毎日多くの人でにぎわうJR山手線・渋谷駅前のスクランブル交差点(筆者撮影)

渋谷駅が開業したのは1885年3月1日で、後に山手線となる品川―赤羽間の開業と同日であった。当時の渋谷は、大山街道に沿った今の円山町周辺が江戸時代の宿場町の流れを汲んで栄えていたが、まだまだ田畑も残っていた。

1889年に東京が市制を敷いた時も市域には含まれず、南豊島郡渋谷村(後に渋谷町)となっている。東京市に編入され、渋谷区が誕生したのは1932年だ。

私鉄各線の乗り入れで変貌

現在の大繁華街成立へ向けて渋谷が変わり始めたのは、国有鉄道以外の鉄道が渋谷駅に乗り入れ、ターミナル駅として人の流れが集まりだしてからだ。1907年にまず開業したのが、渋谷―玉川(現在の二子玉川)間の玉川電気鉄道。建設目的は多摩川の川砂利の運搬だった。

当時の山手線渋谷駅は、後の埼京線旧ホーム付近に乗り場があったので、この鉄道も道玄坂の途中からまっすぐ山手線の線路に向かい、急カーブで南へ曲がって渋谷駅に乗り入れる形になっている。

この鉄道は1938年に東京横浜電鉄(現在の東急電鉄)に合併。玉川線となって通勤通学路線に転じた。渋谷マークシティのバスターミナルから道玄坂上交番前交差点に出てくる道路付近が、「玉電」と呼ばれた路面電車、玉川線のわずかな名残である。

これに対し、東京市電(現在の都電)は1911年に青山から路線を延ばしてきて、宮益坂下交差点付近に停留所を設けた。さらに1923年には山手線の下をくぐって、現在のハチ公前広場の位置を終着としている。


玉電が路面へ出る地点だった渋谷マークシティ出口(筆者撮影)

東京横浜電鉄東横線渋谷駅が開業したのは1927年。1933年には帝都電鉄(現在の京王井の頭線)も乗り入れた。東横百貨店(後の東急百貨店東横店東館)の開業は1934年である。

1938年には玉電ビル(後の東急百貨店東横店西館)が完成し、その2階に玉川線、3・4階部分には東急系の東京高速鉄道(現在の東京メトロ銀座線)が乗り場を設けた。なお、渋谷のシンボル「忠犬ハチ公」が渋谷駅に通っていたのは、1927年頃から死亡する1935年までだ。


明治通りの上へ移転した東京メトロ銀座線渋谷駅(筆者撮影)

東の宮益坂、西の道玄坂に挟まれた狭い谷底を、高架構造で山手線が通されたため、各鉄道とも周辺の丘陵地をトンネルで抜けて、ほぼそのままの高さを保って渋谷駅へ到達するような線形になった。銀座線とて例外ではなく、2020年に東側の明治通りの上へ移転した現在も、地下鉄らしからぬ高架駅のままである。

こうした交通網は、約90年を経て、ほぼすべてが大きく姿を変えた。

1969年廃止の玉電の後身は現在の東急田園都市線で、1977年に新玉川線として地下駅が開業。翌年から営団地下鉄(当時)半蔵門線との相互直通運転を実施している。1997年には井の頭線渋谷駅が改良工事により、現在地に移転した。2008年に東京メトロ副都心線が開業し、2013年に地下化された東急東横線と相互直通運転を始めている。JR渋谷駅改良工事が始まったのは2015年だ。

人が集まりやすい地形

水の流れのように、渋谷は人が集まりやすい地形であったと言える。今は暗渠になっている隠田川と宇田川が合流し渋谷川となっていたのが、今の宮益坂下交差点付近にあった宮益橋だった。宮益の地名は、坂の途中にある御嶽神社に由来する。元は富士見坂と言ったが、江戸時代に「お宮の利益を願って」町の名が宮益町となったのを受けて宮益坂と呼ばれるようになっている。古くは職人の町であった。


宮益坂の地名の由来となった宮益御嶽神社(筆者撮影)


落ち着いた雰囲気もある宮益坂(筆者撮影)

山手線に沿った宮下公園は、御嶽神社の北側にあった、皇族の一つ、梨本宮の屋敷の下であったため町名が宮下町になり、公園の名にもなった。

2011年に再整備され「MIYASHITA PARK」に生まれ変わっている。大きく変貌しつつある渋谷の中で、わずかながらも変わらぬ盛り場の風情を残しているのが、その南側の「のんべい横丁」だ。戦後、渋谷川沿いの狭い土地に、空襲で焼け出されて闇市に集まっていた飲食店が移されたのが始まりである。


古い面影を残すのんべい横丁(筆者撮影)


商業施設との複合になった「MIYASHITA PARK」(筆者撮影)

青山へつながる、どちらかと言えば落ち着いた街並みになっている宮益坂周辺に対し、西側の道玄坂とその北の渋谷センター街、宇田川町一帯が、若者の街・渋谷を代表するエリアである。日本一有名な交差点かもしれない渋谷駅前のスクランブル交差点に始まり、渋谷のイメージを形作っている一帯だ。駅東側ながらも、渋谷の新しいランドマークが「SHIBUYA SCRAMBLE SQUARE」と命名されたところにも、文化の波及が感じられる。

いちばんにぎわう道玄坂一帯

今日の渋谷文化の中心地に位置しているのが、東急に対抗する形で進出してきたセゾングループであるのが面白い。西武百貨店の開店が1968年。渋谷PARCOは1973年にオープンした。ここから熾烈な開発競争が始まる。

2023年に再開発のため閉店した東急百貨店本店は1967年の開店。さらに1978年には現在のハンズ渋谷店や、1979年には現・SHIBUYA109もオープンしている。従来型のターミナル駅に併設された駅ビルデパートを中核とする、阪急の小林一三に始まる「私鉄型経営戦略」が町全体へ、さらに自社の鉄道がない町へも広がり、大きく方針を変えたのは渋谷からとも言えそうだ。


渋谷の繁華街の中心地道玄坂(筆者撮影)


渋谷文化の発信地となった渋谷パルコ(筆者撮影)

今でも渋谷は中高生から20代あたりまでの若者に支持されており、休日ともなると若いエネルギーに満ちあふれている。ただ、再開発が進捗するに従って雑然とした雰囲気は徐々に消えており、むしろ一部では高級感すら感じられる町になっているかもしれない。


渋谷のイメージを形作る渋谷センター街(筆者撮影)

田園調布や自由が丘といった東急電鉄沿線のイメージが渋谷にまで波及してきているようだ。かつての渋谷の雰囲気は、今ではむしろ下北沢や裏原宿あたりが受け継いでいる。

改良工事が進む渋谷駅 

JR渋谷駅の改良工事もかなり進み、埼京線・湘南新宿ラインホームの移設と山手線ホームの島式化で、基礎的な部分の将来像が見えてきている。今後は周辺の再開発ビルとの連絡が完成すると、地形にとらわれない、立体的になった渋谷の姿が現れるだろう。


「SHIBUYA SCRAMBLE SQUARE」は新しい渋谷のランドマーク(筆者撮影)

ただ、人の流れが人工路盤に支えられているだけでは面白くない。

2023年4月には、渋谷1・2丁目の宮益坂エリアも「都市再生特別地区」に決定した。ほかの地区でも述べているが、超高層ビルを林立させるだけで、果たして街の個性、街の文化が生まれるのかどうか。

10月末のハロウィンの時期、渋谷には仮装した若者であふれていた。しかし、路上での飲酒などが条例で禁止され鎮静化している。弊害も大きかったのでやむを得ない部分もあっただろうが、路面のよさがあればこその文化。忘れないでほしいところだ。


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(土屋 武之 : 鉄道ジャーナリスト)