(撮影◎本社 奥西義和)

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「ブルース・リーを知る男」としても有名で、ジャッキー・チェンとも親交があり、1970年代から香港映画で俳優として活躍していた倉田保昭さん。日本では『Gメン'75』(TBS)の草野刑事として記憶している人も多いのでは。今年出演作『帰ってきたドラゴン』が50年ぶりに上演されるにあたって、78歳にして現役の倉田さんがアクション俳優になるまでの道のりを聞きました。(構成◎上田恵子 撮影◎本社 奥西義和)

【写真】倉田さん27歳の時、『帰って来たドラゴン』宣伝ポスター

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50年ぶり上映の香港映画『帰って来たドラゴン』

僕が出演した香港映画『帰って来たドラゴン』(1974年公開)が、このたび「2Kリマスター完全版」として上映されることになりました。まさか50年もたって再度上映されるとは思っていなかっただけに、感慨もひとしおです。

僕はこれまで、およそ120本近くの海外映画に出演してきました。なかでもこの映画は、もっとも撮影がキツかった記憶がある作品です。

当時はCGもワイヤーも無い時代。跳べと言われたら自力で跳ぶしかなく、倒れろと言われたらその場で倒れるしかない。特に『帰って来たドラゴン』の監督は引きで撮るのが好きな人だったため、隅から隅まで全部映ってしまう。おかげで一切のごまかしが効かず、苦労しました。(笑)

撮影に2ヵ月以上、そのうちアクションシーンだけで1ヵ月。当時の香港映画は劇中の7割がアクションでしたから、体力的にも大変でした。

もうひとつ大変だったのが台本がないことです。監督だけが内容を把握していて、役者には当日「はい、今日のぶんです」とプリントされたものが渡される。撮影直前に「今日はこういうシーンがあるのか」と知るのですから、役作りや事前の準備は一切できません。

理由は情報漏洩を防ぐため。企画が盗まれて他社に先に撮影されないよう、そのようなシステムがとられていたのです。

日本人が倒されると喝采が起きていた時代


(撮影◎本社 奥西義和)

『帰って来たドラゴン』で僕は、悪役としてブルース・リャンと戦うのですが、アクションシーンは僕と彼とで「ここでこうやって、それをこう受けて」「ちょっと下がって、攻撃して」と口頭で打ち合わせをするくらい。完全なるフリースタイルでしたが、あれはお互いに息がぴったり合っていたからこそできたことでした。

顔を殴るシーンでうっかり当たってしまったとしても、双方に技術があるのでケガをさせるようなことにはなりません。皮一枚残して少しかするくらいです。そんなことができたのは、今も昔も僕らだけだと思います。

また当時はまだ戦争の残り香があり、日本人が倒されるシーンがくると香港の映画館で喝采が起きていた時代です。監督をはじめとしたスタッフは、「日本人をどう倒すか」に強くこだわっていました。

こちらはもうフラフラでいつ倒れてもいい状態なのに、向こうのほうで「最後にどうトドメを刺そうか?」と話し合っているのですから、「ちょっと私情が入ってるんじゃないの!?」と疑ったこともありました。(笑)

「香港映画のオーディションがあるんだけど、受けてみないか?」

香港映画界との縁ができたのは1970年。大学を出て2年が過ぎ、日本のドラマや映画でちょい役をやっていた時期でした。演技の研修所に籍を置いてはいましたがサボってばかりでしたし、役者の仕事も食べていくにはほど遠い。もうやめようかなと思っていた時に「香港映画のオーディションがあるんだけど、受けてみないか?」と言われたのです。

もともと僕には、卒業後は海外で仕事をしたいという夢がありました。役者じゃなく裏方でも、正直、日本を出られれば何でも良かったのです。なので声をかけてもらったのは本当に幸運でした。

オーディションの場所は帝国ホテルのティールーム。そこにショウ・ブラザーズという香港の大手映画会社の社長が来ていました。オーディションと言っても挨拶をして、「そこに立って。はい、どうも。じゃあ監督と相談して連絡します」くらいのものです。


(C)1974 Seasonal Film Corporation

一瞬で終わったので「これはダメだろうな」と思っていた2ヵ月後、「選ばれたみたいだよ。撮影は2週間で終わるらしいから行ってみれば?」と言われて。あれよあれよと言う間に、香港に飛ぶことになったのです。

現地では、まず1日でラッシュを撮影。それを見て評価してくれたのか、その場で年間契約が決まりました。

とはいえ僕としては2週間の予定で来ていたため、何の準備もしていません。そこで「生活費として月々**円くらいもらえますか?」と尋ねたところ、「それはうちのトップスターのギャラだよ」と断られて。がっかりしていたら、監督が「俺がもう1本出資している会社があるから、昼間はショウ・ブラザーズの作品に出て、夜はそっちに出なよ」と勧めてくれたのです。

そこからはもう「この監督にすべてを任そう!」と決め、昼夜寝る間もないアクション三昧の日々に突入していきました。

食べ物が美味しく、すべてが大らかだった香港


『帰って来たドラゴン』宣伝ポスター。27歳の頃(ローマにて)

香港は僕が初めて行った海外になりますが、今までろくに食べていなかったせいか、もう何を食べても美味しくて。鶏の足を煮たものだけは見た目を含めて苦手でしたが、他は全部口に合いました。皆さんからよく「ご苦労なさったでしょう?」と言われますが、ちっとも苦労なんかしていないんですよ。(笑)

住居はホテルではなく、撮影所の中にある宿舎。ひとつの村のような大きな施設で、俳優もプロデューサーも皆そこに滞在しているのです。僕も草履履きで、そこからスタジオに通っていました。食事も出るため、お金を使う必要がないのがありがたかったです。

現場は皆すごくフレンドリーで、アクションも好きなようにやれるし、フィルムなんかいくら使ってもいいよという感じで、10回、20回とNGを出しても怒られない。仕事の時は通訳がつくので、コミュニケーションの問題もなし。大らかで、伸び伸びと仕事ができる環境でした。

昼も夜もスケジュールが埋まっていて肉体的には多忙だったものの、のんびりした自由な雰囲気に、毎日「ここは天国だな」と思いながら撮影をしていました。

撮影所は郊外にあって、がけ下は海。夜に撮影が終わって空を見上げると、大きな月が出ているんです。時には月あかりの下、「この海を泳いでいけば日本に帰れるのか……」と郷愁にかられたことも。街の電気店から千昌夫さんの『星影のワルツ』が聴こえてきた時はグッときましたね。

倉田保昭の名を知らしめた香港映画『続・拳撃 悪客』

僕の香港デビュー作は、チャン・チェ監督のクンフー映画『続・拳撃 悪客』(1972年)です。主演は当時香港のトップスターだったティ・ロンとデビッド・チャン。監督はこの大スター2人の間に、僕を入れてくれたのです。おかげでたった1作で、僕の名前は香港中に知れ渡ることとなりました。

ちなみにこの映画の助監督は、後に監督として『男たちの挽歌』『ミッション:インポッシブル2』『レッドクリフ』等の大作を世に送り出したジョン・ウー。彼はカタコトの日本語を話すので、よく食堂で一緒にご飯を食べながらお喋りしていました。また、この作品でスタントマンをしていたユエン・ウーピンは、今やアクション監督としてハリウッドで名を馳せています。

僕は『男たちの挽歌』でトップスターとなったチョウ・ユンファとも仲がいいのですが、彼から「倉田さんが香港に来た時、僕はホテルのポーターをしていました」と言われたことがあります。家が貧しかったために最初はそうやって働いて、その後テレビ局の研修生になり、ドラマ、映画へと活動の場を広げていったんですね。

『続・拳撃 悪客』の2年後、日本で『帰って来たドラゴン』が上映されることになり、僕も宣伝のために一時帰国。配給会社の人に「この映画は君で売るからね!」と言われ、全国をキャンペーンして回りました。するとその半年後に日本からオファーがあり、19時半からの30分ドラマ『闘え!ドラゴン』がスタートしたのです。

久しぶりの日本の現場でしたが、香港の撮影に慣れていた自分にとって、時間や段取りが細かく決まっている日本のやり方は厳しくて。のんびりした香港が恋しくなって困りました。(笑)


(撮影◎本社 奥西義和)

>>後編へつづく