徳川家康と豊臣秀頼が対面をはたした二条城(写真: kumiko / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は二条城会見において、豊臣秀頼が家康に臣従の意を示したのか否か解説する。

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慶長16年(1611)3月、徳川家と豊臣家の関係を考えるうえで、大きな出来事が起こる。徳川家康と豊臣秀頼の京都二条城での会見である。

家康が秀頼に上洛を要請するのは、これが初めてではなく、慶長10年(1605)にも北政所(豊臣秀吉の正室)を通じて行われたが、秀頼の生母・淀殿の拒否によりかなわなかった。

信長の弟や、清正らが対面に向けて動く

今回2人の対面に向けて奔走したのは、織田有楽斎(織田信長の弟。豊臣家家臣)だった。『当代記』には、織田有楽斎が家康のもとに派遣されたことが記されている。

また、加藤清正や浅野幸長らも家康の頼みにより、奔走したようである。家康の目的達成に向けた熱意が伝わってくるが、ここまでされたら、秀頼(大坂方)としても断る術はない。何より、家康と秀頼は縁戚、秀頼の妻・千姫は家康の孫なのである。

さて家康の上洛の目的には秀頼と対面したいということもあったが、いちばんの目的は即位の礼に参列することにあった。後陽成天皇が後水尾天皇に譲位されることになったからである。

後陽成天皇の譲位は、同年3月27日に行われた(後水尾天皇の即位は、4月12日)。家康は、2月26日には、上洛途上の規定を定めている。供の者の脇道を禁じ、放談・高笑い・大酒・遊興を禁じたのだ。

そして、3月6日に駿府を立った。3月17日には京都に到着、二条城に入る。翌日には、武家伝奏(朝廷と幕府の間の連絡にあたった朝廷の職名)の広橋兼勝と勧修寺光豊が二条城に来訪。家康は彼らに、上洛の目的(将軍・徳川秀忠の名代として即位の礼の沙汰を行うこと。徳川家の祖・新田義重に鎮守府将軍、自らの父・松平広忠に大納言の官を贈ってほしいこと)を告げた。

家康の後者の要望は3月22日にかなえられ、新田義重に鎮守府将軍、松平広忠には権大納言が贈位された。

3月23日、家康は紫宸殿にて後陽成天皇と対面、家康は天皇に銀100枚などを献上した。その4日後に譲位が行われ、後水尾天皇が誕生する。

その頃、豊臣秀頼は大坂を発ち、淀に到着。家康の子息の義直・頼宣、池田輝政や加藤清正が秀頼を出迎える役目をした。

秀頼の上洛は、秀吉が亡くなった翌年の慶長4年(1599)正月、伏見から大坂に移ってから初めてである。秀頼が大坂を発つとき、その場所に「後光がさした」(『当代記』)という。

互いに上席を譲り合った家康と秀頼

3月28日。いよいよ、家康・秀頼対面の日である。秀頼は片桐且元(豊臣家臣)の京都屋敷で衣装を改め、二条城に入った。家康は庭まで降りて秀頼を出迎えた。これに秀頼は丁寧な礼を述べたという。家康がまず御殿に入り、秀頼を庭から御殿に上げた。


京都二条城の庭園(写真: えんさん / PIXTA)

家康は秀頼に、秀頼を先に「御成之間」に入れて、その後家康が登場。家康と秀頼が対等の立場で礼をしようと提案した。ところが秀頼はそれを固辞。家康が「御成之間」に参ることになった。お互いが上席を譲ろうとしたが、最後には秀頼が家康に上席を譲ったのだ。

美麗な料理でもてなすこともできたが、それではかえって打ち解けないと思い、料理は吸い物など簡素な食事が出ただけであった。

このとき、北政所も二条城に来ており、相伴した。秀頼から家康に、太刀・金子などが贈られた。家康は秀頼に鷹・馬を贈った。会見終了後、秀頼は豊国神社に参詣し、方広寺大仏殿の普請を見学してから大坂に戻る。

家康と秀頼の二条城での対面は、概ね次のように評価される。「この対面は秀頼の家康への臣従を思わせるものだった」「家康が秀頼を二条城に迎えて挨拶を行わせたことにより、天下に徳川公儀が豊臣公儀に優越することを知らしめる儀式であった」と。

確かに、家康は会見において秀頼に配慮をしている。「御成之間」に秀頼を先に入れようとしたこともそうだ。しかし、秀頼はそれを受け入れるわけにはいかない。立場は家康の方が上位だからだ。

家康もそのことはよく理解しており、自発的に秀頼が自ら(家康)に挨拶(拝礼)するよう仕向けたとも言えるだろう。

その一方で、このような見解を否定する向きもある。家康は秀頼を庭上まで出迎えている、これは最高の礼遇だ。「臣従の強制」などではないというのだ。

秀頼の家康への拝礼に関しても、秀頼が自発的に行ったものであり、臣従礼ではなく「舅に対する孫婿の、従一位(家康)に対する正二位(秀頼)の者の謙譲の礼」だとする。

二条城会見は、秀頼の家康の臣従、もしくは臣従を思わせるものだったのか。この問題を考えるうえで参考になるのが、同年4月12日の家康の行動である。

家康が諸大名に誓約させた3カ条の中身

同日後水尾天皇の即位礼が紫宸殿で執り行われたが、家康はそれを拝観。その後、家康は在京の諸大名(22名)を二条城に集め、3カ条を誓約させた。

それは「源頼朝以後、代々の将軍家が定めてきた法式を奉じ、江戸の将軍・秀忠の法度を堅く守ること」「法度に背き、また上意を違えた者は、それぞれの国に隠し置いてはならない」「抱え置く侍が反逆・殺害人であることを告げられたならば、その者をかかえないこと」という内容だった。

その3カ条は「慶長十六年の三カ条誓詞」と言われ、武家諸法度の先駆とも言われている。

細川忠興・池田輝政・福島正則・島津家久・黒田長政・松平忠直・藤堂高虎ら北国・西国の大名(ほとんどが外様大名)が誓約している。この三カ条誓詞に、豊臣秀頼は署名していない。

よって、秀頼はほかの大名とは「別格」であり、徳川の支配に組み込まれていないとも指摘できるだろう。

このことについても「三カ条の法令については、秀頼を臣従させるのが目的ではなく、全国の諸大名を臣従させるのが目的であった。そうすることによって、秀頼は間違いなく孤立する。婉曲的な方法ではあるが、効果は高かったと考えられる。ここにも秀頼を孤立させようとする、家康の周到な準備があった」との指摘もある。

臣従を余儀なくされたのではない

とはいえ、こう指摘する研究者でも「秀頼は別格であり、諸大名との扱いと異なる」との見解には「賛成」と述べている。

よって私は、二条城会見でもって、秀頼が家康に「臣従化を余儀なくされた」との理解は当たらないと考えている。

もちろん、そのことと、秀頼の孤立が深まろうとしていることとは別問題である。

(主要参考文献一覧)
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)