大坂城(写真: shiii / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は家康が豊臣家の家臣になった背景を解説する。

天正14年(1586)10月14日、徳川家康は、豊臣秀吉の要請に従い、上洛の途についた。小牧・長久手の戦い(1584年3月〜11月)で、秀吉と刃を交えてから、約2年。両者はついに、対面の時を迎えようとしていた。

秀吉はこれより前に、妹の朝日姫を正室として家康に嫁がせ、また母・大政所を三河に下向させている。

上洛をためらっていた家康

上洛中に秀吉の気が変わり、自身に切腹を命じるかもしれない。もしも家康が切腹させられたら、怒りが爆発した徳川方と豊臣方で戦になる可能性もある。戦になれば、死者も多く出ることだろう。

家康はそう思い、上洛をためらっていた。そこで秀吉は、大政所を家康が上洛している間の人質として下向させたのだ。ここまで秀吉がしてきたならば、家康も覚悟を決めて上洛しなければならない。

「私1人が腹を切って、多くの人命を助ける」(『三河物語』)との想いで、家康は西に向かう。

10月26日、摂津国の大坂に着いた家康。宿所は羽柴秀長(秀吉の弟)の屋敷であった。翌日、秀吉と家康は大坂城で対面する予定であったが、この日の夜に、秀吉が突如、家康の宿所に姿を現すのである。

この場面は大河ドラマ、時代劇でよく描かれるが、創作ではないかと思っている読者もいるかもしれない。

しかし、家康の家臣・松平家忠の日記『家忠日記』には、秀吉が家康の宿所を訪れたことが記されているのだ。秀吉は家康の手をとり、奥の座敷に案内、自らの想いを述べ、交流を深める。秀吉はよく「人たらし」などと評されるが「家康の手をとり」というところにも、その性格が表れているように感じる。

その夜は酒宴となった。秀吉が家康にまず酒をつぐ。そして次に家康が酒をつぎ、秀吉に勧めた。家康の宿所を秀吉が訪れたことは『徳川実紀』にも記されている。秀吉は久々の家康との対面に喜んだという。そして、秀吉は家康の耳に口を寄せ、次のように囁いたと言われる。

「家康殿もご存じのように、今、私は位人臣を極め、勢威、四海を席巻している。が、もともとは松下氏の草履取りで奴僕であった。信長様に取立てられ、武士の交わりを得た身なので、天下の諸侯は私に畏服するように見えて、実は心より信服しておらん。今、家臣となっている者も、元来は同僚、私を実の主君とは思っていない。近日、私と公に対面するときは、そのことをよく弁えてほしい。この秀吉に天下を取らせるも、失わせるも、家康殿のお心一つ」と。

家康は秀吉の頼みを受けて「すでに、御妹君(朝日姫)を頂戴し、またこのように上洛している以上、秀吉様の立場が悪くなるようには振る舞いません」と答えた。

家康の言葉を聞き、喜んだ秀吉

秀吉はその言葉を聞いて、大いに喜んだという。ここの箇所は、まさに会談を見てきたような描き方だが、両者が本当にこのようなやり取りをしたかまではわからない。

翌日、家康は大坂城に向かった。秀吉に臣従の礼をとり、家康から秀吉へは、馬十疋、金子百枚、梨地の太刀が献上された。

一方、秀吉からは白雲壺、正宗の脇差、唐の羽織が家康に与えられた。『徳川実紀』には、大坂城での対面の際、家康が秀吉に、とても敬服し額ずいたので、それを見た諸大名たちは「徳川殿であっても、こうなのじゃ。われわれがどうして秀吉を軽侮できよう」と、秀吉を敬うようになったという。

秀吉は喜び「その昔、越前の金ヶ崎で私は討死するはずであったが、家康殿のお情けにより虎口を逃れ(非常に危険な状態から、なんとか逃げ出し)、今のこの立場となった。その御恩、忘れることができようか」と家康に感謝の意を示した。

同書(『徳川実紀』)には、もう1つ有名な逸話が記載されている。家康が秀吉に「秀吉様の陣羽織を頂戴したい」と言上したという話である。秀吉がその理由を問うと「殿下(秀吉)に二度と物の具(武具)を着用させない」(戦があった時は、この家康が敵を征伐する)との家康の返答があり、秀吉がたいそう喜んで陣羽織を家康に与えたのだ。

この逸話は、家康が急に「陣羽織を頂戴したい」と申し出たかのように思われているが、これには前段階がある。秀長と浅野長政が、家康に「殿下に陣羽織を所望されては。二度と殿下に鎧を着けさせないと申し上げれば、殿下もどれほど喜ばれるであろうか」と前もってアドバイスしているのである。

秀吉の弟にまつわる不穏な話も

それはさておき『三河物語』には、秀吉の弟・秀長にまつわる不穏な話が記されている。同書によると、秀吉は家康をやはり危険だと感じ、毒殺しようとしたという。

家康に毒を飲まそうとして、振る舞われた料理の中に毒を入れた。家康は食事の際、上座にいたが、秀長に遠慮し、下座に回った。家康が飲むはずだった毒を、秀長が飲むことになり、秀長は死んだという物騒な話が記されているのだ。

だが、この話は噂話程度であり、『三河物語』の筆者である大久保忠教が書き記したにすぎないだろう。秀長が死んだのは天正19年(1591)のことだ。家康の上洛時は、天正14年(1586)。5年の歳月が流れている。家康を毒殺しようとするほどの毒なら、すぐに亡くなるはずだ。

秀長の死は毒とは無関係だろうし、秀吉が家康を毒殺しようとしたというのも根拠がなく、現実的ではないだろう。家康を殺せば、大政所(秀吉母)や、最悪の場合、朝日姫まで三河武士に殺されてしまう可能性があるからだ。

さて、家康は11月11日に岡崎城に帰還した。家臣たちは、家康の無事の帰国を喜び「めでたい」と喜び合ったという(『三河物語』)。その翌日には、井伊直政に命じて、大政所を送り返させている。家康が無事に帰国した今、大政所の人質としての役割は終わったのである。家康は秀吉に臣従した。ここに「豊臣家臣 徳川家康」としての活動が始まる。家康の新たな人生のスタートと言えよう。

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)