『ビートルジュース ビートルジュース』©2024 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved

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 ティム・バートン監督の特異なセンスとイマジネーションが爆発し、その才能を広く知らしめることになったホラーコメディ映画『ビートルジュース』(1988年)。常軌を逸した「人間怖がらせ屋(バイオエクソシスト)」ビートルジュースを演じたマイケル・キートンが注目され、1990年代のアイコンとなってゆくウィノナ・ライダーが、ゴス少女リディアを演じてブレイクを果たした一作でもある。

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 そんな『ビートルジュース』が36年もの時を経て、続編『ビートルジュース ビートルジュース』なる“不穏な”題名にて、嬉しい再登場を果たした。しかも、ティム・バートン監督本人が手がけ、マイケル・キートン、ウィノナ・ライダー、キャサリン・オハラが再び出演している事実も、前作のファンを歓喜させている。また、オリジナルキャストに加え、ドラマシリーズ『ウェンズデー』のジェナ・オルテガをはじめ、ウィレム・デフォー、ジャスティン・セロー、モニカ・ベルッチ、アーサー・コンティなどの新キャストが出演している。

 ここでは、この奇跡の続編といえる本作『ビートルジュース ビートルジュース』が、なぜ大きな支持を得ることになったのかを、さまざまな視点から考えていきたい。

 “古巣”でもあるディズニーで撮った実写映画『アリス・イン・ワンダーランド』(2010年)の成功によって、ディズニーの過去の名作アニメーションの実写化シリーズの道を拓いた功績がありながら、同じく実写化作品『ダンボ』(2019年)では興行面や批評面で伸び悩み、製作上の問題からディズニーとの関係を終わらせる旨の発言をするなど、活動が停滞していたと感じられるバートン監督。それだけに、ドラマシリーズ『ウェンズデー』での成功を経て、原点の一つといえる『ビートルジュース』に回帰したという意味において、本作の公開は感慨深いものがある。

 前作同様、舞台となるニューイングランドの小さな町を俯瞰した光景を、模型をも利用したカメラの移動で映し出すところより、本作はスタートする。川の上には、前作の事故現場となった、ランドマークのかわいい屋根付きの橋や、もちろんメインの舞台となる、丘の上の家も確認できる。やはり前作を想起させる、ダニー・エルフマンの不気味ながら心弾ませるスコアが被さる演出も用意してくれていて、同じ時を経てきた観客は懐かしい気分に包まれるはずである。あたかも、30年以上前に飲んだワインのヴィンテージと同じ年、同じ銘柄のワインを、いま抜栓したかのような、魅惑的な体験である。

 あの丘の上の家は、いまでは“幽霊屋敷”と噂され、そこに住む、歳を重ねたリディア(ウィノナ・ライダー)はTV番組を持つほど人気のある霊能力者として活躍していた。長い年月の間にであったパートナーとは死別しているが、彼女の側には一人娘アストリッド(ジェナ・オルテガ)がいる。しかし、年頃のアストリッドはことあるごとに母親に反抗し、二人の仲は良いものとは言いづらいのが悩みの種だ。

 リディアの母で、いまではアストリッドの祖母でもあるデリア(キャサリン・オハラ)は、落ち込む娘を達観して眺める。「私を困らせていたゴス少女はどこへいったの?」……そう、“変わり者”を自称していたリディアもまた、子どもへの悩みを抱え、自分の母親の当時の感情を理解するようになっていたのである。

 ちなみに、父親のチャールズ役だったジェフリー・ジョーンズは、今回出演していない。じつは彼は、プライベートにおける問題が報道された経緯があり、出演が見送られたと思われるのだ。彼の演じていたチャールズについては、劇中で度重なる不運によって死去していたと説明され、俳優を必要としないようにアニメーションで表現されている。この皮肉なユーモアとセンスは、ティム・バートンに多大な影響を与えていただろうエドワード・ゴーリーの絵本のようである。その点では、弱みが作家性でカバーされているのが興味深い。

 さて物語は、アストリッドの淡い恋愛から生命の危機に至る展開を描き、何を犠牲にしてでも娘を助けたいと願うリディアが、禁断の「ビートルジュース」を呼び出して、死後の世界へと赴くといった、ギリシア神話のオルフェウスとエウリュディケーの物語のような構図を見せる。『カリガリ博士』(1919年)を想起させる、歪められたセットも懐かしい。

 そして今回は、往年のダンス番組『ソウル・トレイン』のイメージをバカバカしくも投影した、魂が浄化され運ばれていく列車が登場したり、モニカ・ベルッチ演じる、ビートルジュースの元妻ドロレスが、バラバラに解体された自身の肉体をホチキスで豪快に繋げとめたり、頭の中を半分露出させながら死後の世界の秩序を守るウルフ(ウィレム・デフォー)の、無駄にケレン味のある動きなどなど、新キャストたちとともに新たなアイデアも散見される。

 とはいえ、ストーリー自体には大きな工夫があるというわけではなく、基本的には前作の繰り返しのような内容に終始しているのも確かではある。その意味で本作は、まさに「よくある続編」という表現にピッタリなのかもしれず、ティム・バートンの作家的な進化に注目している観客にとっては、肩透かしな部分があるだろう。しかし本作が本国アメリカで支持されていることを考えると、このような「よくある続編」こそ、本作にとっては期待されていた点であったのではと思えてくる。それは、前作の作風が影響しているのかもしれない。

 前作『ビートルジュース』は、その1年後の公開となったバートン監督の『バットマン』(1989年)と比べても分かるように、牧歌的とすらいえる雰囲気に包まれた作品であり、公開当時も最新の技術による映像を楽しんだり気負って鑑賞するような性質のものではなかったといえる。むしろ、アニメーターとしての出自を活かしたストップモーションアニメによる特撮へのこだわりには、監督の古い特撮への偏愛や憧れが色濃く反映していると見るべきだ。であれば、本作『ビートルジュース ビートルジュース』が、前作への郷愁とともにアナログ的なアプローチをとっているのも必然的なものがある。

 このような作風が現代でまた広く評価されたというのは、近年、1980、90年代を中心とした、懐かしいタイトルのファンを喜ばせる続編が、さまざまに公開されている状況に関連していることは、言うまでもないかもしれない。『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』(1999年)が、大規模なグリーンバック撮影とCGアニメーションを駆使した表現によって実写映画の表現の枠を大幅に拡張させたことで、映画業界は大きく様変わりしていった。さらには最近のAI(人工知能)を利用したさらなる技術革新も目の前にある。そんな状況下において、デジタル技術に対する反動が発生している向きもある。

 音楽や映画など、過去のタイトルのラインナップが、サブスクライブによっていつでも楽しめる環境が達成されたからこそ、ライブに行ったり映画館で映画を観るというような、労力を発生させる行為に、逆に価値が生じた反面、現在の作品と過去の作品を比べ、いつでも最新の表現を追い求めるという価値観は薄らいだように感じられる。そういった風潮に、本作はするりと入り込むことができた部分があると思えるのだ。

 また、前作『ビートルジュース』の物語から発せられるメッセージが、現代でも通用する点にも注目するべきだろう。ティム・バートンは、自身が持つ「変わり者」という自意識を、自作のなかでさまざまに表現してきた。まだ10代のウィノナ・ライダーもまた、リディアというキャラクターを通し、その孤独と疎外感を表現していた。周囲の無理解のなかで孤立しつつも、無理に自分自身を変えることなく、才能や感性を活かしながら周囲との結節点を見出し、ハッピーエンドへと至っているのである。

 彼女は、多くの人々が“見ない”ものを見て、親しむことによって、自身の世界を豊かなものにすると同時に、ビートルジュースに代表される“邪悪さ”や“不誠実さ”を振り切りながら、現実の世界と自分の世界をリンクさせ得た。それは、映画によって世界と繋がることのできた監督本人の生き方に重ねられることができるだけでなく、同じような思いを経験している、または経験したことがある観客に、深い共感をおぼえさせたはずである。

 近年はとくに、多様性尊重の考え方において、さまざまな価値観を認めることが重要視されている。その意味においてリディアの救済の表現は、より広く認められるものになったといえるだろう。本作ではビートルジュースに加え、ローリー(ジャスティン・セロー)やジェレミー(アーサー・コンティ)といった、有害さを持つ男性を登場させ、リディアとアストリッドがその影響下を脱する姿を通し、自分らしく心のままに生きることの大事さが、より強調されている。バートン監督個人の実感が、社会的な価値観と融合することで、現代の映画としての立ち位置も担保することになったのである。

(文=小野寺系(k.onodera))