筆者談「初対面での貫禄は“タモリさん”そのものだった」(撮影:尾形文繁)

モノマネ芸人として、23年目。自然な表情と話し方の“タモリさん”のモノマネで、一躍大ブレイクを果たしたのがジョニー志村さんだ。1972年12月25日生まれで、50歳を迎えた。

大学卒業後にはフリーター生活を経て、父の家業を継ぐも苦労の末に断念。28歳で心機一転、憧れていたモノマネの世界へ飛び込んだ

けっして、順風満帆だったとは言えない。しかし、亡き父の遺言「好きなことをやれ。自分の人生なんだから!」を信じて突き進み、ビッグチャンスをつかむことに。

キャリア22年目の冬。50歳を目前にした2022年12月17日に、大きな転機が訪れた。

人気番組『ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ』(フジテレビ系)で披露した自然な“タモリさん”のモノマネで大ブレイクを果たしたのだ。

*この記事のつづき:"タモリそっくり芸人"が教える「モノマネ」のコツ

所属事務所社長の一言で“タモリさん”に本腰を

28歳の活動初期から “タモリさん”のモノマネはレパートリーにあったが、当初は、同じくサングラスをかける井上陽水や松山千春、舘ひろしらの「モノマネメドレーのつなぎ」でしかなかった。

カツラを取り、オールバックで舘ひろしになりきる直前に「こんにちは、タモリで〜す。続いては、舘ひろし」とつぶやく程度。

本腰を入れたのは45歳だった2018年頃、所属事務所の社長が「タモさん、できるんじゃない?」と、背中を押した。


モノマネ芸人としてステージでも観客を沸かせる(写真:ジョニー志村さん提供)

年齢を重ねたのも功を奏して、若い頃よりも“タモリさん”に似た風体に。「ほうれい線を深く……」「眉毛を上げたほうが……」と細かく分析し、表情筋に覚え込ませた。

転機の『ザ・細かすぎて〜』では「テレフォンショッキングのゲストに来たとんねるず」として、『森田一義アワー 笑っていいとも!』終了後について“とんねるず”が“タモリさん”を問いただすくだりを再現。

こにわとあしべが扮する“とんねるず”の「足を引っ張らないように」と、1分ほどのVTRを何度も見返して、本番で披露した

「長い付き合いだよねぇ?」
「あ〜、ごぼ天うどん!」
「それは絶対言うなって」
「決まってないよ何も!」


の4つの台詞を身体へ落とし込んだ。

コツをつかんで以降は「普段の“タモリさん”の声がうまく出せるようになった」と、ジョニーさんはいう。

現在はキャリア23年目、50歳にしてテレビでも引っ張りだこの存在に。しかし、ここまでの過程では苦労もあった。

幼少期は「いたって平凡ながらも、幸せな家庭」で育ったと、ジョニーさんは振り返る。

父は会社勤務で、母は専業主婦。3人兄弟の長男として、幼稚園時代や小学校時代には、母から「あんたは口から生まれてきた」と呼ばれるほどおしゃべりで、明るくひょうきんな子どもだった。

影響を受けた父は「海のカリスマ」だった

家庭環境に変化が生まれたのは、小学2年生の頃。

若くしてスキューバダイビングに魅了された父が脱サラ、故郷の神奈川県・真鶴でスキューバダイビングの専門店を開業した。


本名は「志村序(はじめ)」。名前を「じょ」と音読みし、3人兄弟の「兄ちゃん」だったことが芸名「ジョニー」の由来に(撮影:尾形文繁)

「父は、酸素ボンベが日本で浸透していない時代に消火器を改造して自作のボンベを作っていたほど、海とスキューバダイビングに魅入られた男でした」

自身も海が「一番の遊び場」だった少年。影響を与えてくれた父は、スキューバダイビングのインストラクターを指導する「マスターインストラクター」の資格を持ち、日本での黎明期に潜水士の資格も取得していた実力者だ。

水難事故の際には、警察や海上保安庁からの依頼を受けて、不明者の捜索にもあたる「海のカリスマ」だった。

夢を叶えた父のスキューバダイビング専門店には、毎夏、父を慕うお客さんが足繁く通うように。

のちに、このお店がジョニーさんの人生を大きく変えるきっかけとなった。

小学校ではすでに、友達を「モノマネ」で笑わせていた。当時のモノマネ番組では “ものまね四天王”がお茶の間を沸かせていた時代。

放送翌日の休み時間には「昨日、面白かったよねぇ」と友達と他愛ない会話をして、テレビで見た「モノマネのモノマネ」を嬉々として披露していた。

学生時代が「モノマネ芸人」の原点に

いかなる場所でも明るく、いわば「陽キャ」の性格は変わらず。中学校や高校でも、モノマネを披露するジョニーさんの周囲は、常に笑顔があふれていた。

「中学時代は、先生や友達のモノマネを。高校時代はバンドブームでしたし、THE BLUE HEARTSのコピーバンドでヴォーカルを担当して、甲本ヒロトさんの表情や動きも研究しました」

得意な「歌マネ」のレパートリーにあるBOØWYの氷室京介、HOUND DOGの大友康平、THE BLUE HEARTSの甲本ヒロトは、青春時代の名残り。当時、「大勢の前でのパフォーマンスに、快感を覚えた」と振り返る。


得意の氷室京介に扮する際は“魂”の歌声を響かせる(写真:ジョニー志村さん提供)

大学時代には拍車がかかり、サークルやゼミの飲み会では行きつけの居酒屋で「ちょっとしたステージ」に立った。

「帽子を被り、サングラスをかけるとチャゲさんそのもの」と太鼓判を押す親友と、チャゲ&飛鳥を熱唱。自身は“飛鳥”に扮していた。

衣装や小道具にもこだわり、同窓生だけではなくお店の常連も沸かせた。

見ず知らずのサラリーマンの方からおひねりをいただくほど、ちょっとしたお店の名物でした。店員さんも協力的で、スタンドマイクを用意してくれたし、出番になると照明も工夫してくれて。わざわざトイレでダブルのスーツ、ハイネックのシャツに着替えて、飛鳥さんになりきっていました(笑)」

チャゲ役の親友は現在、一部上場企業の社長に。今もたがいに「お前も頑張っているから、俺も頑張れる」と励まし合っているという。

モノマネで人を沸かせる「快感」を覚えつつも、大学卒業後は一般企業への就職を決意。

就職活動では無事に内定をゲットしたが、バブル崩壊の煽りを受けて入社前に内定先の企業が倒産

28歳まではやむなくフリーター生活を送り、警備員、コンビニ、ガソリンスタンド、飲食店、夜の接客業……と、仕事を転々とした。

父とその仲間が愛したお店を、約5カ月で閉店

2000年6月、転機が訪れる。28歳だった当時に、父が急逝。故郷の真鶴で、父が経営していたスキューバダイビング専門店を継いだ。

「大学卒業後、家業を継ぐ選択肢もあったんです。でも、苦労を知っていたからか、父は『継がせたくない』と言っていました。急逝した当時はちょうどレジャーシーズンにさしかかる直前で、僕は『ノウハウがないし、できない』とも思ったけど、父を慕う人たちの熱意も受けて継ごうと決めました」

スキューバダイビングのベストシーズンは、7〜10月にかけてとされる。

すでに6月であったため、未経験のジョニーさんは父の仲間に指導を受けて「素潜り」から猛練習

地元の商売敵に嫌がらせを受けるトラブルに出くわしながらも、父の兄にあたる叔父、母、そして、父を慕う人たちに支えられながら、慣れない環境で経営に奔走した


父の家業を継いだ当時の苦労を真剣な表情で語る(撮影:尾形文繁)

しかし、現実は甘くない。海を相手にするスキューバダイビングは、客の命にも関わる。「父の苦労」が身に染みた約5カ月間を経て、自身も愛着あるお店をたたもうと決めた。

「スキューバダイビングの仕事は『人の命を預かる仕事だから、大変だぞ』と生前、父がよく言ってたんです。周囲には『継いでほしい』と漏らしていたようだけど、きっと、苦労を背負わせたくなかったのだろうと。僕に対しては『こんな仕事じゃなく、好きなことをやれ。自分の人生なんだから!』と力説してくれました」

父に追いつこうとしても、自分には「無理」だと悟った約5カ月間。

しかし、当時の経験がなければ、憧れていたモノマネの世界へ飛び込むことはなかった

父から継いだスキューバダイビング専門店の閉店を決定。

当初あったはずの「覚悟」や「自信」をなくしたジョニーさんは、「真剣に将来を考えなければ」と思った。

28歳の冬、テレビで見たのが「ものまねできる人、大募集!」の文言。「自分の好きなことはやっぱりコレだ!」と直感した。

「お店の最終営業日に、常連客や関係者の前で『僕はモノマネ芸人になります!』と宣言して。でも、『絶対に無理だ。現実的じゃない』『何考えてるんだ。バカなの!?』と、猛反対の嵐でした(笑)」

愛あるがゆえの猛反対。

それでも突き進む原動力になったのは、父の遺言「好きなことをやれ。自分の人生なんだから!」、そして、背中を押す母の優しさだった。

「研究、練習、ネタ披露」のサイクルに

初めて参加したモノマネ番組のオーディションでは緊張もありながら、実力ある参加者を見て、ジョニーさんは「みんな夢を持ってここに来ているんだ!」とワクワクした。


初参加のオーディションで、モノマネ仲間との輪も広がったという(撮影:尾形文繁)

オーディションでは、参加者が次々とモノマネを披露。スターを目指す参加者たちのレベルに「驚く」と同時に、不合格ではありながら「もう少し頑張ればいけるかもしれない」と手ごたえもつかんだ。

「オーディション後はとにかく、研究と練習をしました。いろいろなアーティストの歌マネがやりたかったので、たくさん聴いて、カラオケで歌い込んで動画配信のない時代でしたし、ライブDVDを飽きるほど見返して、表情や仕草を刷り込みました

同じくしのぎを削ったモノマネ仲間とも交流を深め、不定期出演していたショーパブの営業で実践。

当時の経験で「研究、練習、ネタ披露」のサイクルが、徐々に身体に染み付いた

29歳の頃、仲間から茨城県で「モノマネ芸人がテレビ出演するチャンスがあるかもしれない」と聞き、神奈川県在住であったが茨城県へ引っ越そうと決意。

きっかけを同じくして、交際していた彼女との「結婚」も決断した。

「茨城県へ行くとなって別れるか、遠距離恋愛か、付いてくるかの3択になって、『付いていく』と言ってくれたのがきっかけで決断したんです。モノマネ芸人として一旗上げるのは一か八かの無謀な夢でしたけど、信じてくれたからには『安心させたいし、幸せにしなければ』と覚悟して、30歳で入籍しました」

しかし、結婚した当初に「妻は、モノマネが大嫌いだった」と明かしてくれたのは意外だ。

「モノマネの意義がわからない。本物を見ればいい」と妻に言われ、「別人が本人を演じて、いかに似ているかが面白い」とジョニーさんは何度も説得。

今や「一番厳しい審査員」と称するほどの“最大の理解者”になり、ブレイクのきっかけとなった“タモリさん”をはじめ、モノマネの研究中にアドバイスもくれるという。

父の遺言を胸に「やりたいからやる」を貫く

あるテレビ局員によれば、モノマネ芸人は全国で“700人”ほど。地方のショーパブなどで活躍するモノマネ芸人も含めれば、それ以上となるのは想像にたやすい。

主戦場のひとつであるモノマネ番組でも、モノマネ芸人が占めるのは出演者の“6割”で、残りの“4割”はお笑い芸人など。

ブレイクのチャンスをつかんだとしても、露出しつづけるのは“狭き門”だ。


番組の「コーナーレギュラーを持つ」のも夢だという(撮影:尾形文繁)

ジョニーさん自身も、熾烈なモノマネ業界で「輝きを放ちつづけるのはなかなか難しい」と痛感。それでも、モノマネ相手への敬意を込めて「できるからやる」のではなく「やりたいからやる」のスタイルを貫く覚悟だ。

いつか「代表的なモノマネ芸人を10人挙げてください」という質問で、必ず「ジョニー志村」と言われるように。

父の遺言「好きなことをやれ。自分の人生なんだから!」を胸に、今日も自身の芸を磨きつづける。

*この記事のつづき:"タモリそっくり芸人"が教える「モノマネ」のコツ

(カネコ シュウヘイ : 編集者・ライター)