「0.1%でも生きる可能性を」右胸を全摘した乳がん女性の決断、闘病中にくびれを目指し喪失感を埋めて
「治療により胸がなくなる、子どもが産めるかわからないということよりも、0.1%でも助かる可能性が高い治療を選びたかった」。33歳で乳がんが発覚した塩崎良子さんは、右胸の全摘を決断した当時をそう振り返ります。決断に迷いがなかったとはいえ、胸を失ったことの喪失感はやはり少なくはなく──。
【写真】抗がん剤の副作用で髪が抜け落ちた当時の塩崎さん。闘病中もウィッグで旅行に出かけたことが心の支えに(全12枚)
乳がん発覚、意外な相談相手のおかげで冷静になれた
── 33歳のときに乳がんになり、治療をされたそうですね。まだ若かったこともあり、わかったときは動揺も大きかったのではないですか?
塩崎さん:そうですね。実は最初に病気のことを相談したのは、親でも当時の恋人でも友人でもなく、以前お付き合いしていた方でした。自分でも「なぜその人だったんだろう」と思うのですが(笑)、乳がんを告知されて頭が真っ白になっていたなかで、無意識に「この人なら冷静に話を聞いてくれそう」と思ったんでしょうね。気づいたら連絡していました。
── 最初に連絡したのが元彼というのはかなり珍しいケースの気がしますが、真っ先に親しい間柄の人には言い出しづらかったのですよね。そもそも病気はどのような経緯でわかったのでしょうか?
塩崎さん:最初に違和感に気づいたのは仕事でイタリアに行ったときです。食べていたアイスを胸元にこぼしてしまい服の上から拭いたのですが、右胸にピンポン玉くらいの大きさのしこりがあることに気づきました。動かない、硬い感じのしこりで、いやな予感がして。インターネットですぐに調べると「悪性かもしれない」と思うような結果が出てきました。
帰国後に病院に行って検査を受けることに。不安はあったものの「まだ30代前半だし、がんだったとしてもきっと初期で大丈夫だろう」と楽天的に考えていたんです。でも、検査結果を聞きに行った日はあいにくの空模様だったのに、看護師さんが「いいお天気ですね。体調はどうですか?」と話しかけてきて。その、ちょっと普通じゃない様子を見て、「もしかして結果があまりよくないのでは」と察しました。
── その予感は的中した?
塩崎さん:医師からは「がんなので大学病院で検査をするように」と言われました。そう言われても最初は信じられなくて、その検査結果は私のではなく別人のではないかと疑ったくらいです。でも、医師は「脱毛してもウィッグがあるから…」と話を続けていて、脱毛するような治療をしなくてはいけないのだと、そこで初めて事態の重大さに気づきました。
── そこで連絡したのが元彼だったんですね。
塩崎さん:両親は高齢でしたし、当時の恋人や友人にも、まずは必要以上に心配をかけたくありませんでした。元彼は昔からとても冷静なタイプで、検査結果を送ると、「資料を見せて」と言われました。そして数時間後には、若年性がん治療に力を入れている病院や、病院を選ぶ際のポイントまで調べて送ってくれたんです。
後から両親や親友に病気を伝えたときは、みんな言葉を失ったり、涙を流したりしていました。だからこそ、最初に感情ではなく「これからどうすればいいか」を一緒に考えてくれる人がいてくれたことは、本当にありがたかったです。今でもとても感謝しています。
副作用の脱毛でアパレル業との乖離を感じて
── 治療はどのように行われていったのでしょうか?
塩崎さん:検査をしていくと想像よりも結果があまりよくなく、どんどん追い込まれていきました。結果的に生存率を上げるために、私の場合は抗がん剤でがんを小さくしてから手術をすることになり、まずは抗がん剤治療が始まりました。
── 抗がん剤治療はどれくらい続いたのでしょうか。
塩崎さん:1年弱続きました。通院で治療をしていたのですが、吐き気や味覚変化がひどく、和食が気持ち悪く感じたり、水が甘く感じたりしたことも。口内炎もすごかったので、スープしか飲めない時期もありました。
そしてやっぱりつらかったのが脱毛です。私は当時、20代の頃に立ち上げたアパレル店を経営していて、病気がわかったときも「仕事だけは絶対にやめない」と思っていました。でも、自分の見た目が変わっていくことで、華やかなアパレルの世界との解離に耐えられなくなってしまい…。病気で働くことに気が回らなくなったというのもありますが、「もういいや」という気持ちになってしまい、事業を辞めることにしました。
── それはつらい決断でしたね。
塩崎さん:ただ、仕事を辞めるのであれば少し時間ができる。抗がん剤治療中の副作用がない期間に好きなことをしよう、と切り替えました。病気になると治療費を心配してお金を使わない人と、逆にいつ何があるかわからないので、好きなことにお金を使う人の2パターンにわかれると思うのですが、私は「長生きできるかわからないから、好きなことをしよう」というタイプ。
国内海外問わず旅行をして、神社で神頼みをしたり、ヨガやアーユルヴェーダのようなロハス思考に目覚めたり、海外のメディカルリゾートに行ったりしました。贅沢をしていると思うかもしれませんが、そのときはそれが私の心の支えになっていましたね。もしかしたら旅行ができなくなるかもしれないので、貯金はかなり使ってしまいましたが悔いのないように過ごせたと今でも後悔はありません。
右胸の喪失感を埋めたものは
── その後、抗がん剤治療を終えて手術をされたのでしょうか。
塩崎さん:実は私の場合、結果的に抗がん剤治療による成果があまり出ませんでした。がんが小さくなる確率が高いものから試していくのですが、自分で触ってもがんが小さくなっていないのがわかるんです。むしろ、最後に行った抗がん剤で大きくなったのではと思うほどでした。あんなに副作用のきつい治療をしたのに成果がでないという事実が、闘病生活のなかでなによりつらかったですね。非常にメンタルをやられましたし、自分はもう生きられないかもしれないという気持ちになりました。
それでもう、見える部分のがんだけでも取ろうと手術で右胸を全摘出することに。手術によりその時点で病院でできる最前の治療である標準治療はすべて終わりました。
── 全摘に迷いはなかったのでしょうか?
塩崎さん:実は治療の方針を決めるときに、最初に医師に伝えたことがあります。それが、「0.1%でも助かる可能性が高い治療をしてほしい」ということ。闘病中は治療について、自分で決めなければいけない場面が何回もありました。
そのなかで私が重視したのは「とにかく生きること」。治療により胸がなくなる、子どもが産めるかわからないということよりも、0.1%でも助かる可能性が高い治療をしたい。つらくても生存率が高い治療をしたいと最初に医師に伝えました。そのため全摘についても迷いはありませんでしたが、右胸がなくなるという喪失感はやはりありました。
── 命のためとはいえ胸を摘出するのはつらいですよね。
塩崎さん:髪もない時期だったので右胸までなくなることで、自分に自信が持てなくなりそうでした。特に胸は自分の体の中でも好きな部分だったので…。さすがに少しは落ちこみましたが、ずっと落ちているわけにはいかないので、喪失感を減らすために次にやったのが体の中で胸以外のお気に入りの場所を新たに作ることでした。それで新たなチャームポイントとして決めたのが、ウエスト。
抗がん剤治療の期間にやる人はあまりいないかもしれませんが、くびれ女王になるためにダイエットを始めました。細いウエスト、さらにプリッとしたお尻で自信を取り戻そうと、筋トレもがんばりましたね。そのおかげで喪失感は軽くなったと思うし、闘病中でもなにかをやりとげられたことがとても自信になりました。
取材・文:酒井明子 写真:塩崎良子

