それらを質量分析すれば、各レーザーの照射スポットごとに含まれる分子のプロファイルを得られる上に、それぞれの分子を同定することができるというわけだ。

従って、観察したい試料をレーザーで走査すれば、イオン化された分子の分布を知ることができるのである。

この結果を受け、腹部大動脈壁の内部を走る血管について、こぶのある部位とない部位において、その形状に違いがあるかを観察した。

その結果、こぶのある腹部大動脈壁では、そこに血液を供給する細い血管が狭くなっていることが発見されたのである(画像3)。

画像3は、程度の異なる腹部大動脈瘤の壁内におけるヘムB含有量の違いがわかるように画像を並べたもの。

左の列は従来の顕微鏡による病理画像、中央の列は細胞膜を構成する一般的な脂質「POPC」を、右の列は血液を示す分子のヘムBを、それぞれ質量顕微鏡で画像化したものだ。

上段はこぶを形成していない腹部大動脈壁、下段はこぶを形成している腹部大動脈壁の画像を示す。

病理画像(左)と脂質の分布(中央)は、こぶの有無に関わらず大きな違いは見られなかった。

一方、ヘムB(右)は、こぶを形成していない部位(上段)では多く存在していたが、こぶを形成している腹部大動脈壁(下段)ではほとんど見られないという、大きな違いが見られた。

これらの結果から、こぶを形成した腹部大動脈壁内部では血流が少ないために十分な酸素や栄養が行き渡らず、大動脈壁が脆くなっている可能性が示唆されたのである。

先端の計測分析装置である質量顕微鏡を用いた今回の研究により、腹部大動脈瘤の病変部位では大動脈壁に栄養を届ける血管が狭くなり、血流量が少ない状態であることが確認された(画像4)。

画像4は、腹部大動脈瘤における、こぶの形成の有無に応じて見出された血管形状の違い。

腹部大動脈壁で血液の量が減っていたことを手がかりにして腹部大動脈壁に血液を送る血管の形状を観察した。

こぶを形成していない部位を流れる血管(上段)は中が広く開通しているのに対し、こぶのある部位を流れる血管(下段)では血管の壁が厚くなり、血液が通るところが狭くなっている。

この病態情報から、血流を改善すれば、軽度の腹部大動脈瘤の進行や手術後の再発を抑えられる可能性が示唆された形だ。

同様に、ストレッチなどの局所の血行をよくする運動や、炎症を抑え血管を詰まりにくくする薬剤で腹部大動脈瘤を予防できる可能性がある。

今回の研究成果を受けて、海野講師の研究グループを中心にした、腹部大動脈瘤の新たな治療方法の開発に向けた臨床研究が始まっている。

具体的には、ほかの循環器疾患の治療に用いられるような循環改善薬を、腹部大動脈瘤の術後の再発防止に用いることが可能かどうかの臨床研究を実施している状況だ。

さらに、腹部大動脈瘤の内科的治療に有効となりうる薬剤の探索を行い、今後の治療につなげることを目指している。

また今回の質量顕微鏡の実用化は、浜松医科大学と島津製作所を中心とした開発チームによって、光学顕微鏡により試料(生体組織など)の観察・分析対象を決め、そこに含まれる分子について大気圧下での質量分析が可能な装置として開発が進められてきた。

従来の質量分析法では、試料となる生体組織を破砕して得られた混合液体に何らかの前処理が必要だ。

そのため、ある分子が特定部位に高濃度で局在しているのか、組織全体に低濃度で一様に含まれているのかわからないという欠点があった。

質量顕微鏡では、前述したように組織切片にレーザーを照射して含有分子をイオン化して検出する。

そのため、組織のごく一部に病気を示す特定の分子が局在している場合でも、その分布を画像として検出することが可能だ。

さらに同装置には、島津製作所の田中耕一氏が開発し、2002年のノーベル化学賞を受賞した「ソフトイオン化法」を発展させた「マトリックス支援レーザー脱離イオン化(MALDI)法」が応用されている。

MALDI法の特徴により、レーザーを照射するスポットに含まれる複数の分子を同時にイオン化して分析できることから、組織の違いによる含有分子の違いやそれらの分布の違いも一度に画像として測定し、比較することができるのが大きな特徴だ。

同装置は、MALDI法を応用した実用段階の装置として世界最高となる5μm以下の空間分解能を誇っており、光学顕微鏡像に対応した分子の分布状態を明らかにすることができるのである。

なおJSTでは平成23年度から、先端計測分析技術・機器開発プログラムで開発された試作機を外部研究者にも解放し、共同利用を促す取り組み「開発成果の活用・普及促進」を実施中だ。

質量顕微鏡もその一環として、さまざまな分野の研究者が活用している。