■池井戸潤の最新長編『俺たちの箱根駅伝』よりスゴい実話

「本を読んで泣いたのは久しぶり」
「人生に挫折しそうな時に読み返したい作品」

池井戸潤『俺たちの箱根駅伝』(上下巻・文藝春秋)

今春発行された池井戸潤さんの最新長編『俺たちの箱根駅伝』(上下巻・文藝春秋)が順調に版を重ねている。

正月恒例で高視聴率を誇る箱根駅伝。往路と復路、全10区にわたった選手がたすきをつなぐのは20大学。前年大会10位までのシード校と、予選会で勝ち上がった10校だが、実はもう1チーム出場することができる。箱根に出られなかった“落選”大学から選手が寄せ集められる「選抜チーム」だ。

本書では、夢の舞台に臨む「連合チーム」の選手に加え、各校の監督、テレビマンたちの苦悩と奮闘も描いている。胸アツのストーリーを一気読みして、筆者が思い出したのは実際の箱根駅伝で起きた数々のドラマだった。毎年、取材している箱根駅伝では記事化できなかった分を含め、多くの悲喜こもごものエピソードがある。

例えば、『俺たちの箱根駅伝』で主なストーリーとなる「連合チーム」についてだ。

予選会を突破できなかった大学で編成される選抜チームが本選の箱根駅伝に出場するようになったのは第79回大会(2003年)から。当初は「関東学連選抜」と呼ばれており、翌80回記念大会は関東以外の選手も参加する「日本学連選抜」として出場している。

システムはたびたび変更しているが、選抜チームの最高順位をマークしたのが第84回大会(2008年)だ。当時は本選でシード権獲得となる「10位以内」に入ると、翌年の予選会の通過枠が1増えて11校となるシステムだった。そのため選手たちのモチベーションも高かった。しかも「関東学連選抜」の監督を務めたのが、それまで箱根駅伝で一度も指揮を執ったことがなかった(本選出場できなかった)青山学院大の原晋監督だ。2015年以降で計7回の優勝を飾る強豪校に成長する、はるか前の話である。

「最低目標は10位。それを達成するためには、みんなの気持ちをひとつにすることが大事です」

原監督は選手たちを鼓舞した。それに応え、選手たちも素晴らしい走りを重ねた。区間賞の獲得はなかったものの、4区久野雅浩(拓殖大)、6区佐藤雄治(平成国際大)、8区井村光孝(関東学院大)と区間2位の走者が3人もいたのだ。

何より印象深かったのは4区の好走を受けた、最長区間の5区。きつい箱根の山上り区間で福山真魚(上武大)を区間3位と好走したのも大きかった。たすきを渡すたびにもともとは所属の全く異なる大学の選手にもかかわらず、走者たちに化学反応が起こったのだ。

上武大勢として初めて箱根路に出場した福山のおかげで9位から4位へと急浮上し、往路を終えた。勢いがついたチームは、翌日、箱根から東京・大手町へと戻る復路で「3位以内」を目指して攻め込む。目標には届かなかったものの、現在でも「関東学連選抜」における最高順位となる4位でフィニッシュ。絶対的なヒーローがいなかったにもかかわらず、総合力で他の大学関係者も「信じられない」とつぶやいたビッグサプライズをやってのけたのだ。この年の選抜チームの戦いは今も語り継がれる伝説のレースとなっている。

■元「公務員ランナー」の川内優輝も選抜で6区を走った

選抜チームを率いた原監督は、その後、青学大を王者に導く。原監督のキャリアの中でもこの年の成功体験が大きかったことは間違いない。

『俺たちの箱根駅伝』は2年連続で本戦出場を逃した古豪・明誠学院大が“主役”になっている。10月の予選会を突破できなかったが、主将・隼人が関東学生連合のメンバーに選ばれて、仲間たちと本戦での“逆襲”を目論むことになる。選手の一人ひとりにドラマがある。

筆者が取材してきたなかで一番印象に残っているのが、大学卒業後、「公務員ランナー」として有名になる川内優輝(学習院大)だ。2年時と4年時に関東学連選抜で箱根駅伝に出場している。

ストックホルムマラソン2018(写真=Frankie Fouganthin/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

川内は高校時代(埼玉県立春日部東高校)、故障に悩まされ、思うような活躍ができなかった。一方、同学年のチームメイトには1500mで全日中(全日本中学校陸上競技選手権大会)とインターハイを制した高橋和也(早稲田大学に進学し、箱根駅伝に出場)というスピードランナーがいた。高校時代に経験した“大きな挫折”が大学時代の巨大なエネルギーになった。

「スピードでは高橋と勝負できないと思いましたが、山の合宿で高橋にはあまり負けなかったんです。当時から長い距離のほうが得意でしたね。特に山下りの練習では周囲がついてこられなかったので、高校2年生の頃は箱根駅伝の強豪校に行って、箱根の山下りの6区を走るという気持ちでした。でも、(高校時代に)一生懸命やっても報われないという状況に直面して、大学では楽しく陸上をやろうという気持ちに変わったんです」

川内は箱根駅伝に一度も出場したことがない学習院大に進学した。津田誠一監督は「頑張らない」という指導法だったが、これがかえって川内にフィットして急成長。あまり走り込まずに週に2回のポイント練習だけで、自己ベストを連発させたのだ。

そして大学2年時と同4年時に関東学連選抜のメンバーに選ばれる。第83回大会(2007年)は6区で区間6位と好走。さらには、第85回(2009年)は同じ6区で区間3位と存在感を発揮した。川内が勢いをつけた関東学連選抜は10区佐野弘明(麗澤大)が順位を3つ押し上げて、総合9位でゴールに飛び込んでいる。予選会での「増枠」を勝ち取り、選手たちは喜びをわかちあった。

なお6区は高校時代のチームメイトだった高橋が1年時(区間16位)に走った区間。川内のなかでも大学で“高橋超え”を果たしたかったという気持ちがあったはずだ。

川内は大学卒業後、埼玉県庁に入庁。「公務員ランナー」として多くのマラソン大会に出場し、好記録を連発するなど異次元の活躍を見せた。現在はプロランナーとして活動しており、駅伝の印象は薄いかもしれないが、川内は選抜チームに感謝の気持ちを抱いている。公務員時代にはこんなことを話していた。

「箱根駅伝を走ったことも大きな経験ですし、チームで知り合った仲間がライバルとなり、いまもいい刺激になっています。可能性をつぶさないためにも選抜チーム(という制度)を続けてほしいですね。いまの自分があるのも学習院大と学連選抜のおかげですから」

■箱根駅伝の10区間のレギュラー区間を巡るライバルとの戦い

『俺たちの箱根駅伝』に登場する明誠学院大の隼人は大学卒業後、家業を継ぐことになり、箱根駅伝が“ラストラン”となる。選手たちには家族がいて、仲間がいる。その絆も本書の見どころだ。

どの大学も箱根駅伝を走る者より、走らない者のほうが圧倒的に多い。そのなかでも部員たちは箱根駅伝という大きな目標に向かって、エネルギーを注いでいる。

日の当たらない場所でも数々のドラマがある。これまで取材してきたなかで、裏方の涙も印象に残っている。それは過去の早大にあった。

2017年度の4年生は長距離選手が6人だけだった(他に男子マネージャーが2名)。1年時の春には22〜23人の長距離部員がいたが、実力不足の選手は次々と退部した。早大は2年生の夏に学年から主務候補となる部員を1人だすというのが慣例になっていたが、そこで厳しい現実が待っていた。

1年生の箱根が終わった後、同学年で残った長距離部員は8人。そのなかから3人の選手がスタッフに呼ばれて、「このなかからマネージャーを出すから」と宣言された。3人のうちSとKは同じ高校だったのだ。

ふたりは愛知県の公立進学校の出身。ともに早稲田カラーの臙脂(えんじ)のユニフォームで箱根駅伝を走る夢を追いかけてきた。箱根駅伝に出場できるのは10人。出走の枠を勝ち取るレギュラー争いも熾烈だが、下位グループにも“負けられないバトル”があった。SとKは一緒に練習をしていても気まずさがあったという。そして2年生の7月下旬。学年ミーティングでSがマネージャーに選ばれた。

早稲田大学大隈講堂(写真=Arabrity/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

「僕は泣き虫なんですけど、その場では泣きませんでした。でも、ミーティングが終わって、ひとり暮らしの部屋に帰ってから泣きましたね。ひたすらひとりで。悔しくて。精神的にも参っていたので、最後の記録会を走った後に、『やっと解放される』という気持ちもあったんです。高校時代から一緒にやってきたKから『俺は今まで通り頑張るから』と言われて、それで腹をくくれた部分もあったのかなと思います」

Sは4年時に主務を務めて、チームを支えた。Kはというと、箱根駅伝のエントリー候補に名前が挙がるほど成長したものの、レギュラー枠の戦いに敗れ、夢はかなわなかった。

こういうエピソードを知ると、中継される箱根駅伝に奥行が出る。倒れんばかりに走る選手も立派だが、裏方として支える部員の気持ちや、本番を迎えるまでの彼らの汗と涙を思うと頭が下がる思いだ。

『俺たちの箱根駅伝』にはさまざまな立場の人間が登場する。それぞれに箱根駅伝があり、そのゴールのかたちも異なる。筆者が知っている箱根駅伝と少し違う部分もあるが、描き出される濃厚なドラマと人間模様に、いつしか自分の人生を照らし合わせて、胸がいっぱいになる。

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酒井 政人(さかい・まさと)
スポーツライター
1977年、愛知県生まれ。箱根駅伝に出場した経験を生かして、陸上競技・ランニングを中心に取材。現在は、『月刊陸上競技』をはじめ様々なメディアに執筆中。著書に『新・箱根駅伝 5区短縮で変わる勢力図』『東京五輪マラソンで日本がメダルを取るために必要なこと』など。最新刊に『箱根駅伝ノート』(ベストセラーズ)
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(スポーツライター 酒井 政人)