@AUTOCAR

写真拡大 (全5枚)

雰囲気が異なる2+2のグランドツアラー

イスレロという名は、闘牛士のマヌエル・ロドリゲス氏の命を奪った雄牛を由来とした。1960年代後半、2+2のグランドツアラーを生み出していたランボルギーニだが、その前後のモデルとは少し雰囲気が異なるように受け取れる。

【画像】美しい400GTの後継 ランボルギーニ・イスレロ S ミウラと最新カウンタック、ウルスも 全100枚

ミドシップ・スーパーカーのミウラや、同じく2+2のグランドツアラーだったエスパーダも極めて個性的なモデルだった。しかし同時期に生産されていたイスレロは、そのどちらとも違う。


ランボルギーニ・イスレロ S(1969〜1970年/英国仕様)

ブラックに輝く縦型のエンブレムを確認しなければ、どこのブランドなのか想像しにくい。スイスに存在したモンテヴェルディのマークが付いていても、不自然には感じないかもしれない。

このイスレロは、ランボルギーニを創業したフェルッチオ・ランボルギーニ氏が直接考案した4台目のモデルに当たる。柔らかな曲線のボディに包まれた400GTの後継モデルで、継続採用されたメカニズムなどは多い。

スチールパイプが組まれた、チューブラー・シャシーという骨格も同じ。だが、長さは少し短く幅は広い。車重が意識され、150kgも軽く仕上がっていた。

発表されたのは1968年のジュネーブ・モーターショー。ボディを手掛けたのは、ランボルギーニ350GTを手掛けるものの活動停止が迫っていた、カロッツェリア・トゥーリング社に在籍したマリオ・マラッツィ氏だ。

エンジンは4.0L DOHC V型12気筒

1966年のミウラで大反響を集めたことで、若き創業者が得た自信から導かれた新モデルだったのかもしれない。フェルッチオの指示通り、シックなビジネスマンが乗りこなせるグランドツアラーを、ランボルギーニの技術者は完成させた。

イスレロでも、前後にディスクブレーキと独立懸架式サスペンションを採用。内装はゴージャスに仕立てられ、ミウラに迫る動力性能が洗練されたパッケージングでまとめられている。目の肥えた顧客へ応えられるように。


ランボルギーニ・イスレロ S(1969〜1970年/英国仕様)

フロントに搭載されるエンジンは、技術者のジョット・ビッツァリーニ氏が設計した4.0L DOHCのオールアルミ製V型12気筒。ジャンパオロ・ダラーラ氏によって調整が加えられ、最高出力は当初330psを発揮した。

その結果、得られた0-97km/h加速は6.0秒。最高速度は257km/hで、ミウラを凌駕する高速安定性を発揮したという。

生産開始から1年後の1969年、125台が完成したところでイスレロ Sへアップグレード。最高出力が25ps増強され、フェンダーは膨らみを増した。車内換気を目的にボンネットへエアスクープが設けられ、ダッシュボードも変更されている。

1970年、100台のイスレロ Sが生産されモデルライフは終了。北米市場を強く意識したハラマへ交代している。

右ハンドルのイスレロ Sは5台だけ作られ、2台が英国へ上陸した。今振り返ると、なぜこれほど少数しか売れなかったのか不思議だ。当時の英国価格は8000ポンドとランボルギーニとしては安く、ミウラやエスパーダより2000ポンド以上も下回っていた。

新車時から一家が乗り継いできた「S」

フェルッチオ自身だけでなく、フランス出身の大女優、ブリジット・バルドーもイスレロに乗っていた。1970年のサイコスリラー映画「悪魔の虚像」にも登場している。

2008年、AUTOCARの姉妹誌がイスレロ Sへ試乗。その際、英国のランボルギーニで31年も勤めたデル・ホプキンス氏は次のように教えてくれた。


ランボルギーニ・イスレロ S(1969〜1970年/英国仕様)

「英国で登録されたイスレロのもう1台は、バハマの州知事が所有しています。メンテナンスのために、定期的にサンタアガタに戻されていました」。それがまさに、今回のイスレロ S。彼の記憶は間違っていたが、右ハンドルの特別なランボルギーニだ。

1969年式で、シャシー番号は6435が振られ、エンジン番号は50140。モデル自体が非常に珍しいが、特にこの例の場合は、新車当時から一家によって乗り継がれてきたという点で価値が高い。

1906年生まれだった初代オーナーのビル・ガースウェイト氏は、海上保険会社を設立した後にバハマへ移住した父を持っていた。第二次大戦では英国海軍予備員へ加わり、ビスマルクへの攻撃に参加。殊勲十字章を受けている。

ビルは1961年にジャガーEタイプを購入。クルマ好きの人生を歩み始めた。程なくしてイタリアン・エキゾチックへの興味が高まり、デモ車両のイスレロ Sを直接購入するべく、イタリアの工場へ向かっている。

ところが公式ディーラーを通じて以外、ランボルギーニの販売は許されていなかった。そこでバハマと英国の国籍を持っていた彼は、その場でバハマのディラーになる契約を結び、自分へクルマを販売した。

毎年恒例のサンタアガタでのメンテナンス

1969年10月22日、フル装備のイスレロ Sを7000ポンドでランボルギーニから仕入れ、5000ポンド上乗せしビル本人のものとした。クルマが登録されたのはバハマの島、ナッソー。実際に届けられたのは、自宅がある英国ケント州のマットフィールドだった。

彼はフランスへの旅行やカジノでの娯楽の度に、イスレロ Sを使った。息子の1人とともにフランスの競馬クラブへ立ち寄り、その後にイタリアへ向かいサンタアガタでメンテナンスしてもらいながらベニスで休暇を楽しむという、毎年恒例の行事も組まれた。


ランボルギーニ・イスレロ S(1969〜1970年/英国仕様)

この定期的なランボルギーニへの訪問で、ビルはテストドライバーのヴァレンティーノ・バルボーニ氏やボブ・ウォレス氏と友人関係を築いた。モデナでは、定宿の部屋番号を指定できるほどだった。

ある年、サンタアガタから英国への帰路でクラッチの感触に不満を感じた彼は、2か月後に再訪。調整を受けているが、1速と2速のつながりにくさは変わらなかったという。

ビルが1993年にこの世を去ると、息子のマーク・ガースウェイト氏が残り3人の兄弟の意見をまとめ2代目オーナーに。それ以来、イスレロ Sを大切に維持している。

マークはヒルクライムやスネッタートン・サーキットでの走行会などで、ランボルギーニを積極的に走らせてきた。4.0L V12エンジンと5速MTは、リビルドが施されている。

ボディカラーはオリジナルではビアンコ、ホワイトだったが、ジャッロ・ソーレというイエローへ塗り替えられた。お出かけは、妻のヴィッキーと一緒が常らしい。

この続きは後編にて。