『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、伊達政宗と仙台城です。

『青葉城恋歌』が大ヒット、NHK大河『独眼竜政宗』は平均視聴率歴代1位

杜の都仙台の青葉山にある仙台城は地元では青葉城と呼ばれ、1978年にさとう宗幸さんが歌った『青葉城恋歌』は110万枚も売れる大ヒットになり、仙台市民以外にも広く知られるようになりました。

また1987年に渡辺謙さんが主演し、NHK大河ドラマとして放送された『独眼竜政宗』を覚えていらっしゃる方も多いでしょう。1年間の平均視聴率39・7%は、歴代トップを誇っています。南奥州の覇者として君臨し、波乱の人生を送った伊達政宗は、戦国大名のなかでも特に人気の高い人物です。

伊達政宗公騎馬像 Photo by Adobe Stock

天然痘で右目を失明

政宗は永禄10(1567)年、米沢城で生まれます。父は伊達家16代当主・輝宗で、母は山形藩主最上義光(よしあき)の妹・義姫です。幼少の頃天然痘にかかり、右目を失明。劣等感と母から愛されていないという思いから暗く無口な少年時代を送ります。そのコンプレックスを克服させたのが、守役で後に重臣となる片倉小十郎こと片倉景綱です。

彼は政宗の右目をえぐり出し、わだかまりを解きつつ、帝王学を授けていきます。政宗は天正12(1584)年に父の隠居に伴い17代当主になりますが、翌年争いの絶えなかった二本松城の畠山義継が和議を申し込み、応じた父の輝宗は騙されて拉致されてしまいます。

怒った政宗は畠山との戦いに挑み、銃口を向けますが、畠山軍の最前列には人質となった政宗の父輝宗がいます。逡巡する政宗に輝宗は一喝します。「俺にかまわず、撃て!」。この父の言に政宗は畠山軍を攻撃し、父もろとも義継を殺してしまいます。この事件から政宗は非情に生きなければやられてしまう戦国大名の厳しさを心に刻んだと思います。

仙台城の大手門脇櫓 Photo by Adobe Stock

実母に毒を盛られ

その後政宗は領土を広げ、天正17(1589)年、会津の蘆名義広を磐梯山の麓、摺上原(すりあげはら)の戦いで破り、南奥州を制圧。会津若松城の前身である黒川城に入り、南への進出を企てますが、そこに待ったをかけたのが豊臣秀吉です。

天正18(1590)年、小田原征伐に参加せよと秀吉から催促がきましたが、これを黙殺。伊達家は北条氏と同盟関係にあり、秀吉と一戦交えるか否か、迷っていたといいますが、反抗心があったことは明白です。

さらに実母が政宗に毒を盛り、弟の小次郎を立てようとする事件も起きました。実母は隻眼の政宗より性格温厚な政宗の弟・小次郎がかわいかったようですし、先述したように彼女は政宗のライバル、最上義光の妹でした。反伊達連合に加わった最上氏との争いで起こった事件ですが、危うく命を落としそうになった政宗は弟、小次郎を斬殺し、母を追放します。

仙台城の大手門脇櫓 Photo by Adobe Stock

「もう少し遅かったらここが飛んでおった」

こうしたこともあって政宗の小田原参陣は1カ月以上遅れてしまいます。激怒した秀吉に対して政宗は、ツラーっとしてこう申し述べます。

「田舎ものゆえ礼儀をわきまえません。願わくば小田原にいらっしゃる天下の茶人千利休にお目通り願い、茶の湯を習いたいと思います」と詰問役の前田利家に告げたといいます。それを聞いた秀吉がその図太さに興味を持ち、謁見を許すと、政宗は死装束に身を包み髪を下ろした姿で現れたといいます。

その姿で堂々と申し開きをする政宗に、パフォーマンス好きの秀吉は政宗のクビを叩いて「もう少し遅かったらここが飛んでおった」と笑ったといいますが、政宗も大胆なら秀吉も器量の大きさを見せ、実に面白い対決だと思います。

私はこの政宗の一連の行動や発言は、すべて前述の片倉小十郎の入れ知恵だと思っています。秀吉が面白がれば、伊達は助かるという計算があったと思います。

伊達政宗公騎馬像 Photo by Adobe Stock

「あわよくば……」という天下への野心

関ヶ原の合戦の際は家康の東軍につき、上杉景勝軍と戦います。その際に家康から「百万石の御墨付き状」をもらっていますが、実際には2万石しかもらえませんでした。和賀氏が起こした一揆を扇動したとして家康を怒らせてしまったのです。政宗は戦いが長引くと思い、どさくさに紛れて領土拡大を狙ったのだと思います。

このあたりは黒田官兵衛と同じで、「あわよくば……」という天下への野心が見え隠れするところです。その後、仙台に移り、仙台城の普請を始めます。広瀬川の断崖を利用し、新たに城下町を作る大工事でのべ100万人が関わったと伝えられています。

仙台城から見た仙台市内 Photo by Adobe Stock

織田信長を尊敬した

政宗は織田信長のことを尊敬したと伝えられています。時代感覚やその精神的な強さにおいて2人は傑出しています。政宗は、戦国のビッグ3より20〜30年若いために世間の人からは、よく「遅れてきた天下人」といわれますが、本人はちっとも「遅れてきた」とは思っていないと、私は思います。

政宗はエスパーニャ(スペイン)との交易を求めて、政宗が500トン級の西洋型軍船サン・ファン・バウティスタ号を建造、家臣の支倉常長(はせくらつねなが)らを派遣します。慶長遣欧使節と呼ばれる一行は太平洋をメキシコに向かい、そこから大西洋を渡って1615年エスパーニャで国王フェリペ3世に謁見し、さらにローマに向かい法王パウロ5世から祝福を受けています。

仙台城の支倉常長像 Photo by Adobe Stock

スペインで「ハポン(日本)」を名乗る人々

時の世界の権力者2人と友好関係を築き、交易に加え、エスパーニャ海軍を味方につけることでの軍事同盟も頭にあったようです。イエズス会の報告から日本ではキリスト教が弾圧されていることがわかり、交易も同盟関係も実現しませんでしたが、「外国の力を借りて日本制圧」も念頭に、動いていたことは事実です。

天下を少しも諦めていなかったことがわかる政宗の剛胆な計画といえるでしょう。ちなみにスペインの南部コリア・デル・リオという町にはスペイン語で日本を表す「ハポン」の名字を名乗る人々が現在も700人ほどいます。支倉常長の一行のうち、現地に住み着いた人々の末裔といわれています。

仙台城の石垣 Photo by Adobe Stock

【仙台城】(別名・青葉城)
現在、仙台城がある青葉山付近には鎌倉時代に千代(せんだい)城があったと伝えられるが、伊達政宗が慶長5(1600)年から2年あまりをかけて築城した。四方は広瀬川の渓谷と断崖を利用した天然の要害であり、約2万坪の敷地は当時、家康の江戸城に次ぐ広さを誇った。築城当時から天守閣はないが、本丸は桃山文化の集大成といえる豪華なものだった。現存する建物はないが、大手門とともに空襲で焼失した脇櫓が昭和42(1967)年にコンクリート製で復元された。
住所:宮城県仙台市青葉区川内1
電話:022-222-0218(青葉城本丸会館)

【伊達政宗】
だて・まさむね。1567〜1636年。伊達家17代当主であり、仙台藩62万石の初代藩主。父は伊達輝宗、母は最上義姫で米沢城に生まれる。幼名は梵天丸。疱瘡の毒で右目を失明し、独眼竜と称する。18歳で家督を継ぎ畠山、佐竹、蘆名などと覇権を争い、南奥州を平定。豊臣秀吉に臣従を迫られ、抵抗するも小田原征伐時に死装束で弁解を試みたエピソードは有名だ。支倉常長らを遣欧使節団としてスペインに派遣し、軍事同盟を画策、天下を狙っていたといわれる。そのスケールの大きさは戦国ファンを魅了してやまない。

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。京都芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は、焼失前の正殿。「Webサイト 日本の城写真集」より。