天下人への道を駆け上る秀吉に接見した石川数正が目にしたのは、歴然とした力の差でした(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第32回「小牧長久手の激闘」では、大軍を率いる秀吉と家康が激突した一連の戦の序盤で、家康が勝利した場面が描かれました。第33回「裏切り者」では、地力に勝る秀吉が巻き返しを図ります。その過程で重要な決断をした徳川家臣団の重鎮、石川数正について『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。

石川数正は幼少のころから松平元康(家康)に仕えていた側近中の側近です。元康が今川家の人質だったころも、9歳年上の数正は駿府に随行していました。

1560年、数正が27歳のときに桶狭間の合戦で今川義元が討ち取られ、これを契機に元康は松平家の独立を目指します。

ここで問題になったのが、元康の妻子でした。妻の瀬名(築山殿)、長男の信康、長女の亀姫は駿府に残されていたからです。数正は、このとき今川家の重臣・鵜殿長照の2人の息子と、瀬名・信康・亀姫の交換という難しい交渉を見事に成功させます。

さらに今川家から独立したことで、西の織田家と同盟を結ぶ必要が生じました。このときも数正は松平家の代表として織田方と交渉し、対等な形での同盟を成し遂げます。武骨者の多い三河衆のなかで、数正の外交官としての能力は貴重でした。

厚い忠誠心で家老に任じられる

数正の活躍もあり独立を果たした元康に、内政での危機が訪れます。

「神君三大危機」の1つ、三河一向一揆の勃発です。このとき多数の家臣が家康に背き、一向一揆に加わりました。数正の父・康正も元康から離反しました(一説には既に死去していたともあります)が、数正は浄土宗に改宗して一揆の鎮圧に努めます。

この厚い忠誠心と類まれなる外交能力を買われ、数正は叔父の石川家成とともに家老に任じられました。元康による信頼の厚さは、数正を嫡男・信康の後見人に指名したことからもわかります。この人事で数正は、岡崎衆の筆頭になりました。

数正は駿府にもいたため、正室であり信康の母である築山殿もよく知っていたという事情もあったのかもしれません。

数正は外交や内政に長けているだけでなく、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど主要な合戦には全て出陣し武功をあげています。浜松の酒井忠次と岡崎の数正は、まさに徳川(松平)家の両翼と呼ぶべき存在だったのです。

順調だった数正の人生に、暗い影を落とす事件が起こります。それが、家康の嫡子・信康と正室・築山殿の事件です。信康・築山殿が武田と内通していると、信康の妻であり信長の娘である五徳が父・信長に密告したことから信康及び築山殿の処罰が決定し、家康は信長の命に従わざるを得なかったというものです。

信康の後見人である数正にとって、これは致命的な落ち度でした。ちなみに、この事件の4年前にも武田勝頼による工作で大賀弥四郎が謀反を企てた事件があり、このときは大賀弥四郎らが極刑に処せられました。

家康は、信長に申し開きをするために重臣の酒井忠次を信長の下へ送ります。忠次は結局、ここで申し開きができず、家康は信長の圧力に耐えかねて妻子を殺すことを選択したというのが通説です。

しかし違和感があるのは、もし家康が本当に信康・築山殿を救うつもりなら、なぜ数正を使者に立てなかったのでしょうか。

数正は、かつて今川氏真の下から信康・築山殿を救い出した先例もあり、何よりも織田・徳川の同盟をまとめ上げた徳川家随一の外交官です。

そして、信康の後見人という当事者でもあります。

家康からの信頼が一際厚かった数正

その数正を差し置いて浜松側の重臣である忠次を送ったのは、じつは家康自身が信康・築山殿の処罰を考えていたからではないでしょうか。信長には、信康が信長の婿であるという関係上、許可を得るために忠次を送ったとも考えられます。

それを裏付けるかのように、後見人である数正は罰せられることはなく岡崎城代に任じられました。これは家康からの信任が厚いことを示しています。

しかしながら、嫡男の自害という事実は重く、岡崎でも信康の側近らの粛清もあり、数正の家中での評判は良いものではなかったようです。数正は次第に家中で浮いた存在になっていきます。

それでも家康は数正への信頼を変えることはなく、また対外的にも徳川家を代表する重臣の一人でした。本能寺の変直前の安土城での信長の接待にも招待されていますし、その後の堺への見物にも同行、伊賀越えの際も家康に付き従っています。

本能寺の変の後、明智光秀を倒した羽柴秀吉が台頭してくると、家康はこの秀吉への対応を考えなければならなくなってきました。この難題を、家康は数正に任せます。

数正にとっては久しぶりの大仕事でした。

数正は、秀吉と面会し交渉を続けるうちに秀吉と対決するよりも恭順していくほうがいいのではないかと考え始めます。

もともと数正の外交方針は、なるべく戦は避けるというものです。織田との同盟の際も、織田は先代から争ってきた相手で家中でも反対意見が多かったのを、数正は信長の能力を認め、同盟と家中の方針をまとめました。

秀吉と面会した数正は、秀吉の人となり、そしてその勢いを見極め、争うのは危険と考えたのでしょう。しかし、数正の意見は家中では受け入れられません。

そもそも徳川家は織田家と形式上は対等な同盟関係にあり、その織田家の家臣である秀吉にひざまずくなど考えられないことでした。

家康の心中はわかりませんが、結果だけ見ると、家康もまた数正の意見を取り上げず、織田信雄の要請を受け、秀吉と全面対決を行います。

それが小牧長久手の合戦です。

数正も参戦したこの戦いで、家康は局地的な勝利を収めました。しかし信雄が勝手に秀吉と講和したため、秀吉と対立した事実だけが残り、今度は単独で秀吉と相対さなければならなくなります。


関白にまで上り詰めた秀吉にとって、天下はすでに手の届く存在でした(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

数正出奔の謎

小牧長久手の合戦の翌年の1585年11月に数正は突然、徳川家を出奔し、秀吉の下に走ります。この数正の行動の理由には諸説あり、真実は定かではありません。

秀吉は着々と徳川攻めの構想を立てていた状況で、交渉役である数正は、ある程度このことを知っていたと思われます。

信雄と同盟し、四国の長宗我部らと秀吉包囲網を引いていた状況ならまだしも、この包囲網は信雄の離脱で崩壊。秀吉は着々と徳川家以外の反対勢力を潰しており、数正の目には、とても勝ち目がないと見えたのでしょう。

もしも家康が秀吉に講和を申し込んだとしても、この時点では秀吉が受ける可能性は低い。仮に講和しても信雄同様、領地の半分を失うような屈辱的な条件を突きつけられることは不可避です。

数正としては家康を見限るほかなかったのかもしれません。

家中での孤立もあったでしょうし、自分が秀吉に降伏することによって、家康に秀吉との対立姿勢を改めさせる考えがあったことも考えられます。おそらく、そのすべてが原因だったのではないでしょうか。

秀吉は数正に河内8万石を与えます。

数正は秀吉の下で冷遇を受けたという見方もありますが、綺羅星の如き武勇を誇る秀吉麾下の武将と比べても決して低い待遇ではありません。

秀吉亡き後、関ヶ原の合戦へ

また秀吉は自分の諱を与えます。

これにより数正は名を吉輝に改めます。これは数正にとって、家康からの真の訣別だったのかもしれません。秀吉の徳川攻めは紆余曲折あって頓挫し、家康は秀吉に臣従します。数正としては当初、願った通りになりました。


家康が江戸に転封されると、数正はさらに加増され、松本10万石を与えられます。

秀吉からの高い評価がうかがえる好待遇です。

そして数正は1593年、61歳で肥前にて、その生涯を閉じました。

秀吉は数正の子どもたちに領地を引き続き与えます。秀吉亡き後、数正の家督を継いだ康長は、関ヶ原の合戦のおりに東軍についたことで徳川陣営とみなされます。

しかし、その扱いは外様大名であり、徳川家への帰参とはみなされませんでした。その後、親戚であった大久保長安の事件に連座し、石川家は家康によって取り潰されます。

家康の石川家に対する心情は、どんなものだったのでしょうか。

それを示すものは、どこにも残されてはいません。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)