アントニオ猪木が回想する力道山との“最後の会話”。「急死した理由は暴飲暴食」の都市伝説にも言及
※本記事は『証言 アントニオ猪木 絶望と復活の闘魂人生』(宝島社)に収録されている「アントニオ猪木が語る師・力道山」の箇所を適宜抜粋したものです。
「プロレスラーとしても経験を積んでいってますから、自分なりの自我が芽生えてくるわけですね。親父はなぜ怒るんだろうか、なぜ殴るんだろうか……っていう疑念を抑え切れなくなるんですよ。殴られたりするのはまあどうでもいいんですよ。でもその理由がわからない。あまりにも仕打ちが理不尽なので、包丁で刺し殺してやろうか、と思い立ったこともありましたからね。
一度プロレスをやめようとしたこともあります。その時は豊登さんに止められまして、もうちょっと頑張ってみろと。豊登さんにはかわいがってもらったんですけど、まあ博打好きでね。のちに豊登さんと団体を立ち上げることになって(66年に旗揚げした東京プロレス)、俺も財産を失ってしまったんですけどね(笑)。誰にどう出会ったかによって人生がどう変わるのか。そういう意味でいえば、力道山との出会いはとても大きいんですが、俺のその後の人生を決定づける運命の日が訪れるんです」
◆運命を変えた力道山との“最後の会話”
1963年(昭和38年)12月8日の昼下がり──猪木は力道山が住むリキアパートの下にあった合宿所で一人電話番をしていた。前日の浜松で地方巡業が終わったこともあり、昼間の合宿所に猪木以外は人っ子一人いなかった。
「合宿所の入り口に電話があったんですが、マンションの部屋にいる親父から『若い衆はいるか?』と電話があったんです。『自分だけです』と答えると『部屋に上がってこい』と。
親父の部屋に駆けつけると、親父は高砂親方(元横綱の前田山)と二人で昼間から酒を飲んでいました。当時最高級の酒だったジョニ黒(ジョニーウォーカー ブラックラベル)の瓶がテーブルの上にいくつも転がっていた。グラスにジョニ黒がなみなみと注がれて、お前も飲めと。それまで親父の部屋には何回か入ったことがあるんですけど、酒を飲まされる機会は初めてで。
親父の言われるがままに、駆けつけ三杯をあおった時でした。高砂親方が『リキさん、コイツはいい顔をしてるね?』と向けると、親父がにっこりと頷きながら『そうだろ?』と──。
あの一言に、俺は救われました。あの誇らしげな親父の表情にも。
その頃の俺は反抗期でしたし、外国人レスラーがいろいろな情報をくれるわけです。今の生活を捨てて、アメリカに渡って一人で生きていこうかなと思っていたんですよ。親父に評価されているのかどうかもわからない。褒められたことは一度もない。『バカ野郎』と殴られてばかりでしたから。あの一言がなければ、俺は日本を出ていって、その後の日本のプロレス界も違ったものになっていたでしょうね」
◆ナイフで刺されてから6時間後に病院へ
その日の晩、力道山は赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」内で暴力団員と足を踏んだ、踏まないから口論となり、もみ合いの末、ナイフで腹部を刺された。
「俺はあの夜、青山のボウリング場で遊んでいたんですよ。一緒にいたのは若三杉というよくかわいがってもらっていた関脇でした。ボウリング場から合宿所まではタクシーで10分くらい。ボウリングを終えて帰ろうとすると、合宿所に上がる坂が警察によって封鎖されてたんです。なんだなんだって聞いても警察は答えてくれない。仕方なくタクシーを降りて合宿所まで歩いたら先輩たちが大騒ぎしてて。中には日本刀を持ち出して興奮している先輩もいました。あとから聞く話が多くて、何が起きてるかわからなかったんです」
