【平野復興相発言】文脈を読めば、取るに足りない発言

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発せられた言葉をどうとらえるか。書かれた文章をどう読むか。もちろん、そこで使われている一つ一つの言葉を理解することは重要だ。しかし、それよりも大切なのが文脈である。一つ一つの言葉がどういった文脈の中で使われているのか。発言や文章を読み解く際に、文脈を理解しないまま一つ一つの言葉だけ注目すると、いわゆる「言葉狩り」という状態になりやすい。

連日ニュースで報じられているように、10月18日に平野達男震災復興担当相が福島県二本松市での参院民主党研修会で、「私の高校の同級生みたいに逃げなかったバカなやつもいる。彼は亡くなったが」と東日本大震災の津波被害に関して発言した。そして、「事例を全部一つ一つ検証し、次の震災に役立てることが大きな課題だ」とも語っている。

その後、「なぜ逃げなかったという思いがずっとあった。冷静に、客観的に話さなければならない時に個人的な思いが入ってしまった。不快な思いをした人がいたら心からお詫びする」と復興相は陳謝した(以上、日本経済新聞、2011年10月18日付)。

前後の文脈を理解するために、復興相の発言をくわしく引用してみよう。

「ここの高さに逃げてれば大丈夫だと言って、みんなで20〜30人、そこで集まってて、そこに津波が来て、飲み込まれた方々もいます。逆に、私の高校の同級生みたいに、逃げなかった馬鹿なやつもいます。彼は亡くなりましたけど。馬鹿なやつって、いま言ってもしょうがないんですけどね」

その直後に、「事例を全部一つ一つ検証し、次の震災に役立てることが大きな課題だ」と語っていることから、以上の発言が“こんな事例もある”という意味でなされたことは、誰にでもわかることであろう。そんな事例のひとつとして、復興相が自分の同級生をピックアップして発言したわけだ。問題は、ただひとつ。復興相がその同級生を語るときに「馬鹿」という言葉を使ったことが適切だったのかどうか、である。

筆者は、復興相の発言に対して、とくに違和感を抱かない。それは、「馬鹿」という言葉を使った発言部分の前後をよく聞きよく読む、すなわち文脈を読み解けば、「馬鹿」という言葉の使われ方が簡単に理解できるからである。

文脈から察すると、復興相は、亡くなった同級生とは「馬鹿なやつ」と言えるくらいの親友であったことがわかる。さらに、「馬鹿」という言葉はその同級生のみに対して使われており、その他の被災者に対して使われているわけではない。そうなると、身内を「馬鹿なやつ」と言われた同級生の家族や親族が発言を不快に思っているのかどうかが問題となる。とはいえ、復興相と同級生の間柄を知っている家族や親族がこの発言を不快に思うとは考えにくい。

この発言のなかで唯一注目すべき部分があるとすれば、大臣という職務につく人物が、各種の発言のなかで「馬鹿」という言葉を使うことの是非である。けっして、同級生に対して「馬鹿」という言葉を使ったことの是非ではないことは、発言をしっかりと聴いて文脈を読み解けばわかることであろう。

にもかかわらず、報道では発言の文脈を無視した見出しがおどり、それにつられた視聴者や読者が「けしからん」と騒ぐという構図ができてしまった。結局、この件で騒いでいるのは議員さんとマスコミ、そして一部の視聴者や読者のみである。

復興相の発言を不快に思っているのかどうかをたずねるべきは、同級生の家族や親族、そして被災者の方々であり、議員さんではない。ならばマスコミはそうした人々を取材した上、コメントを発表してもよさそうだが、筆者が知るかぎりそういう動きは見られない。

したり顔で取るに足りない発言の揚げ足を取る。それを政争の道具にする。それをネタにして、エキセントリックに騒ぐ。そういう人々のことを、復興相の発言の文脈を読み解いている人の多くは「なんだかなぁ……」と思っているのではないか。

(谷川 茂)