田中角栄が初めて国政にチャレンジ、自ら「当確」と踏んだ昭和21年4月11日開票の戦後初の総選挙(大選挙区制)の思惑は、しかし誤算の連続、大ハズレであった。

 まず、「あーたは15万円(現在の約5000万円)のカネだけ出して、黙っておみこしに乗っておればよろしい。あたしが当選をうけおいましゅ」と力説していた日本進歩党大幹部の代議士は、口だけでほとんど動いていなかったのだった。また、集票の軸となるべき理研グループそのものが、田中候補一本化ならず別の候補も支援してしまったことで票が分散してしまった。さらには、田中陣営の選挙参謀と頼んだ者の中に運動資金が潤沢なのをいいことに、それをフトコロに入れ立候補してしまう者が2人も出てしまった。その1人が後に新潟県知事、参議院議員をやることになるである。
 潤沢なこの選挙資金は各地区の選挙責任者からそれぞれのち(地域のボス的存在の旦那衆)に渡ったのだが、このカネも末端に届く以前に彼らが芸者衆とのドンチャン騒ぎにウツツを抜かし、霧消していたこともあった。

 その上で、輪をかけたのは田中の演説ベタであった。当時は、やがて「角栄節」と言われて一世を風靡することになるそれとはまったく裏腹で、他の候補は泥だらけのゴム長靴に労働者風の詰めえり姿が多かったが、田中一人はモーニング姿に威儀を正し、演題は〈若き血の叫び〉一本だった。「自壊一歩手前の祖国を民主主義精神によって生かす政治家の政策綱領は、決して空念仏やお題目であってはいけないッ」で始まり、「若い私の生命を賭けた実行力を信じてください!」で結ぶのが常。話が固く、著しく面白味に欠けていた。
 ために、個人演説会場は閑古鳥が鳴き、数百人収容の小学校講堂でのそれは、わずか14人しか集まらなかったこともある。時に会場からは「おめぇ、女みてぇな名前だから」とやられ、例の“吃音(きつおん)”で話が詰まると「どした、どしたッ。もう演説はええからチョンガリ(ナニワ節)でもやってみれ」のヤジを浴び、これが災いしてまた話が詰まるのだった。子供たちのみ、いささか毛色の変わったこの候補を、「おい、“若き血の叫び”が来たぞッ」と追い掛けてくるといった案配だった。

 ちなみに、後に“越山会の女王”“金庫番”として田中と二人三脚の政治行動を共にすることになる佐藤昭とは、この選挙で出会っている。佐藤は柏崎市の日用雑貨品を営む店の娘であった。その佐藤から、筆者は初出馬当時の「田中候補」の横顔を聞いている。
 「とにかく、演説はトツトツとしていて聞いていられなかった。その上、田中は根が照れ屋だったこともあり、他の候補が胸に花を付け、タスキをかけてトラックで選挙区内を走り回っていたのに、一人やらない。選挙民と握手をすることもなく、運動員だけが『田中角栄と書いてください!』などとしきりに声を上げていた。アピール度はゼロ、案の定の結果でした」

 この間、さすがに“劣勢”の空気を察したか、柏崎駅前の旅館『岩戸屋』で二田尋常高等小学校当時の恩師の一人、に会ってこう泣きを入れている。「先生、オレは本気なんだ。どうしても当選して政治家になりてぇです。何とか応援してもらえんですか…」
 それでも、田中は支持者を前に茶碗酒の一杯が入ると元気を取り戻し、「オレはね、将来必ず総理大臣になるッ。なれねかったら、皆にくらつけられても(蹴っ飛ばされても)いい」とブチ上げていたのだった。当選もしていないのに「総理大臣になるッ」とは、何ともいい度胸ではあった。

 選挙結果は、立候補者37人中の11位、3万4千票を取ったものの次点落選であった。同時に、選挙違反も出し、これは長岡地裁で裁判になっている。しかし、頭の切り替えの早いのが田中の持ち味、落選でうなだれる支持者を前にこう力説してやまなかった。
 「当選するとおだてられ、その気になっていたら落ちてしまった。まさに不徳の致すところ、自分の力が足らなかったことが分かった。次の選挙に出ねばならんから、早く裁判は終わらしたいと思っているッ」

 その田中の再挑戦は、意外と早くやってきた。翌22年5月3日の新憲法施行を前に、第1次吉田茂内閣がGHQ(連合国軍総司令部)の「憲法内容を民意に問う必要がある」との意向を汲み、この年3月31日、解散に踏み切ったからであった。折から、この総選挙から大選挙区制を廃止して中選挙区制に移行、日本進歩党から改組した民主党からの出馬となった。
 前回選挙で懲りた田中の何とも壮大、大ボラを交えた演説など、獅子奮迅の選挙戦が展開されることになる。(以下、次号)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。