言うことがコロコロ変わる人とのコミュニケーションギャップはどうして生まれてしまうのか(写真:jessie/PIXTA)

考えるとは、「具体と抽象を行き来すること」とも言い換えられる。

大人でも、子どもでも、1日でも早く身につけるに越したことのない、読み書きそろばん以前に「標準装備」すべきものの見方であり、人間関係も勉強もよりスムーズに運ぶ力となる。本記事では、発売6週間でたちまち3万部を突破と、大反響の『13歳から鍛える具体と抽象』を上梓した細谷功氏がコミュニケーションで発生しがちな「なぜ言うことがコロコロ変わるのか?」という視点から、具体と抽象の鍛え方を説く。

言うことがコロコロ変わる人

みなさんの身の回りで「言うことがコロコロ変わる」人はいないでしょうか?

先週言ったことと今週言っていることがまったく違う、もっとひどくなると昨日言ったことと今日言っていることが180度違う、と言いたくなるような経験は誰にもあるのではないでしょうか。


「あっち」と言われた方向に黙々と向かっていたら、「やっぱりこっち」と言われて、それまでの努力がすべて水の泡になったなんてこともあるでしょう。

特にリーダーと言われるような人がそういう言動をすると、その下で動いている人が多い分、後戻りになり、作業すべてが水の泡になったりします。ただ皮肉なことに、リーダーや上に立つ人ほど「あの人の言うことはコロコロ変わる」と言われていることが多いようにも思えます。

これは、なぜなのでしょうか。その理由の一つは「具体と抽象」で説明できます。結論から言えば、言っていることがコロコロ変わって見えるのはものごとの具体しか見ていないからで、その裏にある抽象を見ることで、それらの根っこが一緒であることに気づくことができるのです。それは、「一つ一つすべてが違う」という具体の特徴と、「まとめて皆同じ」という抽象の特徴に起因します。

コミュニケーションギャップの原因とは

このような「具体と抽象によるコミュニケーションギャップ」を考えるうえでは、何が「同じ」で何が「違う」のか、について考えてみることが必要です。

これを説明する前に、実は話がコロコロ変わるのと同じメカニズムで起きる「言った・言わない問題」を具体と抽象の観点から見てみましょう。

ここでは話をわかりやすくするために、学校における先生と生徒の会話における「言った・言わない問題」を取り上げてみます。

ある日の放課後、先生が教室にやってきて教室の生徒たちに「今朝、放課後までに掃除用具をしまっておいてと言ったじゃないか! なぜ誰もやっていないんだ?」と少し怒り気味に言ったとしましょう。

でも生徒たちには掃除用具のことを言われた記憶はなく、友達同士で顔を見合わせてみても戸惑った表情をしているとしましょう。

勇気を奮い起こしたある生徒が「先生、僕たちそんなことは言われていません」と反論したとします。そこで先生は、「先生は確かに今朝そう言ったぞ」と言い、結局両者の間では「言った・言わない」の溝が埋まりませんでした。

このような「言った・言わない問題」はほとんどの人が何度か経験したことがあるのでは、と思います。原因が単なる「記憶違い」や「勘違い」で起きることも多いでしょうが、実は先生は確かにそのような言葉を発していて、みなさんも確かにその言葉を耳にしているのにこのような「言った・言わない問題」が発生する可能性があります。

ここでは、仮に誰かが先生の朝の言葉を録音していたとしましょう。

それを再生してみると、先生は今朝、生徒たちに「放課後までに教室をきれいに片づけておいて」と言っていたことがわかりました。ここでのポイントは先生が実際に発した言葉は「教室を片付けて」という言葉だったのですが、放課後に先生が「言ったはずだ」と思っていたのは正確には「掃除用具をしまって」という言葉でした。要は「教室を片付ける」と「掃除用具をしまう」は同じなのか違うのかということです。

言葉ってムズカシイ…

この話の構図を具体と抽象の関係で表現してみると、縦軸は具体と抽象の軸で、上が抽象で下が具体となります。

「末広がりの三角形」になっている理由は、抽象概念というのが複数の具体的事象を「まとめて一つ」と扱うところから来ています。ここでの具体と抽象の関係は「1:Nの関係」(一つの抽象に対して複数の具体が対応する)になっているということです。

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「教室を片付ける」と「掃除用具をしまう」の関係(『13歳から鍛える具体と抽象』より抜粋)

「教室を片付ける」と「掃除用具をしまう」は確かに文字通りの言葉としては違うかもしれません。ただし、「掃除用具をしまう」は「机と椅子を整列する」「教科書をしまう」「ロッカーを整理する」などと合わせて「教室を片付ける」ために具体的にすることの例になっています。

つまり、「教室を片付けて」という抽象の言葉を使った先生は当然その中には「掃除用具をしまう」ことも含まれているから、それも含めて「今朝言った」という認識になったのです。

このように、言葉には文字通りに口から発したこと(=具体)とその意味するところ(=抽象)という2つの意味があることになり、このような性質が「言った・言わない」というコミュニケーションの行き違いを生み出す原因の一つになっているのです。

この例から言えるのは、具体を見ている人は「すべてのものが違って見え」、逆に抽象を見ている人は「すべてが同じに見える」のです。

「すべてが違って見える」ということは、当然「先週言ったこと」と「今週言っていること」は違うし、「昨日言ったこと」と「今日言っていること」は違うのです。

先生と生徒の関係を上司と部下の関係に置き換えて、より仕事に近い場面での別の例を取り上げてみます。

上司が結局言いたかったことは何か?

たとえば上司から「この前作ってもらった資料だけど、○○に関連した用語を赤字に直してくれない?」と3日前に言われて提出したら、一昨日になったら「やっぱり下線を引いて」、さらに直して持っていくと今度は昨日になって「やっぱりフォントを変えて」と言われたとします。具体のレベルだけ見ているのであれば「赤字」と「下線」と「フォント変更」は「まったく違うこと」になります。ところがこの上司が言っていたことは、単に「当該の用語を強調して目立たせたい」のだということは少し考えればわかるでしょう。


「資料を見易く」と「文字を赤に」の関係(『13歳から鍛える具体と抽象』で使用した図を一部編集)

このように、「他人の言うことがコロコロ変わる」のを目にしたり耳にしたりしたときに、具体だけを見ている人は「いったい何を言いたいんだろう?」「混乱するな」とストレスに感じるかもしれません。ところが抽象的にものごとをとらえようと常に意識している人にとっては、これは本当に大事なことをつかむための絶好のチャンスと変わります。

ここでも具体だけを見ている人と「具体と抽象」を意識している人とでは毎日の過ごし方で圧倒的な差がついていくことがわかるのではないでしょうか。

実は「言うことがコロコロ変わる」は見えない大事なことを見つけるための絶好のチャンスだったのです。

私たちの言っていることは「時と場合等の状況によって常に変化する」(具体レベル)のに、それを言葉に表現した瞬間にあたかも同じものであるかのように「冷凍保存されてしまう」のです。この話は人の言うことがコロコロ変わる根本的なメカニズムそのものです。

別の切り口で考えれば、抽象レベルのメッセージは変わっていないのに、それは2週間前と今日では具体的には「同じように見えるもの」でも実は日々刻々と「違う」ものに変化しているという点で、具体と抽象との間にギャップで出てくるというわけです。

具体と抽象を自在に行き来しよう

たとえば、「あの人は去年A社の株を買ったほうがいいと言っていたのに、先月はB社だと言い、今月になったらC社だと言い出した。まったくコロコロ話が変わって困る」という発言は、さまざまな状況変化によって起こったことではあるものの、根っこにあるこの人の抽象としての投資のポリシーは、「有望な先端技術を持った会社を買収した会社を狙え」かもしれません。

さらに一般論として言えば、抽象としてのポリシーが「過去や前例にこだわらずに最新の情報をもって意思決定すべし」ということであれば、具体的に言っていることが朝令暮改に見えたとしても抽象としてのポリシーはまったくぶれていないと言うこともできます。

これはたとえば、上司や政治家の発言でも同じことが言えないでしょうか。「状況が変われば同じことは違うことになるかもしれない」というのも、具体と抽象がなせるわざだということです。

「朝礼暮改」という言葉がありますが、一般的に言えば、ものごとを具体的にとらえる人にとってみれば「言うことがコロコロ変わる」悪いことであり、抽象的にとらえる(「変化には迅速に対応すべし」)人には好ましいことととらえられるのではないでしょうか。

(細谷 功 : ビジネスコンサルタント、著述家)