『虎に翼』少年法議論は過去の話じゃない。令和に受け継がれる寅子モデル・三淵嘉子の思い

写真拡大 (全3枚)

「自分ごと」という共感性だけでなく、さまざまな問いかけを生んだNHK連続テレビ小説『虎に翼』。9月25日の放送回では、少年法引き下げを議論する法制審議会少年法部会で、少年法引き下げに反対する寅子ら家庭裁判所側と引き下げを求める側が対峙する場面が描かれた。

「学生運動も下火になり、首相も法務大臣も代わりました。言い出しっぺがいないのに、形骸化した議論を重ねても。疲れるだけ。それでもこうして集まるのは、非行を犯してしまった子どもたちに、あらゆる方法で健全な育成を図りたい。その思いが、皆さんにあるからでは?なら不毛なことはいったんやめて、今日は、愛について語り合いませんか?」と笑顔で語った寅子。滝藤賢一が演じた多岐川の意志、「多岐川イズム」を受け継ぐ者たちが、少年法を守ったことが描かれた。

寅子のモデルとなった三淵嘉子の史実を振り返るこの企画。本記事では『三淵嘉子の生涯 人生を羽ばたいた‘’トラママ‘’』(佐賀千恵美著/内外出版社)や過去の書物などを参考に、寅子のモデルとなった三淵嘉の史実から、人生後半、心血注いだ家庭裁判所で、いかに少年(※1)と接し、どんなことを成し遂げたのか、史実や証言などを元に振り返る。

※1:女性の場合、少女と称することもあるが、司法の場合、「少年法」など性別を問わないので、少女も含む未成年という意味で「少年」と原稿内では使用する。

※文中敬称略

前例のないアクションにも挑戦した嘉子

嘉子が少年らと向き合ったのは家庭裁判所の調停室だけではない。

昭和40年代に入っても、貧しさから犯罪を引き起こす少年は少なくなかった。身寄りがない、親がいても育児を放棄しているネグレクト状態に置かれている少年も。

このような少年たちは、逮捕されても面会に来る保護者がいないため、着の身着のままだった。審判が決定し、家庭裁判所から補導委託先の施設に送るとき、替えの下着すら持っていない子どももいた。嘉子ら裁判官や調査官も、彼らの行く末を心配していたが、裁判所の予算で身の回りの品を支給することはできない。ときには見かねた、裁判官や調査官が自腹を切って、下着や着替え、洗面道具を買って持たせることも少なくなかったという。

そんな少年たちのために嘉子は、後輩の野田愛子と相談を重ね、家庭裁判所が『少年友の会』という名称のボランティア団体を作ることを提案。当初、裁判所がボランティア団体を作るなどという事には前例がなかったため、事務総局からは異論も出た。

しかし「国有財産は、役所のためにあるのではありません。国民のためにあるのではないですか。友の会の事務所をここに置くことは当然であり、必要な事です」と説得を続ける。そして持ち前のコミュニケーション力を発揮して、当時の上司にも協力を仰いで最高裁判判事15人全員を、この「友の会」の会員にしてしまう。司法のトップを味方(会員)につけることで、異論を説き伏せたのだ。

裁判官や調査官だけでなく、弁護士や法学部の学生など法曹界全体を巻き込んで立ち上げた少年友の会では、資金集めを目的に定期的にバザーが開かれた。嘉子は浦和家庭裁判所の所長時代にも少年友の会のバザーを企画し、嘉子自らが売り場に立った。その際、嘉子は巧みなセールストークでバザーへの提供品を1つ残らず完売させたという。

その後、少年友の会の活動はさらに広がり、少年審判に立ち会う「付添人」を務めるようになった。また、会員の大学生が少年に勉強を教える学習支援も始まった。2009年には全国50ヵ所すべての家庭裁判所に少年友の会が作られて、今なおその活動は活発で、嘉子の魂は引き継がれている。

ドラマ同様、笑顔で法制審議会少年部会に参加

少年法の年齢引き下げ問題にも、嘉子はそれを阻止すべく法制審議会少年部会に家庭裁判所の代表として委員となり、懸命に周囲を説得している。この場面は、9月25日放送回でも描かれた。

意見が対立する中、とげとげしい空気になった会議の場でも、嘉子はえくぼの浮かぶ笑顔をたたえ、噛んで含めるように意見を述べた。

ドラマでも、「私たちは確かな手応えを得ながら、調査官と日々、審判を行っております。あなたたちは何に手応えを感じていらっしゃるの?なーんて言い争うのも、もはや違うと思いませんか?」と寅子は笑顔で話していたが、セリフは異なるにせよ、あの雰囲気は史実に近いのかもしれない。

実際、嘉子の発言には対峙する法務省側の少年院幹部や検察官の委員まで、うなずく場面も見られたという。委員の中には嘉子のことを「菩薩さん」と呼ぶ人まで現れた。

嘉子は議論の途中の昭和47年に、新潟家庭裁判所の所長になって異動したが、東京から離れても、委員の中から「三淵さんには代わって(委員を辞めて)ほしくない」という声があがり、異例ではあるが委員を続けることになった。嘉子は会議に合わせて毎回、新潟から上京して参加している。

6年半の議論を経て、法制審議会少年法部会は、昭和51年12月「中間報告」を発表する。法務省が当初示した「要綱」にあった少年法の対象年齢引き下げは撤回された。

しかし、この中間報告には、家庭裁判所の審判に検察官が出席すること、検察官の抗告を認めることなども盛り込まれている。年齢の引き下げは阻止できたものの、検察の関与を強めた内容に、日弁連は猛反発。嘉子も周囲に「私たちができたのは、ここまでです」と当時、無念の思いを吐露している

今も続く、嘉子イズムともいえる「少年法」

そして、2017年にも少年法の年齢引き下げ論争が起こる。嘉子らが50年前に行った議論がまた繰り返されたのだ。2017年の議論のきっかけは、成人年齢が18歳に引き下げられたことに伴う検討だった(2018年6月に成立し、2022年4月1日に施行)。そのため弁護士や家庭裁判所などの関係者間では「今度こそ、対象年齢が引き下げられてしまうのでは」という懸念がささやかれた。

しかし、平成から令和にかけて行われた法制審議会でも「三淵さんたちが食い止めた成果を、今ここで失くすわけにはいかない」と、宇田川の意志を受け継ぎ、嘉子が守り通してきた想いに強く共感して、年齢引き下げ阻止の活動を熱心に続けた人は少なくなかったという。三淵嘉子ら家庭裁判所を生み、育ててきた家裁の先達の苦労と努力は、現在の法律家らにも語り継がれ、強く支持され続けているのだ。

最終的に2021年に行われた改正少年法では、20歳未満とする対象年齢は維持されることになった。ただし18歳と19歳を「特定少年」とし、原則的に逆送対象となる重大な事件を拡大するなど、厳罰化はさらに進んでいる。

それでも。いや、だからこそ、今、嘉子の言葉を噛みしめたい。

「少年審判の場で『お前は悪いことをしたんだ』『けしからん』と説教をしても、少年は決してそれを受け入れようとはしません。なぜあなたがこういうことをしたんだろう、どうしてこういうことになったのか自分でよく考えてみて、何が問題だと思うのかを親切丁寧に、和やかな雰囲気の場で話すうちに、少年自身が自分のやったことを自分なりに考えていく。

こちらから教えるのではなく、自分自身が自覚するするチャンスがそこで生まれてくるのです。少年審判は決して脅すとか、説教するとか、しかりつける場ではなく、少年自身が自分自身を反省する場だと、私は思って今まで審判をしてまいりました」(三淵嘉子の回想より)

嘉子が生きた時代から、今さらに犯罪は複雑化している。まったく知らぬもの同士がネットを通して知り合い犯罪に加担することもある……。振り込め詐欺や強盗などの裏バイト、詐欺まがいのパパ活、ホストに貢ぐための売春、家庭に居場所がないトー横キッズ……。そして、昔以上に本音を吐き出せない子どもたちや貧困に直面する子どもも増えている。

SNSには少年たちの犯罪に厳罰化を求める声も多いが、果たしてそれですべてが解決するのだろうか。私たち大人たちは嘉子のように、「彼らの話を聞きたい」という姿勢を果たしてどれだけ持っているのだろうか。少年にまつわる犯罪や問題行為が社会から厳しく注視される今こそ、「愛の裁判所」を実践した嘉子の想いを改めて考えてみたいと思う。

【参考文献】

・『三淵嘉子と家庭裁判所』(清永聡編著/日本評論社)

・『三淵嘉子の生涯〜人生を羽ばたいた“トラママ”』(佐賀千恵美著/内外出版社)

・『女性法曹のあけぼの』(佐賀千恵美著/ 金壽堂出版)

『虎に翼』寅子モデル三淵嘉子が「美佐江たち」支えつづけたた”愛の裁判所”の史実