北野武監督の最新映画『首』が11月23日に公開された。北野監督も秀吉(ビートたけし)として出演(写真:映画『首』公式サイトより)

北野武監督の最新映画『首』が11月23日に、ついに公開された。今年5月に行われたカンヌ国際映画祭では大きく話題になったが、「映画通」の文芸評論家・高澤秀次氏はどう評価するか──。

高澤氏は「日本映画大学」の前身となる「日本映画学校」では講師を務め、近畿大学大学院では大島渚、吉田喜重、鈴木清順などの作品について講義を行い、苫小牧駒澤大学(現・北洋大学)では宮崎駿全作品の解読も行っている。

北野武監督に関しては1985年に『ビートたけしの過激発想の構造』(KKベストブック)を上梓したことがある高澤氏が、新作映画『首』について独自目線でひもといていく。

※本記事は多くのネタバレを含んでいますので、まだ映画を観ていない人はご注意ください。

この記事のつづき:北野武新作「首」、プロが見た驚きの感想【後編】

黒澤明から「お墨付き」をいただいていた作品だった

『アウトレイジ最終章』以来、6年ぶりとなる北野武監督の新作『首』は、諸般の事情で、難産の末の「価値ある失敗作」とならざるをえなかった。

構想からなんと30年、宣伝文によると、かの黒澤明から「北野くんがこれを撮れば、『七人の侍』と並ぶ傑作が生まれるはず」との「お墨付き」をいただいたという本編。

本能寺の変をめぐるこの新作時代劇(『座頭市』から20年ぶりとなる)は、実は2年前の2021年10月にはクランクアップしていた

それが、今年5月のカンヌ国際映画祭でのプレミア上映にぎりぎり間に合うまで完成が遅れたのは、編集過程での製作会社KADOKAWAと北野サイドとの関係のこじれが作用していたようだ。

そもそもこの作品は、昨年9月、東京オリンピック・パラリンピックのスポンサー契約問題で逮捕された角川歴彦会長直々の「案件」だったといわれる。

その大物プロデューサー逮捕、役員辞任の影響で、一時はお蔵入りの噂さえあった『首』には、実はそれだけではない「悪条件」が重なっていた

映画的な強度が低下し「散漫な印象」が残った

まず、これまで北野作品を支えつづけてきた森昌行プロデューサーとの「決別」という事態だ。

事の起こりは、2018年3月の「オフィス北野」の分裂問題にあった。これにより森氏は同社にとどまり、北野武は新たに「T.Nゴン」という個人事務所を立ち上げ、事実上2人の関係は絶たれることになる。

映画製作に直接は無関係ではあるが、この時期の北野武のもう1つの節目となったのは、2019年の離婚だろう。そして今年5月のカンヌには、再婚相手の北野夫人が監督とそろってレッドカーペットを踏むという、ちょっとしたハプニングもあった。

満を持しての『首』は、だから、新生・北野武の試金石となるべき映画であったはずだ。

それが、『七人の侍』と並ぶどころか、時代劇としておよそ成功作とは言いがたい出来になったのは、端的に緻密さに欠ける編集のために、映画的な強度が低下し、全体に散漫な印象を残したからである。

この作品は、「小ぶりな協奏曲」ではなく「大がかりな交響曲」なのだ。

それにしては映画的オーケストレーション(編集・構成)の粗さが目立ち、手放しでは推しにくい出来上がりと言わざるをえない。

北野監督は、本作で脚本とともに編集も担当している。

失敗の要因は森昌行の不在、ならびに角川歴彦の途中離脱という悪条件により、仕上げ編集を最終的にチェックする役割を失った監督の孤軍奮闘が、結果的にマイナスに出たと見るべきだろう。

物語は信長(加瀬亮)に反旗を翻した側近の武将・荒木村重(遠藤憲一)の「首」をめぐって動き出す

村重は巧みに逃げ回った揚げ句に生け捕りにされ、秀吉(ビートたけし)の配下に取り入れられた元甲賀忍者・曾呂利新左衛門(木村祐一)、大名と忍者をつなぐエージェント千利休(岸部一徳)を介して、明智光秀(西島秀俊)の元に届けられる。


明智光秀(西島秀俊)(写真:映画『首』公式サイトより)

結局それが、本能寺の変を招く引き金となるのだが、そこに光秀・村重の男色関係が加わり、狂気を孕んだ信長の恰好のハラスメント犠牲者となる光秀の孤独な情念に絡んでくる

光秀は村重の描いた反信長の筋書きどおりに動くのだが、決起の直前に村重を密かに葬る。一人勝ちを目論んだ末の自滅である。

村重の「首」は、ついに信長の元に回収されずに終わるわけだが、「首」の主題はまた別の物語的な展開の中で反復される。

それは、2019年に刊行された原作『首』(北野武著・KADOKAWA)に基づいている。だがしかし、これは到底「歴史小説」などと呼べる代物ではなく、せいぜい映画化のためのシノプシスにすぎない

「正史と偽史」「主音声と副音声」が不整合にもつれ合う

問題はこの原作の構成上の欠陥にあった。それが映画『首』の編集上の問題に直結してくるのだ。

原作にもある北野武のオリジナルな歴史仮説は、闇のルートから秀吉の手に入った信長の息子・信忠宛ての権力委譲を明言する手紙にある。

その虚構的な設定自体に問題があるわけではない。

秀吉、光秀、家康(小林薫)は、それぞれに裏世界で活躍する忍(しのび)を雇っているのだが、その表世界との関係が、原作でも映画でも、構成的に十分整理されてはいないのだ。

言い換えるなら、「正史と偽史」「主音声と副音声」が不整合にもつれ合っている状態である。

それによって、人間関係がいたずらに複雑になり、ストーリーが不用意に難解になる。

とくに信長の息子宛の書状を所持している甲賀の里の盲目の切支丹・多羅尾光源坊という存在が、この役は無用だったのではと思われるほど、奇怪でわかりにくい。

曾呂利新左衛門の兄貴分の多羅尾四郎兵衛(寺島進)が、光源坊の配下にあり、書状は曾呂利を介して秀吉の元に届き、跡目への期待を裏切られた秀吉も信長への忠誠を裏切る腹を固める。

ポスト信長レースで貧乏くじを引いたのは、村重の示唆というより、秀吉の挑発に乗って先に動いた光秀ということになるが、さてそこで「首」をめぐるもう1つの主題はどう処理されただろうか。

ここに首の価値など歯牙にもかけない農民上がりの秀吉と、敵の首を差し出して武士に成り上がろうとあがく丹波篠山の農民・茂助(中村獅童)のコントラストが浮き彫りにされる。

全編これでもかと言うように生首が飛び交う本編で、「首フェティシズム」への嫌悪とその不毛さを、北野武は「俺は百姓だ」という秀吉のせりふで鮮やかに描きだす。それが成り上がり者の真っ当な「正気」だ、とでも言うように。


(写真:映画『首』公式サイトより)

実は「ただの失敗作」とは言えない「問題作」

つまりこの映画は、敵将の首の争奪に明け暮れる武士や、その予備軍たる百姓の不毛な争いを冷ややかに見守る秀吉の勝利による、反・「首」的な主題をこそあぶり出していることになる。

実はそれこそが、この作品を「ただの失敗作」とは言えない「問題作」にしている要因なのだが、そこには北野監督のセクシュアリティーの表現の問題も絡んでくる

この記事の後編では、そのあたりを改めて詳しく論じよう。

*この記事のつづき:北野武新作「首」、プロが見た驚きの感想【後編】

(高澤 秀次 : 文芸評論家)