそれがなくなって刀剣登録もしたんですが、どこにしまい込んだか、父しか知らないままでした。父が突然倒れて息を引き取ったとき、『刀はどこだ』と聞いたんですが間に合わなくて。……それが最近、父の遺品を整理していてタンスを動かしたら、その下から出てきた。それで、話す決心がついたんです」

刀の茎、銘の裏側には、昭和17年7月吉祥日の文字が刻まれ、登録証によると長さ67.8センチ、反り2.0センチ、目釘穴1個とある。この刀が、渡辺の心の拠りどころだったのだ。

さっそく、撮影をお願いする。刀を地に突いて私のカメラの前に立つ姿からは、古武士の風格が感じられた。

零戦隊を指揮

渡辺は大正9(1920)年6月22日、福島市郊外の荒井村(現・福島市荒井)の農家に生まれた。ものごころついた頃から強烈に飛行機に憧れていたという。

昭和12(1937)年6月1日、海軍四等水兵として横須賀海兵団に入団。軍艦「八雲」、砲術学校、駆逐艦「響」の射手を経て、部内選抜の丙種飛行予科練習生として土浦海軍航空隊に入隊。筑波海軍航空隊で中間練習機の訓練を受けたのち、戦闘機搭乗員になった。

最前線ラバウルの第二〇四海軍航空隊に転勤したのは、昭和18年4月3日のことである。着いた早々、渡辺は連日の出撃に小隊長として参加、撃墜を重ねた。本人のメモによると、撃墜した敵機は、協同、不確実をふくめ48機という。渡辺の回想――。

「飛行隊長の宮野善治郎大尉はいい隊長でしたね、思いやりがあって。航空隊全体が、まるで家族のように仲がよかった。それと私自身、敵戦闘機との空戦では絶対に負けない自信がありました。だから、こんなふうにやられることになるとは、思ってもみなかったですね……」

6月16日には隊長・宮野大尉と飛行士(飛行長の補佐)・森崎武予備中尉が激戦のなか戦死し、一時は二〇四空に指揮官となるべき士官搭乗員が皆無という事態になった。内地から飛行学生を卒業したばかりの中尉が2人、着任してきたが、いずれも戦場に慣れるいとまもなく戦死してしまう。海軍も役所だから、准士官以上の現認証明書、見認証書がなければ、戦死者の手続きも戦果の認定もできない。だが、連日続く戦闘にそんなことを言っていられる状況ではなく、渡辺は9回にわたって二〇四空零戦隊を率い、総指揮官として出撃している。その働きは、まさにソロモン航空戦の屋台骨を支えていると言って過言ではなかった。

被弾で重傷を負う

8月26日、この日は出撃の予定はなく、前進基地のブーゲンビル島ブイン基地にいた二〇四空の搭乗員たちは、戦闘指揮所に近い搭乗員待機所で思い思いに時間を過ごしていた。

午後2時10分頃、突然、敵機来襲を告げるサイレンが鳴り響いた。同時に、戦闘指揮所の鐘が激しく打ち鳴らされ、信号兵の戦闘ラッパも響きわたった。

ただちに戦闘機隊に発進命令がくだった。搭乗員たちは飛行服をつける暇もなく、落下傘バンドだけをかかえて零戦に飛び乗った。

渡辺は、ランニングシャツに半ズボンの姿のまま、飛行靴も履かずに手近の零戦に駆け寄ると、真っ先に離陸した。

上昇しながら落下傘バンドをつけると、早くも米軍の大型爆撃機・コンソリデーテッドB-24 10数機の編隊が、爆撃針路に入っているのが見える。渡辺は、敵機の前方に向かって急上昇した。そして、敵編隊の前方1000メートル、高度差500メートルの位置に達するや、そのまま急降下してスピードをつけ、B-24編隊の左側の1機に、腹面から垂直上昇で7.7ミリと20ミリ機銃を撃ち上げた。そして、敵機編隊を突き抜けて上昇し、こんどは上方からの攻撃態勢をとった。先ほどのB-24は、煙を吐きながら編隊から離れ始めている。

「そのとき、前上方から2機のグラマンF4Fが射撃をしながら突っ込んできました。すかさず一番機に反航射撃を加えると、敵はパッと上下に開いて逃げようとした。

セオリーからいうと、この場合、上に行った敵機を追撃するべきなんですが、下を見ると味方機が次々と上昇してくるし、下に行ったやつのほうが墜としやすいかと考えて、まずは下にかわした敵一番機を追尾して一撃。するとそいつは、あっけなく火を噴いて墜ちてゆきました。

それで、もう1機の敵機とはまだ距離があるはずだが、そろそろ来るかな、と思いながら機首を引き起こして右後ろを振り返ったら、相手の飛行機を見ないまま、突然、バンバンッという大きな音がして、同時に目の前が真っ赤になり、爆風を受けたみたいに全身に激しいしびれを感じました。

痛みは全然ないんです。それで、はじめは飛行機が燃えているのかと思って、脱出しなくてはと風防を開けようとしたんですが、体が言うことを聞かず、手に力が入らなくて開けることができない。そこで初めて、これは体に弾丸が入ったなと思いました。

天皇陛下万歳、なんて思わない。ただ、父母兄弟が、私がここで死ぬのがわかるかな、とチラッと考えました。すると、上昇の姿勢にあった飛行機がスピードを失い、機首をガクンと落として錐もみに入りました。あわてて操縦桿をとろうとしましたが、手足がまったく動かないんです。だんだん気が遠くなって、そのまま意識を失ってしまいました」

渡辺は1機を撃墜したものの、零戦1機に対して2機が一組となり、連携して戦う米軍の戦法「サッチウィーブ」の術中にはまったわけである。

「どれぐらい時間が過ぎたかはわかりませんが、気がついたときは錐もみは止まっていて、飛行機はものすごいスピードで降下しているところでした。

海面に激突か、それとも空中分解か、と思っていると、こんどは急上昇の姿勢になりました。飛行機は、きちんと調整さえされていれば、上昇、下降を繰り返しながらだんだん波がおさまって、放っておいてもまっすぐ飛ぶようになるんです。

依然として痛みは全然感じない。しかし、自分では怪我の状況はわかりません。ようやく手足が少し動くようになったので、飛行手袋をぬいでハンカチを取り出して顔を拭くと、しだいに左目が見えるようになってきました。被弾したときの高度は3〜4000メートル。気を失っているあいだ、どういう飛び方をしていたのかわかりませんが、海面を見ると、まだけっこう高度がありました。

計器板はひとつ残らずめちゃくちゃに壊れていて、首から下のシャツが血だらけになっていました。命中した敵弾は1発だけでしたが、それが風防に命中して、顔に弾片をくらったんです。上空を見ると、まだ敵味方が入り乱れて空戦の最中でした。

それで、よし、もう一度行こうと思ってエンジンを入れ、操縦桿を引いたんですが、そうすると気を失ってしまう。何度かやってっみたけど、どうしても操縦桿を引くことができない。それで、これでは戦闘はできないとあきらめて、基地に向かって反転しました。帰ろうと思ったら急に気分が悪くなって、食べたものを何度も吐いてしまいました。

それから2〜30分は飛んだと思うんですが、とにかく飛行機をもって帰ろう、基地に帰ってから死のう、それだけでした。

頭痛がひどく、出血多量のせいか、ときどき気が遠くなってしまい、上昇と下降を繰り返しながらようやくブイン上空にたどりつきました。

戻ってみると、爆撃で穴だらけになった滑走路上で、設営隊の数台のトラックが、穴埋め用の土を運んでいるのが見えました。低空すれすれを飛んで、風防を開けて手でどけろ、という合図をして、みんなを滑走路からどかせて、決められた誘導コースよりも低空で飛行場にすべり込み、一発でうまく着陸できました」

渡辺は飛行機をそのまま戦闘指揮所前までもっていったが、エンジンを停止させると、それっきり気を失ってしまった。

もう助からない

意識を取り戻したのは夜になってからだった。

「岩手県出身の古館伝三郎という軍医大尉が、応急手当てをしてくれました。彼はいつも搭乗員室でワイワイ飲んでいて、ふだんから仲良くしてもらってたんです。

手当てがすんだあと、軍医が付き添いに来てくれた整備科の人に、『今夜は危ないから、俺はそばについている。何かあったらすぐに起こせ』という声が聞こえた。それで、俺はもう駄目なんだな、と思いましたが、飛行機を壊さずに基地まで帰れただけでも幸せだった、という気持ちでいっぱいでした。

自分でもまだ、どこに敵弾が当たったのかわからないし、痛みも感じないんです」

本人にはわからなかったが、渡辺の傷はすさまじく、右顔面の目から鼻にかけての骨と肉が吹き飛ばされ、しかも顔面には無数の弾片が刺さっていた。

この日、渡辺機が着陸したときの模様を目撃した二〇四空零戦搭乗員・中村佳雄(当時二飛曹)は、私に次のように語っている。

「搭乗員が飛行機から降りてこないので、これはやられたなと思って駆け寄ると、渡辺さんが2、3人の整備員にかかえられて、飛び出した眼球を手で押さえながら血だらけの姿で降りてきて、あまりの大怪我に思わず息を呑みました」

渡辺は2日後、二〇四空が輸送機として使用していた九六式陸上攻撃機でラバウルへ移送され、そのまま第八海軍病院に入院した。ここでの診断でつけられた傷病名は、

〈右前頭部機銃弾弾片創、右前頭部複雑骨折、右眼損傷、左眼窩上部採種状機銃弾片創〉

だった。

長官から授かった日本刀

8月30日、渡辺は、この方面における海軍の最高指揮官である南東方面艦隊司令長官・草鹿任一中将の突然の見舞いを受けた。司令長官が、下士官の病床を見舞うのは異例のことである。

「長官が来られることは、事前にはなにも知らされていませんでした。私は頭に包帯をぐるぐる巻かれ、目も見えず、立つこともできない状態でした。

長官は、参謀の土井泰三中佐(戦後、陸上自衛隊に入り陸将)と二人で来られましたが、土井参謀という人は、以前から私に目をかけて、親しく接してくれていたんです。

それで土井参謀から、長官がお見えになったと言われてベッドの上で身を起こすと、手を出しなさい、と、長官自ら白鞘の日本刀を手渡されました。

そのときは見えませんでしたが、“武功抜群”と清書された奉書に紅白の水引をつけ、白鞘にも“武功抜群”と揮毫されていました。

長官からは、ただ『ご苦労だった』の一言でしたね。参謀からは、功績は全軍に布告してあるから、との説明を受けました」

この“武功抜群”の日本刀は、激戦が続く南東方面(東部ニューギニアからソロモン諸島)作戦参加部隊の士気高揚策として、戦場における功績の顕著な者に与えられることになっていた。草鹿長官から“武功抜群”の日本刀または短刀を授与された搭乗員は10名である。

渡辺は9月13日、特設病院船「天應丸」に転院、そのまま内地に送還されることになった。

9月22日、内地に帰還した渡辺は、ただちに神奈川県の野比海軍病院に入院。ところが、あまりの重傷にとても処置ができないとのことで、28日、横須賀海軍病院に転院する。しかしここでも手のほどこしようがなく、10月6日、ベテランの眼科医と設備のそろっている東京の軍医学校に移された。

ここでようやく、弾片の除去手術を受け、次いで傷の治療、それから失われた顔の右半面を修復する整形手術を受けることになる。

右眼窩から頬にかけて、顔の砕けた骨をとる。そして、胸の肉を幅5センチ、長さ20センチの短冊状に、短辺の上部を残して切り取り、切ったほうを持ち上げて首に縫合する。これは、切った肉に血を通わせるための処置である。首につけた部分がなじんだ頃を見計らって、胸に残っていた短辺を切り、それをまた持ち上げて頬に縫合する。この部分が頬になじめば、首につけた部分を切って、頬に縫合する。こうして、胸から切り取った肉を、血流を絶やさずに首を経由して移植する、手間と時間のかかる手術だった。

「眼科の先生が、うまく手術をやってくれました。整形外科だと、もっとひどい手術痕が残るそうです。なくなった眉をつけるのには、傷のある場所を避けて少し位置がずれてしまいましたが、頭の皮膚を移植しました。はじめは毛髪と同じ毛が生えてきますが、その場所になじんでくると、だんだん眉毛のようになります」

話が手術におよんだとき、渡辺が、

「だからいまでも、私の顔の右半分には骨がないんですよ」

と言った。

「さわってみますか?」

おそるおそる、手を右頬骨のあるべきところに触れてみると、確かに骨の感触がなかった。右眼窩から鼻、頬骨にかけての骨と肉が吹き飛ばされたにもかかわらず、この人は健康に生きている。いまこうやって不自由なく会話を交わしているということが、奇跡のように思えた。

飛行機に乗ることなく終戦へ

「結局、1年10ヵ月もの入院になりましたが、入院中は、うちから家族がしょっちゅう来てくれました。父はただ、(帰ってきて)よかったな、とそれだけでした。

ほんとうは、退院したら即、兵役免除で帰郷することになっていたんですが、負傷したときの艦隊参謀で、その頃は海軍省軍務局にいた土井泰三中佐に、退院したらまた飛行機を操縦させてください、絶対大丈夫だから、と直訴しました。まだまだやれると思っていましたから」

渡辺は海軍の現役にとどまることになり、昭和20(1945)年6月8日、全治退院すると、6月21日付で神奈川県の厚木基地を拠点とする飛行機の空輸部隊・第一〇八一海軍航空隊付を命ぜられる。しかし結局、ふたたび操縦桿を握ることのないまま終戦を迎えた。

「終戦は、霞ケ浦の派遣隊で迎えました。とうとう来たな、という感じで、特に混乱はありませんでした。最後まで飛行機に乗るつもりでしたから、それが悔しかったですが……」

飛行兵曹長に進級し、8月23日に復員した渡辺は、その年の12月に結婚した。妻のキノイは幼なじみの同級生の妹で、双方の親どうしが決めた結婚だった。

そして昭和23(1948)年、荒井村役場に就職し、昭和30(1955)年、荒井村が福島市に合併されると、福島市役所に勤めた。役所では税務などを担当し、60歳の定年まで勤め上げた。その後は、家業の農業を引き継ぎ、稲作や養蚕を手がけた。

最初のインタビューののちも、渡辺との交流は続いた。

その後も変わらず、電話がかかってくるのは決まって朝6時である。渡辺は口数が少なく、こちらから訊ねたことにしか答えない感があったが、そのあとは必ず、丁寧な手紙で補足してくれるのだった。

渡辺の語り口は終始、淡々としていて、海軍や戦争への恨みごとはついぞ聞かれなかった。

「海軍は、自分が好きで入ったところですから、居心地はいいと思っていました。悪い思い出はないですね。戦後になってから昔の上官への恨み節や悪口ばかり言う人がいますが、私はそんなにいやな人にはぶつからなかったし、ああいう人間にはなりたくないと思います。

負傷したことも、戦争に出たら死ぬのが当たり前だと思っていたから、悔いは全然ありません。痛恨事だとも思ってません。

自分の人生を振り返っても、感慨は全然ない。なんとも思わないですね。まだまだこれからだと思っていますから」

福島の土湯温泉で、一緒に温泉につかりながら一晩話を聞いたのが、最後の思い出となった。渡辺はそのとき、

「戦争が終わってからも負傷の後遺症もなく、それで困ったことはありません。片眼が見えないことで、はじめのうちは遠近感がつかめず、よくつまづいたり、まっすぐ歩けなかったりしましたが、日常生活に支障はありませんでした。もともと私は体が丈夫で、生まれてから一度も、風邪ひとつひいたことがないんです。

いまも、体にはどこも悪いところはありません。120歳ぐらいまでは生きなくちゃ、と思っているんですよ」

と言っていた。実際、渡辺は、負傷の痕をのぞけば健康そのものに見え、120歳をめざすというのも、あながち誇張ではないようにさえ思えた。

思わぬ形で人生の幕を閉じる

ところが、平成14(2002)年6月3日、突然、渡辺の訃報が届く。

自宅裏を流れている用水路に落ち、亡くなっているのが見つかったという。用水路は幅1メートル近く、流れが思いのほか急である。体力に自信のある渡辺は、いつもそうしてきたように、用水路を飛び越えようとして目測を誤り、転落したのではないかと推測された。享年81。

両目が見えていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。あれほどの負傷をもものともしなかった人が、どうしてこんな事故で、と、呆然とする思いだった。運不運とか、生命とはなんだろう。人の運命の不思議を感じずにはいられない。(文中敬称略)

【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!