「時間」は年齢とともに変化する

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新年を迎えたのはつい先日のようだが、早いもので1か月余りが過ぎた。

光陰矢の如し。

「光」は日、「陰」は月。直訳すると、月日が過ぎるのは飛ぶ矢のように速いという意味だが、これが格言たる所以は、単に「時が経つのは早い」ということではなく、「月日は放たれた矢と同様、戻って来ることはない(だから日々を無為に過ごしてはならない)」という戒めが込められているところにある。

困ったことに、この月日という矢は本物の矢と違い、放たれた後に加速を続けながら飛ぶ。まるで「時間を無為に過ごすまい」という薄弱な意志をあざ笑うかのように。

なぜ加速するのだろうか。

僕は昨年末に87歳の誕生日を迎えた。いわゆる「物心」が付き、日々の出来事が後々まで記憶に残るようになった年齢が仮に7歳だったとしよう。この場合、たとえば17歳当時の僕にとって、過去の記憶の「全長」は10年間だ。その中での1年間は、全体の1割、10分の1を占める。

他方、87歳になった現在の僕にとって、過去の記憶の全長は80年。その中での1年間は、全長に対する80分の1。17歳当時は全体の10分の1を占めていた1年間が、今や僅か80分の1になっている。

このように考えると、年月が加速度的に過ぎるように感じるのは当然だ。この考え方は19世紀のフランス人哲学者ポール・ジャネが考案し、「ジャネの法則(ジャネーの法則)」と呼ばれる。

余談だが、この法則をその著書で紹介したのがポールの甥であるピエール・ジャネ。古代ギリシアで「傷」を意味した語を「心的外傷」という比喩的な意味に転用して、今や日本語としても定着した「トラウマ(trauma)」という語を広めたフランスの心理学者だ。

話を戻すと、この加速して飛ぶ「時の矢」については加齢や老化という観点、特に高齢者の観点からは別の考察も成り立つ。

高齢になるにつれ体の動きは加速度的に遅くなる。僕の場合、たとえば以前なら5分の早歩きで行くことのできた場所が、今では徒歩10分以上かかる場所になっている。以前なら5分でできたことが、今や10分以上の時間を要する。あるいは、いくら時間をかけてもできなくなる。仮に、以前と同じことをするのに倍の時間が必要になると、同じ時間内でできることは半分に減る。以前は半日でできたことに1日を費やすようになれば、やはり時間は早く過ぎたと感じる。

ここまでは過去や現在の時間の話。では未来の時間についてはどうだろうか。

加速度的な時間経過や加齢に伴う動作の鈍化という基本的な流れに抗う(あらがう)ことはできないが、未来の時間に関しては、その長さや速さよりも濃さの方がより重要になるようだ。それも加速度的に。

もちろん、若い時には無限であるかのように感じた未来の時間も、歳を取るにつれ貴重な「残り時間」になる。長さや早さが重要でないわけではない。ただ、この「残り時間」の場合は過去の時間と違い、その長さを知る術が無い。貴重であることは分かっていても、どれだけ残っているのかを計ることはできない。様々なアンチエイジング法を実践することにより「残り時間の長さ」を多少増やすことはできるとしても、その努力を継続し実現する上でも「残り時間の濃さ」がより重要になるのではないだろうか。僕は、この「濃さ」は「長さ」以上に自分の意志や行動次第で変えることができるものだと考えている。

僕がかつて立ち上げに関わり、現在も顧問を務める日本抗加齢医学会では、「アンチエイジング」の領域を、いわゆる診療科や体の部位により細分化する方法だけでなく、「運動・食事・精神・環境」という4領域で捉える方法も採っている。この中の「精神」には、医学的な「脳」だけでなく、心理学的な「心」や日常的に使われる「気持ち・気分」も含まれる。

時間が早く過ぎることは必ずしも悪いことではない。年齢に関係なく、楽しく充実した時間は早く過ぎ、辛く無為な時間は長く感じるものだ。月日が速度を増して過ぎ行く中でも、できるだけ楽しく充実した気持ちになるような時間を過ごすこと。数多あるアンチエイジング法の中から何を選び実践するとしても、そのベースとしてはこれが一番大切なことかもしれない。

[執筆/編集長 塩谷信幸
 北里大学名誉教授、DAA(アンチエイジング医師団)代表]

医師・専門家が監修「Aging Style」