アンガールズの田中卓志さん (c)新潮社写真部

真面目すぎる性格なのにふざける仕事を志し、第一印象が「キモい」だった山根さんとコンビを組み、港区女子合コンの悔しさをバネにめでたく結婚。人気芸人の悲喜こもごも(悲、強め)の日常は、クスリと笑えて妙に共感。

そんなアンガールズ田中さんの初エッセイ集『ちょっと不運なほうが生活は楽しい』より「ブレイクはしたもの」を抜粋してお届けします。

最近、テレビタレントの人が心労で休業するニュースを時々見る。そういうニュースを見ると、自分が若手芸人の頃に経験した出来事を思い出す。

今から15年くらい前の話。僕が相方の山根とアンガールズというコンビを組んでから、4年目のことだ。

「売れていない芸人」としてオーディションを受ける

当時、「爆笑問題のバク天!」というテレビ番組があって、その中に、売れていないお笑い芸人が出る新コーナーが出来るというので、僕たちはオーディションを受けることになった。

そのコーナーの意図が、人気お笑い番組の「エンタの神様」に出られない、とにかく変な芸人が出るというものだったので、僕たちはショートコントのジャンガジャンガのネタを持っていった。

恥ずかしいけれど、ジャンガジャンガのネタを一応説明するとすれば、道端で人がすれ違う時に、ぶつかりそうになって避けようとしたら、同じ方向に避けてしまってグズグズになったりするような、日常生活で微妙な空気が流れてしまった瞬間を切り取って、ジャンガジャンガと言いながら強引に落とす、というもの。

ただ、そのネタは自分たちは好きだけど、先輩のお笑いライブに出た時に600人のお客さんの前でダダ滑りしていたので、全く自信が無かった。でも変なネタであることは間違いないので、オーディションに持って行ってみたら、合格してしまった。

ゴールデンの番組に出るのが初めてだったので、正直こんなネタを流して大丈夫かなと思っていたが、本番ではスタジオにいる爆笑問題さんや、ネプチューンの名倉さん、ふかわりょうさんら先輩方が、めちゃくちゃ笑ってくれた。そしてすぐにその番組から「こないだみたいなショートコント、沢山作って!」とオーダーが来て、それからは番組で毎週、ジャンガジャンガをやることになった。

お笑いブームの波に乗り、番組に次々と出られるように

それまで、深夜番組には何度か出たことがあったけれど、ゴールデンの番組のパワーは凄まじかった。僕たちはお笑いブームの波に乗って、「笑っていいとも!」や「アッコにおまかせ!」、「踊る!さんま御殿!!」など、それまで出られるはずがないと思っていた番組に次々と出られるようになった。

「エンタの神様」に出られない芸人というコーナーで出て来たのに、「エンタの神様」にも毎週出られるようになった。ジャンガジャンガは流行語大賞にノミネートされたり、女子高生に「キモかわいい!」と言われたり、何もかもが変わった。

同時に、今まで自分の人生で感じたことのない、重苦しいプレッシャーという冷たいコンクリートを、背中にドンッと乗っけられた気がしていた。

4年目でブレイクというのは芸人にとってかなり早い方で、当然実力に関しては全くというほど無い。トーク番組やリアクション番組に他の芸人さんと一緒に出ると、明らかに自分の実力不足を感じた。

もちろん、芸歴4年以内で売れてもトークやリアクションが面白い人はたくさんいる。けれど、自分には何もかもが足りていない。

コントだけやっていれば芸人としてなんとか誤魔化せていたメッキみたいな輝きが日に日に剥がれて、自分が追い詰められていった。

そして、4年の間に溜めてきたネタも底をつくことになる。「エンタの神様」の収録が明日に迫っているのに、披露するネタがまだ出来ていないという状態になり、前日に一人でファミレスに籠ってネタを考えていた。

深夜0時………1時……………2時、まだ案が浮かんでこない。3時を過ぎた頃にやっとアイデアが浮かぶ。

しかしアイデアが浮かんでも、それをまとめていくのに眠くて頭が回らない。今日の収録が何らかのハプニングで無くならないか? という気持ちが浮かんできては、そんなことあるわけがないと、逃げ道が全くないことに気が付く。

4時を過ぎ、空が白くなってくるのが地獄の幕開けに感じられた。朝5時にようやくネタが完成して、それを山根のところにFAXで送り、家で必死に覚える。そのあと9時にテレビ局に集合、ネタ合わせをしてリハーサルをして、昼過ぎにはお客さんの前で本番。

頭にネタがちゃんと入っていないから、セリフもカミカミ、カミカミだけならまだしも、本番中なのにセリフが飛んだ。お客さんも、何が起こってるの? という空気になりざわつき出す。

これはまずいとディレクターさんが判断して、収録中なのに急遽幕を閉めてもらった。

舞台裏でセリフをもう一度チェックして、やり直しをさせてもらったけれど、それでもまたセリフが飛んで、グズグズのままネタが終了。

お客さんが帰った後に残り、撮り直しをさせてもらった。

落ち込んでいる暇もなく、そのまま他のテレビ局の収録に行って、トークで全く活躍できないまま一日が終わる。

実力がないままブレイクする怖さ

なんとか実力を誤魔化せていたネタでさえもクオリティが出せなくなって、どうしていいかわからなくなった。

ただ、実力がないままブレイクするというのは怖いもので、滑っても仕事はまた来る。その仕事でまた滑る。

出口の見えない状態が1ヶ月くらい続いて、何もかもが楽しく感じられなくなった。

そんな時に、マネージャーさんから「今度、雑誌で対談する仕事がはいってるんだけど、相手を選べるみたいで、希望ある?」と聞かれた。

先輩芸人さんとか、俳優さんとか、ミュージシャンとか考えたけれど、今そういう人たちに会っても楽しく喋れる自信がなく、ふと思いついたのが、蛭子能収さんだった。

僕は蛭子さんの漫画が好きで、当時はバラエティを観ていても芸人さんを見たら仕事のことを思い出して心から笑えなかったけれど、蛭子さんのことは漫画家として見られるので、素直に笑えていた。

ただ、路線バスの旅で大人気になる前の蛭子さんなので、対談したいと言ったら、「え? なんで?」とマネージャーさんに不審がられた。まあ、そうだろう。

ありがたいことに蛭子さんからもオッケーが出て、無事に対談は実現した。渋谷にあるルノアールの貸会議室で待っていると、しばらくして蛭子さんが到着した。 

僕は直に会うのが初めてだったしファンなので、緊張しながら、

「すみません、田中です。今回、対談を受けてくださってありがとうございます」

と言うと、蛭子さんは、

「へへへ、まぁ僕はギャラがもらえれば何でもいいから」

とニヤニヤしながら答えてくれた。おかげで緊張が解れたのを覚えている。

それから漫画のことを色々話して、僕は今の悩みを蛭子さんにぶつけてみたくなった。

最後に、ちょっといいですか? 僕は毎日、仕事で滑っているんです。でもブレイクした勢いだけはあるから滑っても仕事が来る、どうすればいいかわからないです、と……。

今考えたら、なぜそんなことを芸人でもない蛭子さんに聞いたのかはよくわからないし、そもそも、そんな悩みを持っていることを知られるのが恥ずかしくて、誰にも言いたくなかった。

でも蛭子さん自身が、ギャラがもらえれば何でもいいとか言ってしまえる、心のガードがゼロな人だから、こちらも心のガードがついつい緩くなってしまったんだと思う。

「そもそも世の中の人、そんなに見てないよ」

僕が質問すると、蛭子さんは「う〜ん」と5秒くらい考えて、

「僕はね、以前、競艇雑誌とエロ雑誌で、同時期に漫画の連載をやってたの。で、たまたま、その両方の締め切りが一緒に来ちゃって、大慌てで漫画を描いて封筒に入れて編集部に送ったんだけど〜、1週間くらいして、あーっ! と気づいたんだけど〜、競艇雑誌の方にエロ漫画を送って、エロ雑誌の方に競艇漫画を送ってたの。やばいな〜? って思って焦ったんだけど、誰にも何にも言われないからその雑誌を立ち読みしてみたら、両方ともそのまま掲載されてたんだよね〜。だから田中君も滑ったとか気にしてるけど、そもそも世の中の人、そんなに田中君のこと見てないよ」

と言った。

一瞬、腹の立つことを言われたような気がしたけれど、確かに人の目を気にしすぎていた自分にも気づいた。よっぽどのファンじゃない限り、どこで誰がどのくらいウケて、どのくらい滑っていたかなんて、覚えていない。

僕は、1回滑ったら、全国民がそのことを覚えているのではないかと思ってしまっていた。蛭子さんの言葉で、この1ヶ月の悩みがパッと晴れて、気持ちが落ち着いた。

蛭子さんはその時、七福神の恵比寿さんのように神々しく輝いて目の前に座っていた。

それからは滑っても気にしすぎず、できることをまずしっかりやろうという気持ちになり、仕事を少しずつ楽しめるようになっていった。

この対談がなかったら、僕はプレッシャーに潰されて、芸能界からリタイアしていたかもしれない。

それから10年が経ち、蛭子さんと二人でドライブをするという仕事があった。

二人きりでガッツリ喋るのは対談した時以来だったので、その時に助けてもらったことを10年ぶりに打ち明けてみた。

「蛭子さん、僕ね、実は蛭子さんが心の恩人なんですよ」

「え? 僕が? 何で?」

「10年前に対談した時に、蛭子さんが僕に言ってくれたことがあるんです」

「え? 対談なんてしたっけ?」

「……。えっ……」

10年ぶりの会話は全く噛み合わなかった

蛭子さんは、そもそも僕と対談したこと自体覚えていなかったし、その時言ってくれたことに感謝しているんですと伝えても、へ〜そんなこと言ったのか〜全然覚えてないな〜と答えて、全く噛み合わなかった。今思い出しても笑ってしまう。

その日唯一噛み合ったのは、たまたま、僕も蛭子さんもオレンジ色のVネックのセーターを着てきたこと。


ロケでは蛭子さんが僕の似顔絵を描いてくれて、その絵は部屋のリビングに飾った。

それが、6年前の話。

先日、蛭子さんが軽度の認知症になったというニュースを見た。

認知症になる前から、僕との対談のことを忘れていたくらいだから、多分、蛭子さんは今聞いても「そんなことあったっけ?」と僕の似顔絵を描いたことも、同じ色のセーターを着ていたことも忘れてしまっているかもしれない。

「そもそも世の中の人、そんなに君を見てないよ」

もし蛭子さん自身がこの話を忘れてしまったとしても、あの時の僕のように必死にもがく誰かがこの言葉に救われることを願いながら、この文章を書いている。

(田中 卓志 : お笑いタレント)