名作ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』で天才子役として頭角を現し、高畑勲監督からも「天才」と称賛された宇野なおみさん。厳しい職人気質の現場で愛され、大切に守られながら育った少女は、やがて異例のルートで早稲田大学へと進学する。

【画像】あの高畑勲監督から“天才だな”と言われたことも…子役時代の宇野なおみさん

 昭和の名優たちに囲まれた贅沢な記憶と、シリーズ終了後に待ち受けていた激変の人生に迫る。(全2回の1回目/続きを読む)


大人になった宇野なおみさん。子役を引退したあとの人生とは―― ©文藝春秋

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6歳で芸能の世界へ

――子役を始めたきっかけは何だったのでしょうか。

宇野なおみ(以下、宇野) 2つ年上の姉が演劇に興味を持って「劇団若草」(坂上忍、杉田かおる等を輩出)に入ったんです。私も一緒に舞台に連れて行ってもらっているうちに真似っこしたくて、6歳の時に入団しました。

――「渡鬼」の石井ふく子プロデューサーとの出会いは、劇団に入って間もないくらいだったそうですね。

宇野 舞台版「おしん」の、おしん役のオーディションに参加した時、石井先生が来られたんです。私がセリフを言った瞬間、相手役の方は「この子だ!」と直感があったそうで、「石井先生の方を見たら、自分と同じ表情をしていた」とおっしゃっていました。私の人生で、一番ドラマチックな瞬間だったのかもしれません(笑)。

――おしん役をしていた頃の思い出はありますか?

宇野 おしんの母親役は、ドラマと同じ泉ピン子さんでした。奉公先でいじめられて突き飛ばされたりするシーンがあるのですが、私は当時身長がすごく小さかったので、「大丈夫?」と心配されていたみたいです。稽古場では、「マメ」というあだ名で呼ばれていました。

――「渡鬼」の加津役には、どうやって決まったのでしょうか。

宇野 良く存じませんが、石井先生が選んでくださったとか。泉ピン子さんも、「マメは?」と名前を出してくださったとお聞きしたことがあります。

――初めてのテレビドラマは、緊張しましたか?

宇野 10歳だったので、全国放送のドラマに出る実感は全くなかったです。ただ、共演者の方は、「おしん」の舞台でご一緒した方が多かったので、逆に照れくさくて。初めての台本の読み合わせでは、気恥ずかしくて本で顔を隠してしまい、泉ピン子さん達から、「いつも舞台では好き勝手やってるくせに、なに緊張してるんだ」とツッコまれたのを覚えています(笑)。

NGを出さない「天才子役」と呼ばれて

――NGを出さない「天才子役」と呼ばれましたが、どうやってセリフを覚えていたのですか?

宇野 実際にはNGはあったと思うのですが(笑)。「天才」と呼ばれて、当時はびっくりしていました。私の場合は、映像記憶が得意なので、黙々と台本を読んで覚えていました。逆に耳で覚えるのは苦手で、セリフを録音して聞いたりはしなかったです。

 記憶力の良さは、もしかしたら父親譲りかもしれません。父は競馬の実況アナウンサーで、その日のレースの競走馬と騎手さんの名前や、服の色を全て暗記していました。その真剣な姿は、今も印象に残っています。

――同時期に、高畑勲監督の『ホーホケキョ となりの山田くん』に、「のの子」役の声優で出演していますね。監督はどんな方でしたか?

宇野 アフレコ現場では、高畑監督はとても穏やかで、口調も柔らかい方でした。ただ、監督の要求に対して、もし私が応えられなかったら、「この人はできるまでやらせるより、役者を他の人に代えることを選ぶだろうな」と思いました。もちろん、高畑監督はそんなこと全くおっしゃらないし、私が本能的に感じただけなのですが。

――実際には、高畑監督は宇野さんの演技を高く評価していたそうですね。

高畑勲監督「天才だな」

宇野 当時、母が監督と同じブースにいたのですが、監督がボソッと「天才だな」と呟かれていたそうです。

 私としては、「買い被りすぎですよ」と思うのですが。高畑勲監督や、橋田壽賀子先生とご一緒するチャンスに巡り会えたのは極めてラッキーだったなと思います。

――「渡鬼」の現場はどんな雰囲気だったのですか?

宇野 「子役はチヤホヤされたんでしょ」とよく言われるのですが、全くなかったです。「渡鬼」はスタートしたときは実力派の役者さんばかりの作品で、「役者は作品を構成する石の一つ」というスタンスが徹底されていました。そんな職人気質な現場だったので、「ここではちゃんとしないとダメなんだ」と子供ながらに察していました。

 撮影の合間に、公園のセットのブランコで遊んで怒られたりしていましたが(笑)。声を荒らげられたことはなく、「今はそこにいたら邪魔だよ」とはっきりと注意してくださいました。

――石井プロデューサー、橋田壽賀子さんは、どんな存在だったのでしょうか。

宇野 当時の私にとっては、お二人とも普通の“優しいおばちゃま”でした。お見かけすると「先生ー!」と駆け寄っていましたね。石井先生は、演出の際はビシッとされていましたが、近寄りがたいわけではなかったです。

 橋田先生は執筆でお忙しく、撮影現場には滅多にいらっしゃいませんでした。熱海のご自宅には、スタッフさんと一緒に私も何度かお邪魔して、私は勝手に『春日局』のコミカライズ版を読ませてもらったりしていました。

――昨今、芸能界のセクハラ問題が取沙汰されますが、宇野さんの時代はいかがでしたか?

石井先生、橋田先生に守られていた

宇野 石井先生、橋田先生という、当時の芸能界トップの女性二人が揃う現場だったので、守られていたと思います。

 私の前では、スタッフさんは下品な発言は一切なかったし、成人してからも飲み会には連れて行ってもらえなかったです。大人になって小劇場に出演した時は、雰囲気の違いに驚きました。

 撮影でも、すごく気を遣ってもらいました。私が中学生の頃に、ブラウスを着替えながら会話をするシーンがあったのですが、私がタイミング悪く、袖や上のほうのボタンを外す芝居だったのに、シャツを脱ぐタイミングのカットになってしまった。

 下に白いカットソーを着ていたので私は気にしていなかったのですが、ディレクターさんが深刻な表情で飛んできて、「加津、あれは気になるから撮り直そう」と言ってくれました。常に厳しい撮影スケジュールに追われていたのに、大切に見守ってくださったんだなと感じます。

――早稲田大学に進学されてますが、撮影をこなしながら、どうやって勉強したのですか?

早稲田合格の勉強法

宇野 「緑鐵受験指導ゼミナール」という、通信教育を利用していました。「受験の神様」と呼ばれた和田秀樹さんが開発されたもので、コーチングの先生に進捗をチェックしてもらいながら、基本的には自分で勉強を進めるんです。幼い頃から、撮影の合間に宿題を済ませたり、自分で勉強することに慣れていたので、私には合っていたと思います。

 受験したのは、早稲田大学文化構想学部の夜間特別枠(現在は廃止)でした。社会人を想定した制度なので、セーラー服姿で願書を出しにいって驚かれました(笑)。受付では、教授の方を呼んで相談されていましたが、「前年度に納税している」、「高卒認定資格がある」という条件を満たしていたので、受験を認めていただけました。試験科目の英語や小論文は得意だったので、無事に大学生になることができました。

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 早稲田大学を卒業して、人生は順風満帆⋯⋯とはならなかった。大人になった元天才子役を襲った「大きな試練」とは。

「ストレスで顔中じんましん」「ベッドから起き上がれない」薬を飲んでも治らない⋯絶望の36歳・元天才子役を救った『恩師・橋田壽賀子先生の言葉』〉へ続く

(都田 ミツコ)