エホバの証人が発行する出版物。聖書には体罰の根拠も示されている(編集部撮影)

安倍晋三元首相の銃撃事件後、「宗教2世」たちの存在に注目が集まるようになった。宗教2世とは、特定の信仰や信念をもつ親・家族の元で育った世代のこと。母親の高額献金によって家族が崩壊した山上徹也容疑者の境遇が報じられると、SNS上では山上容疑者にある種の「同情」を寄せる2世たちの声が上がった。

「事件は許されることではありませんが、宗教2世の問題がフォーカスされるようになったことはよかったと思っている」。そう語るのは、東京都内で暮らす孝さん(50代、仮名)。両親は新宗教「エホバの証人」の信者だ。孝さんは幼少期から宗教2世特有の重荷を背負って生きてきた。孝さんと両親、教団の3者間に横たわる宗教2世問題の現実に迫った。

物置の中で寝ていた

「子どもの頃、両親からはとにかくよくたたかれました。家の外に逃げ出すと父親は追いかけてきて、2メートルくらいの竹の定規でたたくんです。たたかれた後も、決して家の中には入れてもらえませんでした。そんな夜は寒さをしのぐため、物置の中で寝ていました」

孝さんは、少年期のつらい過去を振り返る。


「普通の家庭であれば、たたく父親を母親が制止したりするでしょう。でもうちは違った。母親が私の身体を押さえつけて身動きできなくなったところを父親がたたくんです。私に逃げ場はありませんでした。あの真面目な両親に、どうしてあんなことができたのか・・・・・・」

キリスト教を母体とするエホバの証人は、アメリカに本部を置く新宗教だ。日本支部は「ものみの塔聖書冊子協会」として政府に宗教法人として認可されている。日本支部によれば、国内で約21万人が伝道活動をしているという。聖書に記されていることを厳格に実践しようとするところに同教団の特徴がある。

孝さんの母親優子さんと父親剛さん(共に80代、仮名)が聖書に出会い、エホバの証人の信者となったのは1975年前後のこと。孝さんが2歳の時だった。

近い将来ハルマゲドンがきて世界は終わる。が、聖書の教えを実践する者は生き延びて「楽園」に行くことができる――。そうしたエホバの証人の教義に2人は共鳴した。

結婚前から精神的な病に苦しみ、子育てにも不安を覚えていた優子さんは「聖書の中にすべての答えがあった」と感じたという。剛さんもまた、当時の社会情勢からエホバの教えに現実味を覚えた。

「当時、自動車や工場から出る排出ガスの影響で東京の空はどす黒い雲に覆われ、真っ暗でした。海は毒物で汚染され、魚が減り、人体にも影響が及び始めていた。エホバの証人の『終末論』は真実だと思いました。この真実を知らない人に教え、広めていかなければと感じたのです。会社で働いてお金を稼ぐよりも、伝道活動に身を捧げたいと」(剛さん)

伝道者(信者)となった剛さんと優子さんは、エホバの証人の教えを厳格に守った。剛さんは「正規開拓者」となり、組織内で定められた月90時間(現在は70時間)の布教活動をこなすようになる。父親の剛さんは勤務していた会社を退職し、家も売却した。

「むちで打つべき」と教える聖書

聖書の教えを忠実に実践する中で起きたのが、息子の孝さんへの体罰だった。聖書には次の一節がある。

「少年を懲らしめるのを控えてはならない。むちで打つ場合、彼は死なない。彼をむちで打つべきである。彼を墓から救うためである。わが子よ、あなたの心が賢くなったら、私は心から喜ぶ」(ものみの塔聖書冊子協会発行の『聖書』)


エホバの証人の『新世界訳聖書』(編集部撮影)

優子さんと剛さんはこの教えに従って孝さんをたたいた。「むち」には竹の定規やベルト、時にゴムホースなどが使われ、「1回でいいところを2回、3回と余分にたたいてしまった」と述懐する。

エホバの証人の2世にふりかかるのは体罰だけではない。伝導活動を優先させる組織の力は強く、2世たちは大学進学はおろか一般企業に就職して働くことも憚る人が少なくない。世界の終わりを目前にして学問をしたりお金を稼ぐことは、聖書に忠実に生きることを誓った者が「約束違反」をしていると見なされるからだ。

孝さんも大学には進学せず、23歳から教団の日本支部に献身する生活を送る。ところが20代の半ばでオーストラリアを視察したことをきっかけに、日本の伝道のありかたに違和感が生じる。

「オーストラリアの信者の多くが正規の職業に就き、実社会での生活と伝道活動とを両立させていました。大学進学が容易には認められず、一般企業への就職も良しとされない日本では、あまりにも伝道活動が優先され過ぎている。そのことで2世たちの生き方が極端に狭められていると感じたのです」(孝さん)

組織から離れた孝さんはIT企業で働く傍ら、自身と同じ境遇で育ったエホバ2世たちと定期的に集まり、各々が抱える悩みを語り合う場を作るようになった。2世の中には、実社会に出て自立した生活がしたくても、学歴や職歴がないことから叶わなかったり、幼少期に受けた体罰がトラウマとなり、大人になって精神疾患を発症したりする人もいた。

こうした自身を含めた2世たちが被る実害を、孝さんは両親に直接ぶつけるようになる。

すれ違う親子の見解

孝さんの不満に、両親は言葉を詰まらせる。大学に進学させなかったことについて、優子さんは「孝に、何かやりたいことがあれば大学に行かせてもよかったと思っている」と弁解した。

剛さんも同じだ。「孝が『大学に行かせてもらえなかった』と言うのであれば、それは申し訳なかったと思う。だが、いったい何を学びたかったというのか。もし本当に大学に行って勉強したい何かがあったのならば、自分で壁を乗り越えるべきだったのではないか」。

しかし、両親の言い分に孝さんは納得できない。

「たしかに当時、大学に行きたいという気持ちはなかった。エホバの証人では大学には行かないのが当たり前。そんな環境で育てられてきた。子どもの頃から将来の夢なんて持てなかったし、大学進学なんて選択肢にすら上がらなかった。でも、周囲と同じライフスタイルを送りたいという気持ちはあった。それが、そんなにおかしいことなのか」


孝さんは小学2年生のとき伝道者の資格を取り、学校から帰ると布教活動に出かける日々を過ごした。学校生活でも周囲と同じ行動をとることが難しい場面が多くあった。エホバの証人では、スポーツ競技や運動会での応援、誕生日会への参加を禁じるといったさまざまな制限事項があるからだ。

50代になった孝さんが今なお遺恨を拭えないのが、たたかれた経験だ。どうしてあそこまで苛烈にたたかれなければならなかったのか――。

「今だったら虐待でしょうね」。たたいたことを、今、優子さんはそう感じている。ただ、優子さんにとって体罰は、やがて訪れる世界の終わりに備え、子どもを救うための愛情だった。

「私たちは孝を救いたい一心だった。けれど、孝はそれを私たちの愛情だとは受けとめられなかったのかもしれない。トイレに閉じこもって、出てこないこともありました・・・・・・」。

父親の剛さんも「つらかったろうなあ」と吐露する。「当時、私たち夫婦は夜も寝ずに仕事をしていた。本当はなぜたたくのかを孝に説明し、納得してもらったうえでなければたたく意味はないのに、じっくり話をする時間を持てなかった。悪かったなと思うところはある。謝るべきところは謝りたい」。

新たな精神的支柱となった聖書

後悔の色をにじませる剛さんだが、「反面、これでよかったんだという確信のようなものもある」と言う。「信仰を持たない現代の若い親たちは、生きることや幸福感について、確信をつかめているのだろうか」。

剛さんには忘れられない光景がある。1945年の敗戦から間もない時期のある朝、学校へ行くと、天皇・皇后の御真影や教育勅語謄本が納められた建物「奉安殿」が取り壊されていた。

「ついこのあいだまで絶対的なものだと教えられていた奉安殿が、目の前で崩れ去った。精神的な柱だったものが、あっさりと倒れた。世の中では民主主義だ、デモクラシーだと叫ばれるようになったけれど、私の身体には入ってこなかった。1975年にエホバの証人の信者になったのは、人間が生きていくうえで絶対に崩れることのない確かなもの、精神的な柱を探し求めていたからなのかもしれない」(剛さん)

新たな精神的支柱となった聖書。そこには「彼をむちで打つべきである」とはっきり記してある。

「聖書にはそう書いてある。だからたたいた。ただ、たたいたのは聖書に書いてあるからだけではない。終戦後の荒れた時代を必死に生きてきた私たちにとって、子どもをしつけるためにたたくのは、ごく普通のことだった」(剛さん)


父親の剛さんがつづる回顧録。入信した背景を子や孫に伝えたいと語る。(編集部撮影)

剛さんは6年前から回顧録を書いている。自分がどういう時代に生まれ育ち、どういう思いでエホバの証人の信者になったのか。そして、なぜ息子をたたいたのか。文字にして残すことで、いつか息子や孫に理解してほしいと願うからだ。「私が死んでからでもいい。孝の不信感が、いつか感謝の念に変わってほしいと思う」。

東洋経済はエホバの証人の日本支部「ものみの塔聖書冊子協会」に、2世たちが抱える苦悩について見解を問うた。

――2世の中には、厳しい体罰を受けた経験がトラウマになり、大人になって精神疾患をきたす人までいます。教団に責任はありませんか。

エホバの証人の出版物は一貫して、聖書の原則と調和した仕方で愛情や優しさを示しつつ、子どもを教え、導くよう勧めています。

――聖書には「少年を懲らしめるのを控えてはならない」「彼をむちで打つべきである」と記されています。信仰の厚い親たちは、それに従って体罰をしていたのでは。

聖書は子どもを育て、しつける責任は親にあると教えています。聖書には「エホバは愛する人を矯正する」とあるので、親は子育ての際に聖書の方法で矯正を与えることがあります。聖書で言う「矯正」は決して残酷なものではありません。

エホバの証人の出版物には「父親の皆さん、子どもをいらいらさせて気落ちさせることがないようにしてください」といった言葉もあります。聖書で用いられる「懲らしめ」という語は、いかなる虐待や残虐行為をも意味するものではありません。懲らしめは主に、教え諭すことや正すことに関連しており、虐待や残酷さとは全く関係がありません。

――エホバの証人のコミュニティで育った2世の中には、大学進学を諦めたり就職もできなかったりと、生き方の幅を狭められた憤りがあります。

エホバの証人になるかどうかは個人が決めることです。多くの親たちと同じように、エホバの証人の親も、子どもたちの最善を願っています。子どもたちは大きくなったら、自分がエホバの証人になるかどうかを各自で決定できます。

(以上、回答の一部を抜粋)

「しつけの責任は親にある」批判をかわす教団

教団はしつけの責任は親にあるとし、「懲らしめ」も残酷なものではないとする。人生の選択肢を奪われたという2世の訴えについても、教団には責任がないという見解を示した。

剛さんと優子さんも体罰について「聖書が間違っていたわけではない。私たちの聖書の理解が付け焼き刃で、もろかった。わかっているようで、わかっていなかった」と、責任は自分たちにあるのだと語る。教団にとっては都合の良い見解だ。

体罰を受けた経験や、生き方を強制的に狭められたことを許すことができない孝さん。孝さんの心の傷に責任を感じ、親子のわだかまりを解こうと苦心する両親。「しつけの責任は親にある」と、火の粉を振り払う教団。

2世たちが苦しむ体罰や進学・就労の制限が、宗教団体の教義や組織力に起因していることは確かだ。こうした2世の苦しみが教団組織としての問題ではなく、「親の問題」「家庭の中の問題」とされてきたところに、宗教2世問題が埋もれてきた一つの理由がある。


(野中 大樹 : 東洋経済 記者)
(井艸 恵美 : 東洋経済 記者)