(写真:CORA/PIXTA)

厳しい競争社会で誰もが勝者になれるわけでもない時代をどう生きればいいのか――。松浦弥太郎さんが提案するのが「エッセイストという生き方」です。エッセイを通して日々の暮らしや自分自身との向き合い方を考える書籍『エッセイストのように生きる』より、一部抜粋・再構成してお届けします。

言いたいことは「ひとつ」だけ

「伝えたいことを、ひとつだけ」。これは『暮しの手帖』時代から、編集部員やライターの人にことごとく言いつづけてきたことです。

人は、いろいろな情報を知ったり、見たり、聞いたり、感動したりすると、なるべくその多くを書きたくなるものです。あれもこれもと伝えたくなるし、伝えなくてはと使命感を持ってしまうところもあります。

しかし、そういう文章は「説明文」や「情報のパッケージ」になってしまいがち。いちばん伝えたいメッセージが伝わらないものになってしまいます。読み手にとっても、役には立つけれどおもしろくないエッセイになってしまうでしょう。

ですので、いちばん伝えたいことを、ひとつだけ。手の中にたくさんのすてきな情報を持っていても、その中のどれかひとつだけを選び取って書くのです。ほかの要素は思い切って捨ててしまう。

そしてその「ひとつ」について、深く深く書いていきます。

同じ文章にいろいろな要素が詰め込まれていると、すべてが同じ強さ、同じ大切さで並んでいるように見えてしまいます。

ケーキについてエッセイを書くとして、「これはおいしかった、あれもおいしかった、それもおいしかった」と書けば、「全部同じくらいおいしかったんだな」というふうに伝わってしまうでしょう。すると読み手は、「おいしいケーキの情報をたくさん得られた」という淡々とした読後感を持ってしまいます。

そうではなく、ひとつの「とびきりおいしいケーキ」について自分が抱いている愛情や、おいしさについて徹底的に書く。そのケーキが持っている「秘密」を見つけて書く。すると読み手もその熱量に動かされ、もっと没入できるのです。

「詰め込みすぎ」が多い傾向

時おり一般の方のエッセイを読んでみると、傾向としては、「詰め込みすぎ」が多いように思います。文章についてアドバイスを求められるときも、「いろいろあれこれと書きすぎているので、どれかひとつに絞りましょう」と言うことは多いです。読み手はあなたがいちばん伝えたい「ひとつ」についてもっと知りたいんですよ、と。

この「ひとつ」についてのとびきりの例が、向田邦子さんの有名なエッセイ「字のない葉書」です。

この作品は戦時中の家族の様子を描いたものですが、主題は戦争ではなく「お父さんの愛」。日頃はふんどしひとつで家の中を闊歩し、大酒飲みで妻と子どもたちに手を上げるようなお父さんですが、筆まめで手紙の中だけでは優しかったと言います。

そして、向田邦子さんの下の妹さんが、甲府へ疎開したときのこと。

父はおびただしい葉書に几帳面な筆で自分宛の宛名を書いた。
「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい」
と言ってきかせた。妹は、まだ字が書けなかった。
(『新装版 眠る盃』所収、講談社)

はじめは大きなマルが書かれて届いた葉書でしたが、次第にマルが小さくなり、そしてバツになり、ついにバツの葉書もこなくなります。そして身体を壊した妹をお母さんが迎えに行くことになりました。

夜遅く、出窓で見張っていた弟が、
「帰ってきたよ!」
と叫んだ。茶の間に坐っていた父は、裸足でおもてに飛び出した。防火用水桶の前で、痩せた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。(同) 

「お父さんは子どもを深く愛していたから、あんなに泣いたのだ」とは書かれてはいません。でも、向田邦子さんが書きたかった「ひとつ」が伝わってきませんか。ひとつだけだから、強烈に伝わってくるのです。

もしここに戦争の悲惨さや理不尽さ、疎開していない自分たちの生活の不自由さといったほかの話が入り込んできたら、きっとぼやけたエッセイになってしまっていたでしょう。

あなたが選んだその「ひとつ」こそが個性

とくにインターネット上に文章を書くと字数制限がありませんから「あれもこれも」になりがちです。

しかし、「せっかくだから入れてしまおう」は、読み手にとってじゃまな文章であることが多い。「自分はいま、この『ひとつ』について書きたいんだ」とたしかめてからキーボードに指をおろしましょう。

エッセイとは、情報ではありません。秘密を語った告白文です。

「あれもこれも」ではなく、ひとつに絞る。広さではなく深さを目指すことです。

あなたが選んだその「ひとつ」こそが個性であり、「視点」であり、そのエッセイのおもしろさのです。

自分がとくに詳しいジャンルは、エッセイのテーマには向いていません。
誰も知らないであろう自分だけが知っているようなことはつい教えたくなるし、いいエッセイが書けるような気がしてしまうものですが、ぐっとがまんします。

なぜかというと、「わかっている人が、わかっていることを書いている文章」はとてもつまらないからです。

「自分がよく知っていること」は、すでに自分は答えがわかっているということです。なにがすごいのか、どんな魅力があるのか、そもそもどういうものなのかといった「秘密」がわかりきっている。

そこまで到達できたことはすばらしいのですが、エッセイストとしてはあたらしい発見がないまま書くということになります。たとえば「器のお店が教えるいいお皿の選び方」のように、自分にとって自明のことを紹介する「情報」や「説明」になってしまう。

エッセイとは、いわば感動のレポートです。自分が見つけた発見に自分で感動して、それをレポートして伝えるもの。「わかった!」までのプロセスがあるからこそ、いいエッセイは書けるのです。

「これについてはもっと詳しくなるまで書いちゃいけない」と考える人が多いのですが、じつはまったくの反対なんですね。

むしろ、「詳しくなるまでの途中」こそがエッセイの宝庫です。

「詳しい」と言えることはうまく書けない


僕自身、クラシックカーやギター、本など「詳しい」と言えることはいくつかあります。でもそういうものについては、ふしぎなほどうまく書けません。書くことが決まりすぎていて、論文のようにかたくなってしまうのです。

それはやはり、その対象について知り尽くしてしまってあたらしい感動がないまま書くからですね。感動がないと、説明になる。せっかちで、味気ない文章になります。

マラソンについてエッセイを書いたこともありますが(『それからの僕にはマラソンがあった』筑摩書房)、あれは走りはじめのころだったから書けた気がします。いま走ることについてあのようなおもしろいエッセイが書けるのか、ちょっと自信がありません。

だからもし「ギターについてエッセイを書いてください」と依頼されたら、断るか、ギターそのものではなく「ギターにまつわるエピソード」を書くでしょう。

感動のプロセスがないものについては、書かない。

逆に言えば、なにかに出会ったり、なにかを自分がはじめたときはいちばん感情が動くときですから、「書きどき」なのです。

(松浦 弥太郎 : エッセイスト)