約80年の歴史に終止符を打つことになったVW「ビートル」(写真:フォルクスワーゲン グループ ジャパン)

ドイツを代表するスポーツカーのポルシェは、ボヘミア生まれの技術者であるフェルディナント・ポルシェ博士の息子フェリーが生み出した。では、ポルシェ博士の功績とは何かというと、その1つに小型大衆車のフォルクスワーゲン・タイプ1、通称ビートルがある。


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ビートルは、1978年までドイツ国内で製造され、その後はメキシコで2003年まで生産が続き、累計で2153万台が造られた。1つの基本設計のクルマがこれほどの数製造された例はほかにない。

ドイツでの初代ビートル生産終了後の1998年に、フォルクスワーゲン・ゴルフを基にした第2世代のビートルが、ニュー・ビートルの車名で誕生した。続いて2011年からは、第3世代のザ・ビートルと呼ばれる車種へ引き継がれた。これが今年、いよいよメキシコでの生産を終え、一連のビートルの歴史に幕が閉じられることになったのである。

フェルディナント・ポルシェ博士の構想から生まれたビートルの姿は、約80年の歴史を経て消えることになる。

ポルシェという技術者の存在

19世紀のオーストリア=ハンガリー帝国ボヘミア(現在のチェコ西部・中部地区)で生まれたフェルディナント・ポルシェが、最初に作ったクルマは、ウィーンにあるローナー社で設計したローナー・ポルシェであった。実はこの車は電気自動車(EV)であった。

ローナー・ポルシェが世に出た1900年当時、そこから14年さかのぼった1886年にドイツのカール・ベンツがガソリンエンジン自動車を発明していたが、当時はエンジンというものがまだ成熟していなかった。むしろ、EVのほうが扱いやすく、走りもよかった。ただ、今日なお懸念の声が残されているように、バッテリー性能により「走行距離が短い」という課題を抱えていた。

そこでポルシェが考えたのが、エンジンで発電しながらモーターで走るハイブリッド車(HV)である。この方式は、今日でいうと日産のe-Powerと同様である。このように、ポルシェは、既存の技術や物にこだわることなく、最善の技術を使ってクルマを開発することを続けた技術者であった。

その後、ポルシェはアウストロ・ダイムラーでレース車両を開発し、自らも運転して優勝するなどの活躍をする。また、航空機エンジンを開発し、これがダイムラーの航空機で使われることもあった。

第1次世界大戦でドイツが敗れると、ポルシェは廉価な小型車を構想した。しかし、どの自動車メーカーでも採用されることがなく、その案を温め続けることになる。その間、シュツットガルトのダイムラー・モトーレンで働き、メルセデス・ベンツのスポーツカー開発などに携わった。

そこから自らの技術事務所を開設し、小型車開発技術を各自動車メーカーへ売り込み始めた。その間にも、アウトウニオンのレース車両の開発を行い、V型12気筒エンジンを運転者の後ろに搭載するミッドシップを考案し、ダイムラー・ベンツとグランプリレースや最高速記録で競うのである。

ビートルの形とアウトバーンの存在

ポルシェの小型車構想が実現へ動き出したのは、アドルフ・ヒットラーによる大衆車構想に合致したことであった。それが、のちのタイプ1(ビートル)につながる。しかし、戦況によって生産が開始されるのは第2次世界大戦後のイギリス占領下で、戦前は試作車の製作のみにとどまっていた。

初代ビートル、タイプ1の構想は、まさに当時の技術とドイツの国情が色濃く反映されている。

「ビートル=カブトムシ」と愛称された背の丸い外観形状は、ヒットラー政権下に拡充された高速道路であるアウトバーンの存在が大きい。あの姿は、いわゆる流線形を描いており、空気抵抗を減らす造形である。速度無制限のアウトバーンならではの発想といえるだろう。空力優先の造形でありながら、大人が4人乗れる室内空間を確保している。

エンジンは水平対向4気筒の空冷で、後輪の後ろに搭載されている。このため、ラジエターグリルはなく、グリルレスの顔つきは、車体の内側に風を取り込まず空気抵抗を減らすことにも役立っている。

後輪の後ろにエンジンを搭載する後輪駆動は、アウトウニオン時代のレース車両のミッドシップ構想に通じる。当時、装着されるタイヤは今日では想像もつかないほど貧弱で、路面のグリップは低かった。アウトウニオン時代のレース車両ではとくにそれが顕著で、アクセルを全開にすると、タイヤの接地面であるトレッドゴムが剥がれてしまうほどであったと語られている。

今日われわれが当たり前のように使っているラジアルタイヤは、1946年にフランスのミシュランが開発し、翌年実用化した。しかしそれが本格的に普及するのは1970年代前後となる。それまで主流を占めたのは、バイアスタイヤだ。外観は同じように見えても内部構造がラジアルとバイアスでは異なり、それによってバイアスタイヤは路面へのグリップが弱かった。

グリップの弱いタイヤをより地面へ押し付け、アウトバーンのような高速道路を安定して走らせるには、リアエンジンにして後輪にエンジンの重さを掛けること、それが初代ビートルのリアエンジン構想である。この考え方は、のちのスポーツカーであるポルシェにも受け継がれている。

2〜3代目は初代ビートルに似せたクルマ

このように、初代ビートルの姿や設計は、すべて当時の技術的理論と交通事情からの必然に裏付けられたものであり、単に見栄えが可愛らしいとかという情緒的な設計ではないのである。

それに対し、ニュー・ビートルからの2〜3代目は、フロントエンジンで前輪駆動のゴルフを基にし、外観だけを懐かしい初代ビートルに似せたクルマである。したがって、そこに技術的根拠や、必然性はない。単なる懐かしさだ。

一方、イギリスで生まれたMINI(ミニ)は、初代ビートルと好対照に当初から前輪駆動であることを技術的な前提に、合理性を追求した小型大衆車として、オスマン帝国(現在のトルコ)生まれのアレック・イシゴニスが設計した。1959年にイギリスで発売され、それは1945年に生産をはじめたビートルから14年後のことになる。

ミニにはミニの事情があり、既存の自動車部品を流用しながら廉価な小型車を生み出すことにあった。また、第2次世界大戦後からの十数年は、戦前の設計を受け継ぐクルマ(タイヤを覆うフェンダーが車体の外に出っ張った姿=ビートルのような格好)が多かったが、ミニは、戦後の新しい時代を築くクルマにしたいとの思いがあった。

その回答が、ビートルとは異なる四角い格好で、前輪駆動で、大人4人を移動させることのできる小さなクルマという姿で完成されたのであった。

またイギリスに高速道路はあっても、アウトバーンのような速度無制限で走れる環境ではない。ロンドン以外の都市は小規模で、郊外には丘陵地帯を抜ける屈曲路の細い道が連なり、そこを走るうえでミニは最適な大きさと性能を備えていた。ドイツとイギリス、それぞれの時代と、国柄にあった小型大衆車の誕生である。

したがって、2001年にドイツのBMWがニューミニを誕生させたとき、その姿はニュー・ビートルと同じように初代に似た造形となったが、そこに技術的、あるいは合理的な必然性が初代から引き継がれ、残された。

電動化がクルマの形を変える時代

今日、ミニは車種を拡大し、車体寸法もより大柄にはなった。だが、その構成要素はなお技術的、合理的必然性から逸脱してはいない。ミニが現在も人気を博し、販売を拡大しているのに対し、ビートルがいよいよ終焉を迎えた理由は、昔を懐かしむ姿でしかなかったからであろう。

しかし今後、普及が見込まれるEVは床下にバッテリーを搭載し、モーターや制御機器は車体のどの位置にも搭載できるようになる。もはや技術的、合理的な側面で造形の意味はほとんど失われ、使用や利用上の利便性、あるいは人の感性が形を求める時代になるだろう。

電動化や自動運転化が進み、人とクルマがどのような親しい関係を結んでいくかが問われた際、あらためて造形の重要さが見直されたときには、人を笑顔にするビートルのような姿が復活することはあるかもしれない。